サティ
雲が速い。
振り向きもせず歩み去っていく兄貴を見送るサティの後姿がとても寂しそうで、僕は言いようの無い気分で空を見ていた。風が強く、着込んでいても肌寒い。
いつまでもいつまでも、芥子粒のような点になっても、サティは手を振り続けた。だから僕は、見晴らしのいい村のはずれの丘の上に立ってい続けなければならなかった。あまりに寒くて、足踏みしてみたけど、ちっとも暖かくならない。
サティと兄貴は結婚して一週間しか一緒にいられなかった。兄貴は二十一歳。サティは十九歳。僕は十一歳。両親が死んで四年、ずっと兄貴と二人きりだった家に、女の人がいるというのは不思議なもので、なんだか空気がふわふわと暖かい気がして――兄貴以上に僕が喜んでいたのもつかの間のことだった。
兄貴に徴兵が掛かったのはそれより一ヶ月くらい前だったそうだ。それを知ったのは兄貴が旅立つ前日の夜。夕食のとき。兄貴が言いにくそうに僕とサティに打ち明けた。このところ兄貴の様子がおかしいことはわかっていたけれど、それはサティと結婚したからだと思っていた。
サティは元々、隣町の大きなお屋敷のお嬢さんだった。旦那さん――サティの親父さんを訪ねていった兄貴との間でいろいろあり、兄貴を追いかける形で家を飛び出して来たということだった。その辺の込み入った事情は、隣のおしゃべり好きのおばさんさえ、はぐらかすばかりで教えてくれなかったから、今でもわからない。兄貴も村の人たちもずいぶんサティを説得したんだけれど、聞く耳無く、兄貴は腹をくくって結婚した。
兄貴の徴兵のことは、僕もサティも寝耳に水だった。最初は僕とサティが大騒ぎしていたのだけど、兄貴の説明にサティはしぶしぶといった様子ながら納得し、僕一人が孤立した。子供の僕には税金も法令も難しいことだったし、兄貴がいなくなることが一番重要で、理由を知りたいわけじゃなかった。
兄貴は朝から晩まで農地を耕していた。でも、両親がいた頃でさえ手入れが行き届かなかったのだから、兄貴一人でどうにかできるわけもなく、いつも貧乏で――うちは税金を払うゆとりなんてなかった。それまでは、うちの事情を知る旦那さんに税金を肩代わりしてもらっていたらしいが、サティと兄貴の間がばれてからは門前払いされるようになったらしい。
「何年なの?」
静かな声で、サティは言った。うちのような農家だと、所有している畑の大きさで収める穀物の量が決まっていて、足りなければお金を払わなければいけなかった。徴兵は税金を払わなかった期間分行くことになる。
「短くても四年。もしくはそれより長く」
「うちのパパが手をまわしたのね」
「……言いたくないけど、たぶんそう」
両親が死んでから四年。払ったはずの税金は全て未納ということにされたようだった。兄が旅立った後、残されるのは僕とサティだけ。当然、僕らに税金を払うことなんて不可能だから、兄貴の軍隊暮らしは伸びる一方。サティが実家に帰るよう、旦那さんが仕組んだのは明白だった。
「ごめんなさい」
大粒の涙をこぼしながら、サティは声を絞り出す。
「君のせいじゃない。旦那さんにも感謝してる。それに、いずれこうなるって覚悟もしてた」
弱い笑みを浮かべていたけれど、つらそうな色を隠すことはできていなくて。僕もサティも一晩中、涙が枯れるんじゃないかと思うくらい泣いた。だから兄貴は振り向きもせず、歩いていったのだと思う。
雲が速い。
仕事の手を休めて、僕は空を見上げた。汗ばんだ体には、気持ちいい風が吹いている。兄が旅立ってから、もうすぐ四年になる。
僕もサティも仕事を掛け持って、ギリギリの生活をしながらも税金を払っている。兄貴が心血注いでいたうちの農地は僕がいない今では荒れ放題で、帰ってきたらきっと怒るだろう。
サティは子供のころ、城下町にある寄宿学校に入っていたから、文字の読み書きや裁縫ができた。週に一度、サティの父の手の届かない、遠くの町まで出かけて行って、そんなこまごまとした仕事をもらい、普段は村の飲食屋で給仕をさせてもらっている。
僕は、家から一番近い畑だけを耕し、村のあちこちで手伝いをして小遣いを稼いだ。十三歳になってからは出稼ぎに出た。別れ際、サティが寂しそうな顔をしたから、月に一度は手紙を書くと約束した。サティに文字の書き方を教えてもらっていたから、僕は文字の読み書きができた。手紙を出すなんて贅沢なことだけれど、顔を見せに帰ることのほうが、出費が大きかったから。
もうすぐ兄貴が帰ってくる。
「今日までなんだな」
嬉しい気持ちが顔に出ていたらしい。僕を雇ってくれている親爺さんに声を掛けられた。無口な人だから、こうやって声を掛けられるなんて滅多に無い。
「はい。お世話になりました」
「でも、お前が家に帰ったところで兄貴夫婦がいちゃ、また、家を出なきゃならないだろ?」
「そうですが……しばらくは置いてくれますよ」
兄貴夫婦は結婚して四年経つけど、一週間しか一緒にいなかったからまだまだ新婚なのだ。やっと三人一緒に暮らせるという喜びの方が大きくて、自分が邪魔者なんだってことは考えないようにしていた。
「お前の後《あと》、見つけてないんだ」
つぶやくように言った親爺さんの言葉に驚いて、顔をあげる。人当たりのよさそうな、いつもの顔。
「冗談だよ」
俺の顔がよっぽどおかしかったのか、のどの奥でくつくつ笑った。仕事には容赦無いが人のいい親爺さんと別れ、村への帰途につく。
朝から歩いて、昼前に村へついた。二年ぶりの我が家。二年前に比べて小さく見える。扉を開けると、美味そうなスープのにおいがした。
「ただいま」
「お帰り」
入って一番奥に台所がある。貧乏でも、田舎だから建物ばかりやたら大きい。調理中らしく、出てこない。
「兄貴は? もう帰ってきてるはずだよね?」
姿の見えないサティに声を掛けつつ、自分のベッドへ荷物を置いて、旅装から着替える。兄貴のことだから、きっと農地を見に行っているのだろう。もしかすると、もう農作業を始めているかもしれない。扉を開ける。
「どこ行ったの? 西の峰の畑? それとも川上の――」
