極々普通
「おはようございます」
にっこりと会釈。階段掃除の途中らしく、箒片手に極上笑顔で管理人のおばーさん。白髪の髪をきりりとお団子にまとめ、曲がった背をそのときばかりはしゃきりと伸ばす。
数ヶ月前の私なら、確実に同じくらいの愛想の良さで挨拶を返していたところだけれど、今の私はそれが出来ない。良心の痛みを感じつつ、
「おはよう……ございます」
小さな、暗い声で返すのが精一杯。というか、挨拶し返してる時点で負けてる気がする。本来ならば無視が妥当。でも、それをしちゃうと後ろめたさからくるストレスで胃が痛くなってしまう。
錆びついた階段。かなり神経を使わなければどうしても足音を消すことが出来ない。二階建ての古い安アパート。階段から二つ目、ちょうど真ん中にあるのが私の部屋。母が亡くなる半年前まで、二人きりで一緒に暮らしていた部屋。
普通の女子高生より多少苦労している身の上とはいえ、制服を着て、学校に通う私の姿は極普通。特別な事など、表面上うかがえる部分はどこにもない。
バスに乗り、通勤電車に揺られ、学校に着く。悔しいことに、貯金が底をついた頃父からの仕送りが始まり、私はこれまで通り、学校を辞めることなく暮らしていけている。
父は私が幼かった頃、世界征服するんだなんて馬鹿な夢を語って突然消えてしまった。たまには仕送りがあったようだけれど、それじゃ暮らしていけないから母と二人、私達は爪に火をともすような思いで生きてきた。そんな母が心労で倒れ、あっけなくこの世を去ってしまったのは父のせいだとしか思えない。
十年近くも音信不通でいたくせに、二ヶ月前、突然父の部下を名乗る男を私の前に送ってきた父。あまりにも腹立たしくて、なるべく父の金など使いたくはないけれど、背に腹はかえられない。
「おっはよー!」
後ろから声を掛けられ、肩を叩かれる。元気良いのは良いことだけれど、心臓が飛び出しそうだ。私は瞬時に周囲に視線を走らせてから、挨拶し返す。彼女は友人だって伝えてるとはいえ、何が起こるかわからない。父の知り合いって、理解不能なんだもの。
会話は自然な流れで世間話にシフトする。今日は平穏無事に始まった。心の中で拳を握る。
下駄箱を開けると一通の紙切れ。友人の誰かからの伝言だろうと、その場であけて一読。固まる。
「どうしたの?」
不審げな顔で横から手紙を覗き込んでくるので、慌てて握りつぶす。硬く硬く紙を握って、ポケットへ突っ込む。
「ごめん、ちょっと用事思い出した」
「ちょっとー、一時間目、移動だよ?」
「わかってる。それまでには戻る……」
下足に履き替えて駆け出す。父の部下の人って、思考が読めない。
紙に書かれていた、指定の場所。体育館の裏。近くに道があるものの、通勤時間から外れたためか、人通りはない。
「お待ちしておりました」
私の前で頭を下げているのは、友人憧れの剣道部の先輩。昨日までなら、私の顔など知りもしなかったはずの人。手紙も実直な性格が現れたかのような、事務的な契約書だった。
「頭を上げてください」
「恐れ多いことでございます、タマエさま」
「……ムラカミさん」
怒りを押し殺すと、声って平坦になる。私は先輩に目を向けたまま、周囲にいるはずの父の部下を呼ぶ。
「ここにおります」
「でしょうね」
右斜め前方、木の枝に三十代くらいの男の姿。黒縁眼鏡に黒いスーツに黒いネクタイ、オマケに黒いシャツと、全身黒尽くめ。木の枝に腰掛けているように見えるが、その姿は幻影。本体は、どこかにあるアジトの椅子にでも腰掛けているのだろう。魔法レベルは相当の腕前。カラスに似た使い魔を操って、四六時中私のことを観察している職務熱心な男だ。
「いらないって、言いませんでした?」
「記憶しておりますよ」
こちらの言葉をさらりと流す、面白がっているような声。苛立ちは膨れるが、こちらが怒れば怒るほど、冷たい印象の顔に何だか楽しそうな色が見えるので癪に障る。
「これもあなたのお父上からのご命令ですので。物騒な世の中ですから、護衛が必要だと」
「産まれてこのかた十六年。護衛が必要だった目になんて一度もあったことがないんですけど!
