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夕焼け
 朝はそれまでと同じ、ごくごく普通の始まり方をした。
 いつもと変わりなく目覚め、独身者としてはあたり前だと思うインスタント味噌汁にパンという食事を済ませ、家を出た。
 遅くもなく、早くも無い。いつもと同じ八時四十分という時間。いつも見ている朝のテレビ番組は八時四十分になるとCMに入る。そうすると私はテレビを切り、バスに乗るため家を出る。

 昼は……いつもと同じパン屋で買った、いつもと同じ、美味くも不味くも無いサンドイッチを頬張り、点数を溜めたいがためだけに買っている苦手な缶コーヒーを飲んだ。

 帰途につくのは夕方といってもまだ早いくらいの時間帯。
 いつも通り―――と繰り返しているが、私は規則正しい生活を心がけているわけではない。ただただ他にすることがないだけ。
 いつも通り私は歩いていた。運動不足気味な気がして、一月ほど前から歩いて帰るようになったのだ。
 公園に差し掛かる。公園といってはみてもあまり大きなものではなく、小さな遊具やベンチが置かれた、たまに親子連れや、中高生の姿を見かけるくらいのさびれた所。この公園を抜ければずいぶん近道になる。
「ねぇ」
 小さな声がした。少女の声だ。
 いつの間にやら、真っ黒なワンピースを着た少女が私から三メートルほど離れたブランコに腰掛け、大地に足をつけたままゆらゆら揺れていた。
 始めてみる顔だった。異常に白い肌。細く長い髪はお下げに結われ、腰までたれている。
 少女が漕ぐたびに古いブランコはキー、キーと嫌な音を立てる。
 呼び止められた気がしたのだが……私は首を傾げ、再び歩き出そうとした。
「ねぇ」
 今度ははっきりと、少女は私を呼び止めるために声をあげた。
「あなた、もうすぐ死ぬのよ」
 私は辺りを見渡した。少女の周囲には誰もいない。もちろん、私の周囲にも。
「誰も見たこともないくらい、とても美しいものを見ながらあなたは死ぬの」
 少女の目が捉えているのは私。
「あなたの見るそれは、何よりも美しい」
 表情の無い、真っ黒な瞳。口元だけに笑みを浮かべ、じっと私を見る。
「どういうこと?」
 何を尋ねていいものかわからず、私は疑問を口にした。
「美しいのよ、とっても」
「何のこと?」
「いままであなたが見てきた美しいもの――それを全部足しても足りないくらい……」
 美しいの、と少女の唇は動く。少女の発する言葉には妙な迫力があった。そしてその雰囲気にも。
「君は誰?」
「私は――あなたが嫌いな人」
「嫌い?」
 会ったこともないのに?
「どこかで会ったことがある―――?」
「そうよ」
「どこで?」
 少女はそれに答えない。
「約束果たしたから」
 そういい残し少女はふらりと立ち上がる。
「約束?」
 私の問いかけに答えもせず、思わぬほどの早足で去ってゆく。公園を出て、右に曲がり―――姿は消えた。まるで、幽霊のように。
「何だったんだろう……」
 私はつぶやき、また歩き始める。

 それから一時間ばかりも歩いただろうか。
 いつも買い物をしているスーパーで、貧しい食材を買い込む。インスタント味噌汁に食パン。インスタントラーメン。おにぎり。清涼飲料水。そんなもの。
 そのころにはとうに少女のことなど忘れてしまい、今夜何をして暇をつぶそうか、そんなことを考えていた。読書? ビデオ? テレビ? 私は趣味と言えるようなものがない。
 スーパーを出ると眩しい西日。目を細め、顔をそむける。
「夕方か」
 誰に言うともなく呟く。
 一人暮らしをし始めて、独り言がめっきり増えた。家まではあと十分ほど歩けばたどり着く。下手な鼻歌を口ずさみながら、ぶらぶらと歩く。
 川岸の土手。風が少し肌寒い。
「今日は一段と夕日が美しいな―――」
 美しい?
『あなた、もうすぐ死ぬのよ』
 変なことを思い出した。
 一言思い出せば、記憶は勝手に再生されるもので―――瞬時に、少女が去ってゆくところまで思い出す。
『約束果たしたから』
 確かにそう言った。
「約束……って何だろう?」
 いつかどこかで会ったというその少女。その少女と私は何を約束したと言うのだろう。
 頭の中では少女の言葉が何度も繰り返し、疑問だけを増してゆく。
「何だろう」

            ―――キキーッ
                                    ドン……

 宙を舞う。
 空を切る音が耳の側で響く。

        ドサッ―――

 重い物が落ちる音。
 目を開ければ――あれ、空だ。
 赤く染まった空。
「大丈夫?」
 少女の薄い笑い声。
 大丈夫って――何が?
 眠い。何だか疲れた。
 綺麗な空。なんて赤い夕日だろう。
「ね、綺麗でしょう? 美しいでしょう?」
 その空がまるで少女のものであるかのように言う。
 そうだね。本当に、涙が出るくらい美しい紅色。
「約束、果たせたでしょ?」
 約束―――? 再生される、遠いどこか、忘れていた誰かの記憶。
 