雲が早い。
天気が崩れるかもしれない。反対の畑に向えば、入れ違いで兄貴は帰ってくるだろう。
「ごめんなさい」
暗い声が響いた。サティが姿を見せる。顔色が悪い。
「何? どうしたの?」
「ごめんなさい」
同じ言葉を繰り返し、台所へ戻る。
「サティ、どうしたのさ」
台所へ入った僕は、そこに異様なものを見た。血まみれで倒れている男。
「……サティ?」
恐る恐るサティをうかがう。サティは無表情のまま、食事を作っている。これは誰だと、問う声を出せなかった。
顔には火傷と大きな傷、血まみれで人相ははっきりしない。赤く染まった火かき棒が近くに落ちている。腕には見覚えのあるブレスレッド。
「これ、どうしたの?」
どう言えばいいのかわからなかった。記憶にある兄貴より、幾分がっしりしていたけれど、四年の歳月は兄貴にどんな変化をもたらしたのか想像できない。僕だってずいぶん成長したし……。
「サティ」
強い口調でたずねると、サティはヒステリックに叫んだ。
「わからないわ! 私にだってわからない。気がついたらそこに倒れてたたの! 私、わからないの、どういうことなのかわからない……」
わからないと、繰り返しながら泣きだす。ずいぶん長い間、二人で台所に立ち尽くし、それを見ていた。不意に僕のお腹がなった。
「食事にしましょう」
「……そうだね」
二年ぶりにサティと食事をした。黙々とただ食べて、だからすぐに食べ終わってやる事が無くなる。
「どうしたらいいと思う?」
「どうって……」
「お茶飲む?」
立ち上がり、台所からポットを持ってきて、カップに注ぐ。一口飲んで、再び同じ問いを繰り返す。
「どうしたらいいと思う?」
「どうしたらって……」
もう一度確認する気にはなれなかった。
「役人に見つかれば、夫殺しの罪で私は死罪。見つからなかったとしても――今までの、この生活をずっと続けられる?」
僕はため息をついた。兄貴が帰ってくると信じていたから、苦しい生活にも耐えてこられた。ため息しか漏れない。
「……逃げだしたい……」
静かな家の中、僕の小さな声が響く。サティはゆっくりお茶を飲み終わり、カップから目を上げた。
「そうね。逃げよっか」
「どこに?」
「どこが良い?」
簡単に荷物をまとめて――僕は帰ってきたばかりだったから、身支度はすぐにすんで――扉を開けて歩き出す。身を隠すように街道から遠い、最近は利用していない道を行く。
「そろそろ見つかってるかも。隣のおばさんが来るって言ってたから」
「何しに?」
「私が一人で寂しいだろうからって、時々世間話をね、しに来るの。たいてい、旦那さんの悪口とか、息子さんの話」
崩れかかった岩場を登る。サティがまごついていたから荷物を受け取り、手をとって引っ張りあげる。
登りきると細い獣道に似た道にでる。片側は深い谷。足を踏み外すと一巻の終わり。この道の方が近道だけど、人一人が通れる幅しかないから、今は遠回りでも馬が使える道を使ってる。
「危ないから足、踏み外さないように気をつけてね」
言ってるそばから悲鳴。
「大丈夫?」
座り込んだサティを起こす為、手を差し出す。手をとってサティは起き上がり、
「えぇ、ごめんなさい。こんな道あるの、知らなかった。私、四年も住んでるのに」
人が一人、やっと通れる狭さ。手を握っては歩けないから、先を歩く僕は時々後ろを振り返る。サティはこわごわ足元を見ながら歩いている。
「大人が危ないから近づくなって言うけど、村の子供はみんなこの道のこと知ってる」
「子供ってそういうものよね。私は小さい頃、パパが危ないことは何にもさせてくれなかったから、こういうドキドキするようなこと初めて。だから、ちょっと楽しい」
笑い声。
なぜこんな道を歩く羽目になったのか、そのときだけ忘れて僕も笑う。
「僕は、小さい頃から兄貴に危ないことばかりさせられてたよ」
懐かしい。ここも小さい頃、何度も歩いた。怖くてたまらないのに、兄貴達のあとをついて行きたくて。
雲が速い。天気が崩れるかもしれないと思ったことを思い出す。
「サティ、急いで」
「えぇ。この道、どこに続いてるの?」
「これは――」
土砂の崩れる音。悲鳴。振り向いたそこに、さっきまであったサティの姿は無い。考えるより早く動いた手も空を切り、伸ばされたサティの手をつかめない。
悲鳴。布を切り裂くような声。木々の折れる音。水音。
「サティィィィ!!」
落ちるように、崖を降りる。サティの姿は無い。流れは急だ。水流はこの下《しも》で二手に分かれる。原野に向う流れと、村に向う流れ。原野には狼がいると聞く。どちらにしろ命が危ない。
歩こうとして、足の痛みに座り込む。降りてくる間にあちこち擦りむき、打ってしまったらしい。一つ痛みを感じると、全身が痛みを訴える。絶望的な気持ちで天を仰ぐ。雨の粒が頬を打ち、本降りになる。
僕は、何もかも、全て失った。家の扉を開けたのが、ずいぶん昔のことのようだ。雨が冷たい。だんだん感覚が無くなってくる。もう、どうでもいい。這うように、川に近づく。傾斜しているから、頭から水流に転がり落ちる。流されながら、サティと、同じ場所に流れ着けばいいと願う。
まぶたが重い。頬が痛み、熱《あつ》ささえ覚える。もう少し眠りたいと思いながら、ピシャリと痛みを覚える音と、瞬間もたらされる頬の痛みに目を開ける。
白ひげの老人の顔が眼前にある。
「目、覚めたか?」
「……」
声を出そうとして、頬の痛みに手をやる。
「起きたようじゃぞ」
「こんなガキ拾ってどうするのさ」
足のほうから女の声がする。頭を上げようとしたけれど、体中が重い。眼球だけ動かして、何とか女の姿が視界に入る。赤い髪をした、セクシーな衣装の踊り子。
「捨ててくわけにはいかんじゃろう。人道的に見て」
ひげ面の老人が豪快に笑って、ようやく顔をどける。天井は布張りで、テントの中なのだと知る。
「人道的、ね」
女は馬鹿にしたように言い、テントから立ち去る。手足のリングがシャラシャラと心地よい音色を奏でる。
「お前、何やったんだ?」