それに、父は私達を捨てたんです。今更、あなたのような人が現れても迷惑なんです。これっぽっちもかまって欲しくないんです!」
親指と人差し指を一ミリほど離して言ってやる。ムラカミは猫のように目を細め、含み笑い。
「……ですが、今から遭遇するかも知れないじゃないですか。あなたの父上のことが世間にばれると」
嫌みったらしい。実に嫌みったらしいったらありゃしない。先輩は相変わらず頭を下げたまま。
「ムラカミさん、ともかく、これ以上、わけのわからない人を増やさないでください。私は極々普通に生活をおくりたいって何度も言ったはずです」
「では、彼には消滅してもらいますか」
「待って!」
キザったらしく魔法を解くため、指を鳴らそうとポーズをとるので、慌ててとめる。
「今まで通り、先輩は先輩らしく生活しててもらうわ」
「承知しました」
思惑通りな顔で微笑むムラカミ。現れたときと同じように、姿は薄くなり、消える。
何もかも、ムラカミの思い通りになっているようで、腹立たしい。
先輩はようやく夢から醒めた顔で、頭を上げ、
「誰? ここ……体育館裏? どうして?」
疑問符だらけの顔。ある程度は教えておいた方が良い人もいる。戦士を目指してる先輩なら、知っておいたほうがいいだろう。
「先輩、最後を覚えてますか?」
服装に乱れはないし、怪我をしている様子もない。管理人のおばーさんは、階段から転落死したところをムラカミに魔法をかけられたらしいけれど、先輩は何があったのだろう。
「……え、俺……あれ? どうして生きてるんだ? あの時……」
心臓辺りを触っている。死んだときの具体的情報は知りたくないから、話を続ける。
「魔王の手下には強力な魔法使いがいて、死霊を操ることもできます」
「は?」
変な顔をする。そりゃそうだろう。そう言われても、現状を把握できる人間なんてまずいない。
「残念ながら、先輩はアンデット系モンスターに変えられました」
「……護符! 痛っ」
胸元から生徒手帳にはさんだお守りを投げ捨てる。
「あー……えぇっと…………」
「授業で習われているのでご存知かと思いますが、聖なるもの、聖なる場所には近寄ることができません。それと、火を通したものは食べられなくなっていますのでご注意ください。
それとあと一つ」
茫然自失の先輩の顔を覗き込む。
「私に害が及びそうな時、先輩の意思とは無関係に、私を助けるために体が動きます。その時、酷い怪我をおうかもしれませんが、死ぬことはありません。あなたを操っている死霊使いを倒さない限り、あなたは何度でも蘇ります」
静かに聴いている先輩。つくづく気の毒だなぁと思う。そして、この言葉を言わなければならない自分の身が恨めしい。
「それと、魔王の娘である私に害を及ぼすことは出来ません」
後日、先輩が私に告白してたなんて噂がたったらしいが、すぐに消えてしまった。私に害をなすものは、何としてでも取り除くのが彼等の使命。きっと私の知らないところで、誰かが動いたのだろうが、そんなことを気にしてたら神経が持たない。
私は平穏無事に日々を送っている、ごく普通の女子高生だ。
終
『極々普通』をご覧いただきありがとうございました。
にっこりと会釈。階段掃除の途中らしく、箒片手に極上笑顔で管理人のおばーさん。白髪の髪をきりりとお団子にまとめ、曲がった背をそのときばかりはしゃきりと伸ばす。
数ヶ月前の私なら、確実に同じくらいの愛想の良さで挨拶を返していたところだけれど、今の私はそれが出来ない。良心の痛みを感じつつ、
「おはよう……ございます」
小さな、暗い声で返すのが精一杯。というか、挨拶し返してる時点で負けてる気がする。本来ならば無視が妥当。でも、それをしちゃうと後ろめたさからくるストレスで胃が痛くなってしまう。
錆びついた階段。かなり神経を使わなければどうしても足音を消すことが出来ない。二階建ての古い安アパート。階段から二つ目、ちょうど真ん中にあるのが私の部屋。母が亡くなる半年前まで、二人きりで一緒に暮らしていた部屋。
普通の女子高生より多少苦労している身の上とはいえ、制服を着て、学校に通う私の姿は極普通。特別な事など、表面上うかがえる部分はどこにもない。
バスに乗り、通勤電車に揺られ、学校に着く。悔しいことに、貯金が底をついた頃父からの仕送りが始まり、私はこれまで通り、学校を辞めることなく暮らしていけている。
父は私が幼かった頃、世界征服するんだなんて馬鹿な夢を語って突然消えてしまった。たまには仕送りがあったようだけれど、それじゃ暮らしていけないから母と二人、私達は爪に火をともすような思いで生きてきた。そんな母が心労で倒れ、あっけなくこの世を去ってしまったのは父のせいだとしか思えない。
十年近くも音信不通でいたくせに、二ヶ月前、突然父の部下を名乗る男を私の前に送ってきた父。あまりにも腹立たしくて、なるべく父の金など使いたくはないけれど、背に腹はかえられない。
「おっはよー!」
後ろから声を掛けられ、肩を叩かれる。元気良いのは良いことだけれど、心臓が飛び出しそうだ。私は瞬時に周囲に視線を走らせてから、挨拶し返す。彼女は友人だって伝えてるとはいえ、何が起こるかわからない。父の知り合いって、理解不能なんだもの。
会話は自然な流れで世間話にシフトする。今日は平穏無事に始まった。心の中で拳を握る。