      ***

 目の前には寂しそうな顔をした少女。
「行っちゃうんだよね」
「ほんのしばらくのお別れ、それだけだよ」
 私は少女に笑いかけ、少女の頭に手をのせ髪をすく。少女はさびしげなまなざしを私に向ける。
「ここで引き止めたら、私のこと嫌いになるよね」
 いつも大人びた口調をしているくせに、私と一緒にいるときはどこか子供っぽい。
「引き止めないよ、君は」
「私のこと、信用していいの?」
 悪戯っぽく笑う。でも、どこか寂しげな笑み。
「迎えに来てくれるよね」
「その時には―――嫌だって言っても引っ張って連れてくるから」
「お手柔らかに」
 おどけてみせて、私は静かに淵に立つ。
「あなたの願いは何?」
「え?」
 振り向くと真摯な瞳をした少女。
「死神としてあなたの願いを一つだけ聞いてあげる」
「……それは、死ぬときに聞くものだよね?」
「あなたはそのとき私のこと、覚えてないもの。もしそのとき、あなたが恋人に会いたい、なんて願ったら……私はうっかりあなたを地獄に送っちゃうかも知れないから――」
 君がうっかりミスをすることなんてない。それに、規律を外れることが出来ない性格だということを私はわかっている。
 そう言おうとしたけれど、少女の瞳に気おされた。
 淵は真っ赤に染まっている。
 下界は今、たそがれ時。
 胸を焦がれるような、涙が溢れ出すような……夕焼け空。
「夕焼けが見たいな」
「えっ?」
 予期しない答えだったらしく、少女は大きく瞬いた。
「誰も見たことがないくらい、真っ赤で美しい夕焼け空を見ながら死にたい」
 その時君がそばにいてくれればもっと素敵だけど、と付け足す。
「わかったわ」
「約束だよ」
 少女はしんみりと頷き、
「さよなら」
小さく口にする。
「さよなら――また会うその時まで」
 私は淵から身を乗り出した。
 赤い夕焼け空へ、灰色の街へ私は落ちてゆく―――

     ***

 真っ赤な夕焼け空を見ていると、何だか泣けてきた。
 変だな、私は涙もろくなんてないのに。
「仕方ないよね、死ぬんだもの」
 少女は屈託なく笑う。
「うぁ……うぅ――」
 声を出そうとしても、空気を吐き出す音しかしない。
「無理よ、声は出せないわ」
「うぉ……うぇ……」
「苦しいだけよ、声を出さないほうがいいわ」
 でも、
「しゃべってはダメ」
 静かに、と少女は人差し指を私の口に当てた。
「もうちょっとで完全に抜けるから」
 抜ける? ……あぁ、私の肉体から――
 寒い。
 味わったことのない冷え。体から熱が逃げてゆく。
 寒い、とても寒い。
 これが死――
「そうよ、これが死ぬってこと」
 振り向くと少女。
 振り向く?
 私よりも少し背の低い少女がそこに立っている。死んだのだ、私は。
「ほぼ即死。死因は双方の不注意による交通事故死よ」
 いわゆる閻魔《えんま》台帳を読み上げる少女の声は弾んでいる。表情も泣きだしそうなほど嬉しそう。本当に、らしくない。
 少女は幸福とはいえない私の人生遍歴を読み上げてゆく。それが仕事。
「――以上のことから、あなたは……」
「死神さん」
 呼びかけると、大きく瞳を見開き私を見る。
「私がいつ、君を嫌いだって言った?」
 少女はますます大きく目を見開き、大粒の涙を流し始める。
「ありがとう」
 礼を述べると、泣きながらも怪訝そうな顔をする。
「約束、覚えていてくれて。本当に綺麗な夕焼けだね」
「……がんばったの、私」
 声にならない少女の言葉。
「あなたの好きな色にしようって……」
 好きな色ってことは――
「君が描いたの?」
 少女は大きく頷く。
「本当にがんばったね。私が見た夕焼けの中で、一番美しい空だったよ」
 顔をぐじゃぐじゃにして大泣きし始めた。こうなったら手がつけられない。
「ほんとに、死神らしくないんだから――」
 灰色の街を後にして、燃え立つ空に私と少女はあがってゆく。

 雲の隙間からちらりとのぞく灰色の街。
「もう下界に落されないようにしてね」
 言い聞かせるような少女の声に、私は笑ってうなづいた。
 淵を見やる。宵闇に黒く塗りつぶされていく街。
「心残り、あった?」
 不安そうな少女に、私は大きく首を振る。
 心残りがあるとすれば……がんばって溜めた缶コーヒーのポイントシールくらいかな。



『夕焼け』をご覧いただきありがとうございました。
この作品は「突発性競作企画~紅に帰る~」に参加しています。
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