「……何……?」
「村の者が血相変えて、お前に似た若者と、若い女を捜しとった」
サティ、どこに流れ着いたんだろう。
「駆け落ちか? それとも心中か?」
その言葉に、笑いがこみ上げてくる。大きな声を出そうとすれば、痛みが走る。なんだか、そんなこともおかしい。
「わかっとると思うが、傷に響く。笑うのはしばらく、やめたほうがええぞ」
「えぇ、すごく痛みます」
老人はまじめな顔で、覗き込む。
「お前、今自分がどんな姿をしてるのか良くわかっておらんじゃろ。誰が見てもミイラまであと一歩ってとこじゃぞ」
「言われなくても、こんなに全身痛くって、息をするのも辛いなんて普通じゃないですよ。腕も動かないし」
「そりゃそうだろうて。手足は縛りつけとる」
老人は楽しげに笑い、声を潜める。
「逃げ出さんようにな」
さっきの女の言葉を思い出す。
「人道的?」
「ワシはきっちりお代を頂戴する主義じゃ。お前さんにもきっちり払ってもらうさ。どうせ行く宛てなんてないんじゃろ」
見透かされてる。
「ここにいるのはそういう者ばかりじゃて。傷を早く治すためにも、また眠るがいい」
傷が治り始めると、楽器の練習を始めた。楽器、踊り、曲芸。一通り覚えさせられ、あちこち旅して演じて回る。老人の一座には老若男女いるけれど、それぞれ皆、行き場など無い人たちだった。
年季の明けた人や、求婚された人がたまに抜けることもあるけれど、たいていはそのまま居ついている。あまりに人数が多くなると、老人が首を切ったりもするが、それは大抵、一人でもやっていけそうな演技の上手い人や、普通に仕事するのに問題の無い、過去に問題の無い人ばかりで。
だから僕は、拾われて五年にもなるのに今だここにいる。数ヶ月前から座長になった。知り合いが居そうな町や村で興行するときは深々とフードを被ったり、口元を隠したりする。一座の中にはそんな人間が少なからず居て、何かあるのだろうなと思うが、誰も尋ねないのが暗黙のルール。僕らの過去を知っているのは、きっと老人だけ。
僕らは今、国はずれにある大きな屋敷を目指している。そんなところに屋敷ができたのは最近で、ある富豪の別邸だとも貴族の屋敷だとも言われ、はっきりしない。
都からも街からもずいぶん離れているので、僕らのような旅芸人でもお呼びをかけてもらえたらしい。昨日興行した村で、身なりの良い男に声を掛けられたときはずいぶん不審に思ったものだが、木々の間に大きな屋敷が見えてきて、胸を撫で下ろす。おいしい、大口の話だったから半分賭けだった。片道半日掛かる行程。途中に興行できる村も無い。話が嘘だったら、かなりの痛手だったから本当に良かった。
森の中にそびえる、美しい灰色の館。深い緑のツタが絡みつき、前庭にはピンク色、黄色、白色、色とりどりの淡い色の花が咲き乱れる。
我々の馬車をどこで確認したのか、門前に到着したときには召使の姿があった。村で会った男に預かった手紙を見せる。一瞥《いちべつ》しただけで、門を開ける。国境なのにずいぶん物騒なことだ。
門をくぐると、庭も広い。野営の場所を尋ねると、屋敷の中に部屋を用意していると言われ、驚く。流浪の旅芸人一座に、そんな歓待を行うなんて聞いたことが無い。不審なものを感じて、改めて館を見る。一瞬、二階の西の窓にあった女と目が合う。すぐ女の姿は消えた。
「まさか」
「どうした?」
副座長に言われ、首を降る。そんなはず無い。
もう一度見上げても、女の姿は無い。館の上に広がる空が綺麗だ。雲が速い。湧き上がるのはいつか、同じ空を見たことがあるというデジャビュ。
心の中に漣《さざなみ》が立つ音を聞きながら、館へ足を踏み入れる。館の主人の意向で、夕食まで部屋で休むことになった。夕食のとき、部屋で芸を披露すれば良いらしい。部屋の中でのことなので、静かな踊りと音楽くらいしかできそうも無い。
この館の主人は女だという。この女はある高貴な御方の愛人で、世間から身を隠すため、この館に住んでいるのだと召使いから聞き出す。
夕闇に照らされた廊下を歩く。踊り子達は主人が女だと聞いてずいぶんテンションが下がっている。それでも、若い彼女たちはかしましくおしゃべりしながら、広間に入る。弦を調節し、音を合わせる。簡単に動きをあわせ、ポジションにつく。どの曲から演奏しようか、目を閉じて、指に任せる。二曲目からは主旋律を奏でる僕が状況に合わせて適当な曲を選ぶ。みんなはそれに合わせる。それができなければ流浪の旅芸人なんてやっていられない。
奏《かな》で初めて六曲目。噂の女主人が姿を現し、部屋が静まりかえる。戸惑い顔で皆が僕を見ているのに気づいたのは少ししてから。僕は、美しいドレスを着込んだサティから目が離せなかった。副座長が何事も無かったかのように主旋律を引き始め、皆が気にしつつも後に続く。僕も奏でようとするものの、指が動かない。何度か音をはずしたところで、奏でるのを諦めた。執事に引かれた椅子に腰掛けるサティを見る。優雅にナイフとフォークを使い、食事を口に運ぶサティを見る。お茶を飲み、拍手をするサティを見る。
僕は座長として招いていただいたお礼を言わなければいけないのに、動くこともできなければ、声を出すこともできない。優秀な副座長が変わってそれをやる。
主人が広間を去り、演奏の手を止める。副座長がぶっきらぼうに声を出す。
「どうしたんだ?」
「……サティが……」
僕には何もわからない。確かにあれはサティだった。似ているのではなく、本人。
「サティ? ここの主人はサーシアって名前じゃなかったか?」
「……死んだと思ってた」
「良くわからないが、ここで呆けてても仕方ないだろ。部屋に戻ろう」
廊下の窓から見上げる月は、ずいぶん細い。もうすぐ新月になるのだろう。雲が速い。なんだか、不穏なものを感じる。
「すいませんが、座長殿」
後ろから声を掛けられる。振り向けば、筋骨たくましい男数名と、執事。
「御主人様の言いつけで、あなたには別に部屋を用意いたしました。そちらにお移り下さい」