下駄箱を開けると一通の紙切れ。友人の誰かからの伝言だろうと、その場であけて一読。固まる。
「どうしたの?」
不審げな顔で横から手紙を覗き込んでくるので、慌てて握りつぶす。硬く硬く紙を握って、ポケットへ突っ込む。
「ごめん、ちょっと用事思い出した」
「ちょっとー、一時間目、移動だよ?」
「わかってる。それまでには戻る……」
下足に履き替えて駆け出す。父の部下の人って、思考が読めない。
紙に書かれていた、指定の場所。体育館の裏。近くに道があるものの、通勤時間から外れたためか、人通りはない。
「お待ちしておりました」
私の前で頭を下げているのは、友人憧れの剣道部の先輩。昨日までなら、私の顔など知りもしなかったはずの人。手紙も実直な性格が現れたかのような、事務的な契約書だった。
「頭を上げてください」
「恐れ多いことでございます、タマエさま」
「……ムラカミさん」
怒りを押し殺すと、声って平坦になる。私は先輩に目を向けたまま、周囲にいるはずの父の部下を呼ぶ。
「ここにおります」
「でしょうね」
右斜め前方、木の枝に三十代くらいの男の姿。黒縁眼鏡に黒いスーツに黒いネクタイ、オマケに黒いシャツと、全身黒尽くめ。木の枝に腰掛けているように見えるが、その姿は幻影。本体は、どこかにあるアジトの椅子にでも腰掛けているのだろう。魔法レベルは相当の腕前。カラスに似た使い魔を操って、四六時中私のことを観察している職務熱心な男だ。
「いらないって、言いませんでした?」
「記憶しておりますよ」
こちらの言葉をさらりと流す、面白がっているような声。苛立ちは膨れるが、こちらが怒れば怒るほど、冷たい印象の顔に何だか楽しそうな色が見えるので癪に障る。
「これもあなたのお父上からのご命令ですので。物騒な世の中ですから、護衛が必要だと」
「産まれてこのかた十六年。護衛が必要だった目になんて一度もあったことがないんですけど!
それに、父は私達を捨てたんです。今更、あなたのような人が現れても迷惑なんです。これっぽっちもかまって欲しくないんです!」
親指と人差し指を一ミリほど離して言ってやる。ムラカミは猫のように目を細め、含み笑い。
「……ですが、今から遭遇するかも知れないじゃないですか。あなたの父上のことが世間にばれると」
嫌みったらしい。実に嫌みったらしいったらありゃしない。先輩は相変わらず頭を下げたまま。
「ムラカミさん、ともかく、これ以上、わけのわからない人を増やさないでください。私は極々普通に生活をおくりたいって何度も言ったはずです」
「では、彼には消滅してもらいますか」
「待って!」
キザったらしく魔法を解くため、指を鳴らそうとポーズをとるので、慌ててとめる。
「今まで通り、先輩は先輩らしく生活しててもらうわ」
「承知しました」
思惑通りな顔で微笑むムラカミ。現れたときと同じように、姿は薄くなり、消える。
何もかも、ムラカミの思い通りになっているようで、腹立たしい。
先輩はようやく夢から醒めた顔で、頭を上げ、
「誰? ここ……体育館裏? どうして?」
疑問符だらけの顔。ある程度は教えておいた方が良い人もいる。戦士を目指してる先輩なら、知っておいたほうがいいだろう。
「先輩、最後を覚えてますか?」
服装に乱れはないし、怪我をしている様子もない。管理人のおばーさんは、階段から転落死したところをムラカミに魔法をかけられたらしいけれど、先輩は何があったのだろう。
「……え、俺……あれ? どうして生きてるんだ? あの時……」
心臓辺りを触っている。死んだときの具体的情報は知りたくないから、話を続ける。
「魔王の手下には強力な魔法使いがいて、死霊を操ることもできます」
「は?」
変な顔をする。そりゃそうだろう。そう言われても、現状を把握できる人間なんてまずいない。
「残念ながら、先輩はアンデット系モンスターに変えられました」
「……護符! 痛っ」
胸元から生徒手帳にはさんだお守りを投げ捨てる。
「あー……えぇっと…………」
「授業で習われているのでご存知かと思いますが、聖なるもの、聖なる場所には近寄ることができません。それと、火を通したものは食べられなくなっていますのでご注意ください。
それとあと一つ」
茫然自失の先輩の顔を覗き込む。
「私に害が及びそうな時、先輩の意思とは無関係に、私を助けるために体が動きます。その時、酷い怪我をおうかもしれませんが、死ぬことはありません。あなたを操っている死霊使いを倒さない限り、あなたは何度でも蘇ります」
静かに聴いている先輩。つくづく気の毒だなぁと思う。そして、この言葉を言わなければならない自分の身が恨めしい。
「それと、魔王の娘である私に害を及ぼすことは出来ません」
後日、先輩が私に告白してたなんて噂がたったらしいが、すぐに消えてしまった。私に害をなすものは、何としてでも取り除くのが彼等の使命。きっと私の知らないところで、誰かが動いたのだろうが、そんなことを気にしてたら神経が持たない。
私は平穏無事に日々を送っている、ごく普通の女子高生だ。
終
『極々普通』をご覧いただきありがとうございました。
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