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サヨナラは言えない

 ここがどこだかわからない。
 迷ったのだとアレクが理解したのは、少し時間が経ってから。見慣れない景色に不安になるが、待っていれば迎えがいずれやってくる。ベンチがあれば座り、なければ立ったままじっと待つ。ずいぶん待たされることもあったし、驚くほど早いこともあった。
「迎えに来たよ」
 10分ほどして、柔らかな男の声に振り向く。そこに立っているのは、二十代半ばの青年。褐色の髪、優しげな表情、スラリとした体躯はいつも、手入れされたスーツに身をつつんでいる。
「待たせたね」
「待ってないよ、デヴィッド」
 彼の背を追うように歩き出す。景色がめまぐるしく変わっていく。最近は手を繋がなくても、彼を見失うことはなくなった。それでもデヴィッドは時折振り返り、アレクがついてきているのを確認する。
「もう子供じゃないから大丈夫だよ」
「けれど、君は無意識的に空間を渡ってしまえる体質だからね」
 苦笑交じりの言葉。
 時空間さえ自由に移動できるデヴィッドだけれど、意識しなければ空間は渡れないという。
「君は天才なのかも知れない」
 それは皮肉なのか、賛辞なのか。柔らかな微笑みと共に言われれば、悪い気はしない。
 いくらも歩かないうち、アレクの見知った景色になる。それは家のすぐ近所だったり、学校の近くだったり、よく知った場所。
 普通の人にとって、空間は意識する必要の無い一本道で、目に見える道がすべて。けれど、アレクの家系の人間にはまれに、その空間を渡る能力=瞬間移動能力を持って生まれてくる。アレクには幼いころからその能力があった。
 アレクにとって災難だったのは、その能力が物心つかないうちから開花したことだった。自分という個性をつかまないうちから芽生えた能力により、アレクは意識せずに空間を渡り歩いてしまう。極端に言えば、酷い方向音痴のようなもの。移動してしまった彼を保護できる人間は、天才とうたわれた曽祖父のデヴィッドただ一人だった。
 時空さえ超えられる彼は、結婚前、すでに曾孫の能力を知っていたらしい。知り合いを基軸として空間を移動するため、孫の姿を見にきたついでに曾孫の能力を知ったということだった。
「前にも言ったと思うけど、歩くとき、空間を意識してる?」
 デヴィッドに問われ、むすっとした顔でアレクは答える。
「してるよ。でも、僕は意識して空間を渡ったりできないからさ」
 アレクは地図が読めないわけでもなく、方向音痴でもない。つねに空間を意識して歩いていないと、移動してしまう体質なだけ。
「まったく。君は性質が悪い」
 普段温厚なデヴィッドにそんな風に言われると、怒られたように感じ、アレクは黙り込んでしまう。
「ごめん。言い方がきつかったね」
 何も言わなくなったアレクの様子に、デヴィッドは言葉を重ねる。
「君の意思で空間を渡れるようにならなきゃね」
「……でもさ、これって治るものなの?」
「訓練するしかないだろうね」

 迷った、とアレクが気付いた時には大抵遅い。後戻りすれば良いのだろうが、楽観的な性格故か後先考えず、先へ先へと進んでしまい、はっきりそれを認めたときは、すでに手のつけようの無い事態に陥っている。
「迷った」
 立ち止まり、ため息と共に漏らした。
 どこにでもありそうなアパートの前。日はまだ高く、人の姿もあまりない。
「ようやく認めたか」
 大げさな身振りとともに、吐き出されたデヴィッドの言葉。カジュアルな格好をした、二十歳過ぎの褐色の髪の青年と、古典的なスーツ姿の若者という奇妙な取り合わせに、道行く人が視線を向ける。
「わかってたなら、言ってくれてもいいだろ」
 八つ当たりだとわかっていても、アレクは言葉を返さずにいられない。デヴィッドはいつもながらの飄々とした調子で、
「いや。君があまりに無茶苦茶な方向に向かうものだから……面白いな、と思って」
 にこりと笑う。
 楽観的な人間と、享楽的な人間と。こういう事態に陥った時の組み合わせとしては最悪だ。だが、険悪な雰囲気は長く続かない。アレクが頼れるのは、結局デヴィッドだけだから。
「どうするかな」
 尋ねる様子でもない、独り言に近い言葉。デヴィッドは楽しげに告げる。
「一、気長に悠長に助けを待つ。ニ、当ても無く動いていたら、そのうち道に戻れるかもしれない」
 助けに来てくれるのはいつでもデヴィッドの役目だった。だから、二人してここで待っていてもしかたない。二つの目の選択肢も最良とは思えない。砂漠でオアシスを見つけ出そうとするようなものだから。考えてみても思いつかない。
「オススメは?」
「階層を一つ越える」
 デヴィッドはアパートの階段を指差した。
「階層?」
「空間は平坦なだけじゃない。かなり複雑な構造になっていてね、上ればまた、違う世界に出ることもある」
「歩き回るだけじゃダメだってことか」
「無駄に体力を消費することは無いんだよ」
 歩き出したデヴィッドにはぐれない様、アレクは慌てて歩調を合わせる。