有無を言わせない雰囲気。ざわりとどよめく皆に視線を送り、執事の後に続く。長年一緒に過ごしている仲間達は、視線だけである程度はこちらの気持ちを読み取ってくれる。数日後、誰も騒ぎ立てもせず出立したと、入れられた地下牢の中、食事を運んできた召使に聞いた。
半地下の牢には小さな天窓が一つあった。手が届く位置ではなかったが、空を見ることができた。だから、昼と夜の違いはわかった。どうしてサティが僕をここに閉じ込めたのか、僕にはわからなかった。あの晩の、着飾った衣装のまま。一週間経っても、呼び出されることも、会いに来ることもなかった。
どこかで、爆音がした。ずいぶん近い。まさか、この館襲撃されているのか? そう思う間もなく、天井の一部が崩れた。僕がいた場所とちょうど反対側だったから、怪我は無かったが、驚いた。僕はこのまま死んでしまうのだろうか。不安は、鍵のあく音で止まった。
「大丈夫?」
簡素なドレスに質素なコート姿の女主人。
「サティ?」
「……お久しぶり。あなたと会うまで、忘れていたわ。そんなことより早く」
手招きされ、牢を出る。ランプを持ったサティの後姿を追いかける。懐かしい。記憶よりずいぶん小柄なサティの後姿。
屋敷の地下は自然の鍾乳洞とつながっていて、その迷路のような鍾乳洞を抜け、外へ出る。洞窟内で水に浸《ひた》った足元だけじゃなく、噴出した汗で上半身もずぶぬれだ。
「ここ、どこ?」
「屋敷の西。この近くにあなたの一座が居るはずよ」
「……何なんだ、一体? 説明してくれ」
「私を囲っていた男が謀反人として軍に拘束されたの。だから私にも手がまわった」
歩きながら言葉を続ける。いつしか僕の方が追い越し、獣道を進む。
「私が身を隠して逃れる手段としてあなた達一座を選んだの。座長を人質に取れば私を逃がすこと、協力するでしょ? まさか、あなたがいるとは思わなかった」
その言葉に振り返る。あの頃より、綺麗になったサティがそこにいた。けれど、とても疲れきった、強張った顔をしていた。
「私は谷に落ちて、流されて、主人に助けられた。頭を打っていたこともあって記憶があやふやで――完全に記憶を取り戻した頃には、もう引き返せないところに居たわ。それで……いろいろあって、この屋敷で隠居生活してたの。だから、あなたの姿を見るまで、私はサティだってこと、サティだったってこと、忘れていたわ」
息を切らしている。けれど、後ろから追っ手が来ないか気になって休む事はできない。怒号と破壊音、ガラスの割れる音が聞こえる。
森を抜ける。眩しくて目を細める。雲が早い。見慣れた空に、安堵する。
「兵士がいないか見てきて」
サティは木にもたれかかって、息を整えている。言われたとおり、周囲を見て回る。人影は無い。仲間達の姿も見えないが、どこに向えばいいんだろう。仲間達との合図の指笛を鳴らせば、南から答える高い音。もうしばらく歩かなければならないらしい。
サティが休憩している場所へ戻ろうとして、
「動くな」
右耳の隣に、冷たく光る鋼。威圧的な男の声。驚いた。気づかなかった。
「ゆっくり振り向け。お前、サーシアの手の者か?」
言われたとおり、ゆっくり振り返る。目が合い、戦士の瞳が戸惑いにゆれる。戦士が、戦士の目に映る自分自身が、驚きのあまり、間の抜けた顔をしている。
「……お前……お前、こんなとこで何やってんだ? それに、その格好」
目の前に立つ戦士以上に、僕は驚いていた。いろんな言葉が渦巻いて、声にできない。僕と同じ目線に、高さ……信じられない。
「ダメだ」
ランプを振り上げ、忍び足で兵士を殴ろうと近づくサティを止める。戦士がぎょっと振り向き、ランプを掲げ持ったサティを見る。
「……サティ……?」
サティはランプを落とし、その音に背中を押されたのか、戦士に抱きつく。
「ちょっと、サティ。どうしてこんなところにいるんだ? それにその格好は……」
きつく、かたく抱きしめて、抱き返されて、サティは泣く。聞こえてくる喧騒が、まるで二人への祝辞のようだ。
この五年、兄貴も、サティも死んで天涯孤独になったのだと思っていた。僕は言いようの無い気分で空を見る。
雲が早い。
余談
「お前、でっかくなったな。何年ぶりだ?」
サティは兄貴から離れない。兄貴は照れくさそうな、幸せそうな顔。
「九年ぶり。僕、もう二十歳だよ」
「そんなになるか。あっという間だな」
僕はずっと気になっていたことを尋ねる。
「あの腕輪は?」
「腕輪?」
兄貴は考え込んで、
「グレッグに賭けで巻き上げられたやつか? そう言えば、遠征に志願したから帰れないって奴に伝言頼んだんだが……聞かなかったか?」
そういうことだったのか。なんとなく、ほっとする。兄貴と背格好が似ていたから、あれはてっきり兄貴だと思っていた。あれを良く見るなんてこと、できなかったし。
「村の人たち心配してたぞ」
兄貴は言葉を続ける。
「お前は帰ってこないわ、サティは消えたわで。心配して村に帰ったら、家にグレッグが住んでて驚いた」
僕とサティは、兄貴の顔をまじまじと見た。冗談を言っている様子は無い。兄貴はその反応を違う意味にとったらしく、
「会ってないのか? あいつ、悪い奴じゃないんだけど、常識が無いって言うか、ちょっと変わってるんだ」
「でも、血……」
サティが硬い声でつぶやく。
「ん? 見たのかアレ。びっくりするだろ。異常だよな、あの鼻血」
「……鼻血?」
「その話じゃないのか? ずいぶん前の事だけど、血溜まりの中、貧血で倒れててるあいつ見つけた時は、部隊中大騒ぎした」
兄貴は笑う。サティは安堵顔で、再び兄貴に抱きつく。俺は気が抜けて座りこむ。
「連絡くらいしてくれれば良かったのに」
「俺が読み書きできないの、知ってるだろ? 何回か村に帰って伝言頼んだんだが、聞いてないのか? 俺、こっちの方が性に合ってるから、戦士になったんだ。お前らのほうこそ何してたんだよ」
僕は天を仰ぎ、サティは言葉を濁した。
雲が速い。
終
『サティ』をご覧いただきありがとうございました。
「突発性競作企画22弾:サプライズ!」参加
振り向きもせず歩み去っていく兄貴を見送るサティの後姿がとても寂しそうで、僕は言いようの無い気分で空を見ていた。風が強く、着込んでいても肌寒い。
いつまでもいつまでも、芥子粒のような点になっても、サティは手を振り続けた。だから僕は、見晴らしのいい村のはずれの丘の上に立ってい続けなければならなかった。あまりに寒くて、足踏みしてみたけど、ちっとも暖かくならない。
サティと兄貴は結婚して一週間しか一緒にいられなかった。兄貴は二十一歳。サティは十九歳。僕は十一歳。両親が死んで四年、ずっと兄貴と二人きりだった家に、女の人がいるというのは不思議なもので、なんだか空気がふわふわと暖かい気がして――兄貴以上に僕が喜んでいたのもつかの間のことだった。
兄貴に徴兵が掛かったのはそれより一ヶ月くらい前だったそうだ。それを知ったのは兄貴が旅立つ前日の夜。夕食のとき。兄貴が言いにくそうに僕とサティに打ち明けた。このところ兄貴の様子がおかしいことはわかっていたけれど、それはサティと結婚したからだと思っていた。
サティは元々、隣町の大きなお屋敷のお嬢さんだった。旦那さん――サティの親父さんを訪ねていった兄貴との間でいろいろあり、兄貴を追いかける形で家を飛び出して来たということだった。その辺の込み入った事情は、隣のおしゃべり好きのおばさんさえ、はぐらかすばかりで教えてくれなかったから、今でもわからない。兄貴も村の人たちもずいぶんサティを説得したんだけれど、聞く耳無く、兄貴は腹をくくって結婚した。
兄貴の徴兵のことは、僕もサティも寝耳に水だった。最初は僕とサティが大騒ぎしていたのだけど、兄貴の説明にサティはしぶしぶといった様子ながら納得し、僕一人が孤立した。子供の僕には税金も法令も難しいことだったし、兄貴がいなくなることが一番重要で、理由を知りたいわけじゃなかった。
兄貴は朝から晩まで農地を耕していた。でも、両親がいた頃でさえ手入れが行き届かなかったのだから、兄貴一人でどうにかできるわけもなく、いつも貧乏で――うちは税金を払うゆとりなんてなかった。それまでは、うちの事情を知る旦那さんに税金を肩代わりしてもらっていたらしいが、サティと兄貴の間がばれてからは門前払いされるようになったらしい。
「何年なの?」
静かな声で、サティは言った。うちのような農家だと、所有している畑の大きさで収める穀物の量が決まっていて、足りなければお金を払わなければいけなかった。徴兵は税金を払わなかった期間分行くことになる。
「短くても四年。もしくはそれより長く」
「うちのパパが手をまわしたのね」
「……言いたくないけど、たぶんそう」
両親が死んでから四年。払ったはずの税金は全て未納ということにされたようだった。兄が旅立った後、残されるのは僕とサティだけ。当然、僕らに税金を払うことなんて不可能だから、兄貴の軍隊暮らしは伸びる一方。サティが実家に帰るよう、旦那さんが仕組んだのは明白だった。
「ごめんなさい」
大粒の涙をこぼしながら、サティは声を絞り出す。
「君のせいじゃない。旦那さんにも感謝してる。それに、いずれこうなるって覚悟もしてた」
弱い笑みを浮かべていたけれど、つらそうな色を隠すことはできていなくて。僕もサティも一晩中、涙が枯れるんじゃないかと思うくらい泣いた。だから兄貴は振り向きもせず、歩いていったのだと思う。
雲が速い。
仕事の手を休めて、僕は空を見上げた。汗ばんだ体には、気持ちいい風が吹いている。兄が旅立ってから、もうすぐ四年になる。
僕もサティも仕事を掛け持って、ギリギリの生活をしながらも税金を払っている。兄貴が心血注いでいたうちの農地は僕がいない今では荒れ放題で、帰ってきたらきっと怒るだろう。
サティは子供のころ、城下町にある寄宿学校に入っていたから、文字の読み書きや裁縫ができた。週に一度、サティの父の手の届かない、遠くの町まで出かけて行って、そんなこまごまとした仕事をもらい、普段は村の飲食屋で給仕をさせてもらっている。
僕は、家から一番近い畑だけを耕し、村のあちこちで手伝いをして小遣いを稼いだ。十三歳になってからは出稼ぎに出た。別れ際、サティが寂しそうな顔をしたから、月に一度は手紙を書くと約束した。サティに文字の書き方を教えてもらっていたから、僕は文字の読み書きができた。手紙を出すなんて贅沢なことだけれど、顔を見せに帰ることのほうが、出費が大きかったから。
もうすぐ兄貴が帰ってくる。
「今日までなんだな」
嬉しい気持ちが顔に出ていたらしい。僕を雇ってくれている親爺さんに声を掛けられた。無口な人だから、こうやって声を掛けられるなんて滅多に無い。
「はい。お世話になりました」
「でも、お前が家に帰ったところで兄貴夫婦がいちゃ、また、家を出なきゃならないだろ?」
「そうですが……しばらくは置いてくれますよ」
兄貴夫婦は結婚して四年経つけど、一週間しか一緒にいなかったからまだまだ新婚なのだ。やっと三人一緒に暮らせるという喜びの方が大きくて、自分が邪魔者なんだってことは考えないようにしていた。
「お前の後《あと》、見つけてないんだ」
つぶやくように言った親爺さんの言葉に驚いて、顔をあげる。人当たりのよさそうな、いつもの顔。
「冗談だよ」
俺の顔がよっぽどおかしかったのか、のどの奥でくつくつ笑った。仕事には容赦無いが人のいい親爺さんと別れ、村への帰途につく。
朝から歩いて、昼前に村へついた。二年ぶりの我が家。二年前に比べて小さく見える。扉を開けると、美味そうなスープのにおいがした。
「ただいま」
「お帰り」
入って一番奥に台所がある。貧乏でも、田舎だから建物ばかりやたら大きい。調理中らしく、出てこない。
「兄貴は? もう帰ってきてるはずだよね?」
姿の見えないサティに声を掛けつつ、自分のベッドへ荷物を置いて、旅装から着替える。兄貴のことだから、きっと農地を見に行っているのだろう。もしかすると、もう農作業を始めているかもしれない。扉を開ける。
「どこ行ったの? 西の峰の畑? それとも川上の――」
雲が早い。