 何度もデヴィッドに訓練に付き合ってもらい、アレクは意識して空間を移動することが出来るようになってきた。最近では迷子になっても、一人で戻ってこられる。
 にこにこと笑みを浮かべ、隣を歩くデヴィッドを不信げな顔でアレクは見やる。
「なんだか楽しそうだな」
「いや、シェリルの方向音痴が、君にそんな形で受け継がれてるとは思わなかったよ」
「シェリルって?」
「君の祖母。あぁ、エリックが再婚してるから君はマールが祖母だと思ってた?」
 エリックはアレクの母方の祖父で、マールは祖母だ。そう言えば、母たちは異母兄弟だと聞いたことがある。普通に仲がいいから忘れていた。
「シェリルは僕の娘。今の僕はまだ結婚してないわけだから、なんだか不思議だけれどね」
 曾孫をかまっていることは不思議に思わないのだろうか。
「ほら」
 不意に腕をつかまれる。デヴィッドは歩いている。さっきまでと変わらない姿なのに、アレクは全力で走っているようにしか感じない。
 紗のカーテンを開けたような気がした後、大きな公園へ出た。さっきまで昼だったのに、ここではすでに夕闇が迫ってきている。
「ほら、あそこに君がいる」
 自転車を押して歩く子供達の一団。その中に幼いアレクがいる。時空間を超えたのだと驚く。
「過去も未来も同じ空間だ。空間を渡ることが出来れば、時空を渡ることも簡単だ。全ては一つ。繋がっているんだから」
 デヴィッドは歩を緩めないから、感傷に浸る間もなくアレクは歩きつづける。朝が来て、夜がきた。砂漠を歩き、森を歩き、海の近くを歩いた。
「コツ、わかってきたかい?」
 デヴィッドが立ち止まったとき、アレクはかがみ込んで肩で息をした。空間を渡るより、時空を渡るのは骨が折れる。
 よく見れば、デヴィッドも疲れた顔をしている。
「……こんなもん、すぐにわかれば……苦労しないだろ」
 アレクの答えに、デヴィッドは楽しげに笑い、一歩踏み出す。アレクは慌てて後を追う。
「ほら、ついた」
 デヴィッドがそう言ったのは、アレクの家の前。電気が灯り、夕食の香りがする。時間的には良い加減だ。
「デヴィッド。空間――いや、時空間を渡るのって、もしかして体に負担がかかる?」
 ようやく呼吸が整ってきたアレクの問いに、
「君の場合、問題ないだろう。無意識的に空間なんて渡れるものじゃない」
「僕のことじゃなくて――」
 一瞬真顔になり、デヴィッドはゆっくり、首を横に振る。
「君を見捨てることなんてできないよ」
 寂しげに笑う。デヴィッドがいなければ、アレクは生きて来れなかった。無自覚に空間を渡るなんて、教えてくれる人がいなければ理解することなどできなかっただろう。
「君は僕の子孫というだけじゃない。同じ能力を持ち合わせた同士。息子のようなものだ」
「でも、あんたが早死にしたのって……」
 デヴィッドは30歳過ぎで死んだ。母も祖母も、写りの悪い写真でしか彼を知らない。それをアレクが知ったのはつい最近。時空を超えられる彼なら、自分の人生をすでに知っているだろう。
「全てを知って、この能力を使わないまま平穏無事に一生を終えるのもいいだろうけど、それは自分への欺瞞だよ」
 歩き出す。見慣れた背中が宙に掻き消える。
「また今度」
 その一瞬前、残されたデヴィッドの声。
 アレクが迷えば、これまでと変わらず、デヴィッドは助けに来てくれるというという宣言――。
 アレクは誰もいない空間を見つめ、
「ありがと」
 と、唇を動かす。いつものように、さよならとは言えなかった。


『サヨナラは言えない』をご覧いただきありがとうございました。
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