天気が崩れるかもしれない。反対の畑に向えば、入れ違いで兄貴は帰ってくるだろう。
「ごめんなさい」
暗い声が響いた。サティが姿を見せる。顔色が悪い。
「何? どうしたの?」
「ごめんなさい」
同じ言葉を繰り返し、台所へ戻る。
「サティ、どうしたのさ」
台所へ入った僕は、そこに異様なものを見た。血まみれで倒れている男。
「……サティ?」
恐る恐るサティをうかがう。サティは無表情のまま、食事を作っている。これは誰だと、問う声を出せなかった。
顔には火傷と大きな傷、血まみれで人相ははっきりしない。赤く染まった火かき棒が近くに落ちている。腕には見覚えのあるブレスレッド。
「これ、どうしたの?」
どう言えばいいのかわからなかった。記憶にある兄貴より、幾分がっしりしていたけれど、四年の歳月は兄貴にどんな変化をもたらしたのか想像できない。僕だってずいぶん成長したし……。
「サティ」
強い口調でたずねると、サティはヒステリックに叫んだ。
「わからないわ! 私にだってわからない。気がついたらそこに倒れてたたの! 私、わからないの、どういうことなのかわからない……」
わからないと、繰り返しながら泣きだす。ずいぶん長い間、二人で台所に立ち尽くし、それを見ていた。不意に僕のお腹がなった。
「食事にしましょう」
「……そうだね」
二年ぶりにサティと食事をした。黙々とただ食べて、だからすぐに食べ終わってやる事が無くなる。
「どうしたらいいと思う?」
「どうって……」
「お茶飲む?」
立ち上がり、台所からポットを持ってきて、カップに注ぐ。一口飲んで、再び同じ問いを繰り返す。
「どうしたらいいと思う?」
「どうしたらって……」
もう一度確認する気にはなれなかった。
「役人に見つかれば、夫殺しの罪で私は死罪。見つからなかったとしても――今までの、この生活をずっと続けられる?」
僕はため息をついた。兄貴が帰ってくると信じていたから、苦しい生活にも耐えてこられた。ため息しか漏れない。
「……逃げだしたい……」
静かな家の中、僕の小さな声が響く。サティはゆっくりお茶を飲み終わり、カップから目を上げた。
「そうね。逃げよっか」
「どこに?」
「どこが良い?」
簡単に荷物をまとめて――僕は帰ってきたばかりだったから、身支度はすぐにすんで――扉を開けて歩き出す。身を隠すように街道から遠い、最近は利用していない道を行く。
「そろそろ見つかってるかも。隣のおばさんが来るって言ってたから」
「何しに?」
「私が一人で寂しいだろうからって、時々世間話をね、しに来るの。たいてい、旦那さんの悪口とか、息子さんの話」
崩れかかった岩場を登る。サティがまごついていたから荷物を受け取り、手をとって引っ張りあげる。
登りきると細い獣道に似た道にでる。片側は深い谷。足を踏み外すと一巻の終わり。この道の方が近道だけど、人一人が通れる幅しかないから、今は遠回りでも馬が使える道を使ってる。
「危ないから足、踏み外さないように気をつけてね」
言ってるそばから悲鳴。
「大丈夫?」
座り込んだサティを起こす為、手を差し出す。手をとってサティは起き上がり、
「えぇ、ごめんなさい。こんな道あるの、知らなかった。私、四年も住んでるのに」
人が一人、やっと通れる狭さ。手を握っては歩けないから、先を歩く僕は時々後ろを振り返る。サティはこわごわ足元を見ながら歩いている。
「大人が危ないから近づくなって言うけど、村の子供はみんなこの道のこと知ってる」
「子供ってそういうものよね。私は小さい頃、パパが危ないことは何にもさせてくれなかったから、こういうドキドキするようなこと初めて。だから、ちょっと楽しい」
笑い声。
なぜこんな道を歩く羽目になったのか、そのときだけ忘れて僕も笑う。
「僕は、小さい頃から兄貴に危ないことばかりさせられてたよ」
懐かしい。ここも小さい頃、何度も歩いた。怖くてたまらないのに、兄貴達のあとをついて行きたくて。
雲が速い。天気が崩れるかもしれないと思ったことを思い出す。
「サティ、急いで」
「えぇ。この道、どこに続いてるの?」
「これは――」
土砂の崩れる音。悲鳴。振り向いたそこに、さっきまであったサティの姿は無い。考えるより早く動いた手も空を切り、伸ばされたサティの手をつかめない。
悲鳴。布を切り裂くような声。木々の折れる音。水音。
「サティィィィ!!」
落ちるように、崖を降りる。サティの姿は無い。流れは急だ。水流はこの下《しも》で二手に分かれる。原野に向う流れと、村に向う流れ。原野には狼がいると聞く。どちらにしろ命が危ない。
歩こうとして、足の痛みに座り込む。降りてくる間にあちこち擦りむき、打ってしまったらしい。一つ痛みを感じると、全身が痛みを訴える。絶望的な気持ちで天を仰ぐ。雨の粒が頬を打ち、本降りになる。
僕は、何もかも、全て失った。家の扉を開けたのが、ずいぶん昔のことのようだ。雨が冷たい。だんだん感覚が無くなってくる。もう、どうでもいい。這うように、川に近づく。傾斜しているから、頭から水流に転がり落ちる。流されながら、サティと、同じ場所に流れ着けばいいと願う。
まぶたが重い。頬が痛み、熱《あつ》ささえ覚える。もう少し眠りたいと思いながら、ピシャリと痛みを覚える音と、瞬間もたらされる頬の痛みに目を開ける。
白ひげの老人の顔が眼前にある。
「目、覚めたか?」
「……」
声を出そうとして、頬の痛みに手をやる。
「起きたようじゃぞ」
「こんなガキ拾ってどうするのさ」
足のほうから女の声がする。頭を上げようとしたけれど、体中が重い。眼球だけ動かして、何とか女の姿が視界に入る。赤い髪をした、セクシーな衣装の踊り子。
「捨ててくわけにはいかんじゃろう。人道的に見て」
ひげ面の老人が豪快に笑って、ようやく顔をどける。天井は布張りで、テントの中なのだと知る。
「人道的、ね」
女は馬鹿にしたように言い、テントから立ち去る。手足のリングがシャラシャラと心地よい音色を奏でる。
「お前、何やったんだ?」
「……何……?」
「村の者が血相変えて、お前に似た若者と、若い女を捜しとった」
サティ、どこに流れ着いたんだろう。
「駆け落ちか? それとも心中か?」
その言葉に、笑いがこみ上げてくる。大きな声を出そうとすれば、痛みが走る。なんだか、そんなこともおかしい。
「わかっとると思うが、傷に響く。笑うのはしばらく、やめたほうがええぞ」
「えぇ、すごく痛みます」
老人はまじめな顔で、覗き込む。
「お前、今自分がどんな姿をしてるのか良くわかっておらんじゃろ。誰が見てもミイラまであと一歩ってとこじゃぞ」
「言われなくても、こんなに全身痛くって、息をするのも辛いなんて普通じゃないですよ。腕も動かないし」
「そりゃそうだろうて。手足は縛りつけとる」
老人は楽しげに笑い、声を潜める。
「逃げ出さんようにな」
さっきの女の言葉を思い出す。
「人道的?」
「ワシはきっちりお代を頂戴する主義じゃ。お前さんにもきっちり払ってもらうさ。どうせ行く宛てなんてないんじゃろ」
見透かされてる。
「ここにいるのはそういう者ばかりじゃて。傷を早く治すためにも、また眠るがいい」
傷が治り始めると、楽器の練習を始めた。楽器、踊り、曲芸。一通り覚えさせられ、あちこち旅して演じて回る。老人の一座には老若男女いるけれど、それぞれ皆、行き場など無い人たちだった。
年季の明けた人や、求婚された人がたまに抜けることもあるけれど、たいていはそのまま居ついている。あまりに人数が多くなると、老人が首を切ったりもするが、それは大抵、一人でもやっていけそうな演技の上手い人や、普通に仕事するのに問題の無い、過去に問題の無い人ばかりで。
だから僕は、拾われて五年にもなるのに今だここにいる。数ヶ月前から座長になった。知り合いが居そうな町や村で興行するときは深々とフードを被ったり、口元を隠したりする。一座の中にはそんな人間が少なからず居て、何かあるのだろうなと思うが、誰も尋ねないのが暗黙のルール。僕らの過去を知っているのは、きっと老人だけ。
僕らは今、国はずれにある大きな屋敷を目指している。そんなところに屋敷ができたのは最近で、ある富豪の別邸だとも貴族の屋敷だとも言われ、はっきりしない。
都からも街からもずいぶん離れているので、僕らのような旅芸人でもお呼びをかけてもらえたらしい。昨日興行した村で、身なりの良い男に声を掛けられたときはずいぶん不審に思ったものだが、木々の間に大きな屋敷が見えてきて、胸を撫で下ろす。おいしい、大口の話だったから半分賭けだった。片道半日掛かる行程。途中に興行できる村も無い。話が嘘だったら、かなりの痛手だったから本当に良かった。
森の中にそびえる、美しい灰色の館。深い緑のツタが絡みつき、前庭にはピンク色、黄色、白色、色とりどりの淡い色の花が咲き乱れる。
我々の馬車をどこで確認したのか、門前に到着したときには召使の姿があった。村で会った男に預かった手紙を見せる。一瞥《いちべつ》しただけで、門を開ける。国境なのにずいぶん物騒なことだ。
門をくぐると、庭も広い。野営の場所を尋ねると、屋敷の中に部屋を用意していると言われ、驚く。流浪の旅芸人一座に、そんな歓待を行うなんて聞いたことが無い。不審なものを感じて、改めて館を見る。一瞬、二階の西の窓にあった女と目が合う。すぐ女の姿は消えた。
「まさか」
「どうした?」
副座長に言われ、首を降る。そんなはず無い。
もう一度見上げても、女の姿は無い。館の上に広がる空が綺麗だ。雲が速い。湧き上がるのはいつか、同じ空を見たことがあるというデジャビュ。
心の中に漣《さざなみ》が立つ音を聞きながら、館へ足を踏み入れる。館の主人の意向で、夕食まで部屋で休むことになった。夕食のとき、部屋で芸を披露すれば良いらしい。部屋の中でのことなので、静かな踊りと音楽くらいしかできそうも無い。
この館の主人は女だという。この女はある高貴な御方の愛人で、世間から身を隠すため、この館に住んでいるのだと召使いから聞き出す。
夕闇に照らされた廊下を歩く。踊り子達は主人が女だと聞いてずいぶんテンションが下がっている。それでも、若い彼女たちはかしましくおしゃべりしながら、広間に入る。弦を調節し、音を合わせる。簡単に動きをあわせ、ポジションにつく。どの曲から演奏しようか、目を閉じて、指に任せる。二曲目からは主旋律を奏でる僕が状況に合わせて適当な曲を選ぶ。みんなはそれに合わせる。それができなければ流浪の旅芸人なんてやっていられない。
奏《かな》で初めて六曲目。噂の女主人が姿を現し、部屋が静まりかえる。戸惑い顔で皆が僕を見ているのに気づいたのは少ししてから。僕は、美しいドレスを着込んだサティから目が離せなかった。副座長が何事も無かったかのように主旋律を引き始め、皆が気にしつつも後に続く。僕も奏でようとするものの、指が動かない。何度か音をはずしたところで、奏でるのを諦めた。執事に引かれた椅子に腰掛けるサティを見る。優雅にナイフとフォークを使い、食事を口に運ぶサティを見る。お茶を飲み、拍手をするサティを見る。
僕は座長として招いていただいたお礼を言わなければいけないのに、動くこともできなければ、声を出すこともできない。優秀な副座長が変わってそれをやる。
主人が広間を去り、演奏の手を止める。副座長がぶっきらぼうに声を出す。
「どうしたんだ?」
「……サティが……」
僕には何もわからない。確かにあれはサティだった。似ているのではなく、本人。
「サティ? ここの主人はサーシアって名前じゃなかったか?」
「……死んだと思ってた」
「良くわからないが、ここで呆けてても仕方ないだろ。部屋に戻ろう」
廊下の窓から見上げる月は、ずいぶん細い。もうすぐ新月になるのだろう。雲が速い。なんだか、不穏なものを感じる。
「すいませんが、座長殿」
後ろから声を掛けられる。振り向けば、筋骨たくましい男数名と、執事。
「御主人様の言いつけで、あなたには別に部屋を用意いたしました。そちらにお移り下さい」
有無を言わせない雰囲気。ざわりとどよめく皆に視線を送り、執事の後に続く。長年一緒に過ごしている仲間達は、視線だけである程度はこちらの気持ちを読み取ってくれる。数日後、誰も騒ぎ立てもせず出立したと、入れられた地下牢の中、食事を運んできた召使に聞いた。
半地下の牢には小さな天窓が一つあった。手が届く位置ではなかったが、空を見ることができた。だから、昼と夜の違いはわかった。どうしてサティが僕をここに閉じ込めたのか、僕にはわからなかった。あの晩の、着飾った衣装のまま。一週間経っても、呼び出されることも、会いに来ることもなかった。
どこかで、爆音がした。ずいぶん近い。まさか、この館襲撃されているのか? そう思う間もなく、天井の一部が崩れた。僕がいた場所とちょうど反対側だったから、怪我は無かったが、驚いた。僕はこのまま死んでしまうのだろうか。不安は、鍵のあく音で止まった。
「大丈夫?」
簡素なドレスに質素なコート姿の女主人。
「サティ?」
「……お久しぶり。あなたと会うまで、忘れていたわ。そんなことより早く」
手招きされ、牢を出る。ランプを持ったサティの後姿を追いかける。懐かしい。記憶よりずいぶん小柄なサティの後姿。
屋敷の地下は自然の鍾乳洞とつながっていて、その迷路のような鍾乳洞を抜け、外へ出る。洞窟内で水に浸《ひた》った足元だけじゃなく、噴出した汗で上半身もずぶぬれだ。
「ここ、どこ?」
「屋敷の西。この近くにあなたの一座が居るはずよ」
「……何なんだ、一体? 説明してくれ」
「私を囲っていた男が謀反人として軍に拘束されたの。だから私にも手がまわった」
歩きながら言葉を続ける。いつしか僕の方が追い越し、獣道を進む。
「私が身を隠して逃れる手段としてあなた達一座を選んだの。座長を人質に取れば私を逃がすこと、協力するでしょ? まさか、あなたがいるとは思わなかった」
その言葉に振り返る。あの頃より、綺麗になったサティがそこにいた。けれど、とても疲れきった、強張った顔をしていた。
「私は谷に落ちて、流されて、主人に助けられた。頭を打っていたこともあって記憶があやふやで――完全に記憶を取り戻した頃には、もう引き返せないところに居たわ。それで……いろいろあって、この屋敷で隠居生活してたの。だから、あなたの姿を見るまで、私はサティだってこと、サティだったってこと、忘れていたわ」
息を切らしている。けれど、後ろから追っ手が来ないか気になって休む事はできない。怒号と破壊音、ガラスの割れる音が聞こえる。
森を抜ける。眩しくて目を細める。雲が早い。見慣れた空に、安堵する。
「兵士がいないか見てきて」
サティは木にもたれかかって、息を整えている。言われたとおり、周囲を見て回る。人影は無い。仲間達の姿も見えないが、どこに向えばいいんだろう。仲間達との合図の指笛を鳴らせば、南から答える高い音。もうしばらく歩かなければならないらしい。
サティが休憩している場所へ戻ろうとして、
「動くな」
右耳の隣に、冷たく光る鋼。威圧的な男の声。驚いた。気づかなかった。
「ゆっくり振り向け。お前、サーシアの手の者か?」
言われたとおり、ゆっくり振り返る。目が合い、戦士の瞳が戸惑いにゆれる。戦士が、戦士の目に映る自分自身が、驚きのあまり、間の抜けた顔をしている。
「……お前……お前、こんなとこで何やってんだ? それに、その格好」
目の前に立つ戦士以上に、僕は驚いていた。いろんな言葉が渦巻いて、声にできない。僕と同じ目線に、高さ……信じられない。
「ダメだ」
ランプを振り上げ、忍び足で兵士を殴ろうと近づくサティを止める。戦士がぎょっと振り向き、ランプを掲げ持ったサティを見る。
「……サティ……?」
サティはランプを落とし、その音に背中を押されたのか、戦士に抱きつく。
「ちょっと、サティ。どうしてこんなところにいるんだ? それにその格好は……」
きつく、かたく抱きしめて、抱き返されて、サティは泣く。聞こえてくる喧騒が、まるで二人への祝辞のようだ。
この五年、兄貴も、サティも死んで天涯孤独になったのだと思っていた。僕は言いようの無い気分で空を見る。
雲が早い。
余談
「お前、でっかくなったな。何年ぶりだ?」
サティは兄貴から離れない。兄貴は照れくさそうな、幸せそうな顔。
「九年ぶり。僕、もう二十歳だよ」
「そんなになるか。あっという間だな」
僕はずっと気になっていたことを尋ねる。
「あの腕輪は?」
「腕輪?」
兄貴は考え込んで、
「グレッグに賭けで巻き上げられたやつか? そう言えば、遠征に志願したから帰れないって奴に伝言頼んだんだが……聞かなかったか?」
そういうことだったのか。なんとなく、ほっとする。兄貴と背格好が似ていたから、あれはてっきり兄貴だと思っていた。あれを良く見るなんてこと、できなかったし。
「村の人たち心配してたぞ」
兄貴は言葉を続ける。
「お前は帰ってこないわ、サティは消えたわで。心配して村に帰ったら、家にグレッグが住んでて驚いた」
僕とサティは、兄貴の顔をまじまじと見た。冗談を言っている様子は無い。兄貴はその反応を違う意味にとったらしく、
「会ってないのか? あいつ、悪い奴じゃないんだけど、常識が無いって言うか、ちょっと変わってるんだ」
「でも、血……」
サティが硬い声でつぶやく。
「ん? 見たのかアレ。びっくりするだろ。異常だよな、あの鼻血」
「……鼻血?」
「その話じゃないのか? ずいぶん前の事だけど、血溜まりの中、貧血で倒れててるあいつ見つけた時は、部隊中大騒ぎした」
兄貴は笑う。サティは安堵顔で、再び兄貴に抱きつく。俺は気が抜けて座りこむ。
「連絡くらいしてくれれば良かったのに」
「俺が読み書きできないの、知ってるだろ? 何回か村に帰って伝言頼んだんだが、聞いてないのか? 俺、こっちの方が性に合ってるから、戦士になったんだ。お前らのほうこそ何してたんだよ」
僕は天を仰ぎ、サティは言葉を濁した。
雲が速い。
終
『サティ』をご覧いただきありがとうございました。
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