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弁当
 喧騒《けんそう》としたそれまでが嘘のように、まるで穴の中にでも落ち込んだかのように閑散《かんさん》とした静寂が訪れるのは決まって昼時。
 弁当を買い出しに行く者、外食へと出る者、申し合わせたようにいなくなり、自分ただ一人が取り残される。
 誰もいないことを確認し、俺は課長の鞄を広げ、渋い緑色のハンカチに包まれた弁当を取り出す。
 ふたを開けてみると、昨日、言っておいた通りのサンドイッチ。
――プルルルルルッ
 タイマーセットでもされているかのように、決まった時間にそれは鳴る。
 俺はサンドイッチ片手に、もう片方の手を受話器に伸ばす。
「あなた?」
 第一声は女性のそれ。
「お弁当食べてる?」
 言われて俺はいつもより低い声で、食べてると答える。
「そう」
 ほっとしたような、嬉しげな女性の声。
「あなたがあんなこと言い出すから……」
 と、思い出し笑い。
 俺もつられてにんまり笑う。
「どこに売ってるか探しちゃった」
 その声に導かれるように、サンドイッチにささったハート型のピックを摘み上げる。
「明日は、手作りのミートボールがいいな」
「ミートボール? あなた、あんなもの子供の食べ物だって言ってたじゃない?」
「そうだったか?」
 酒が入るとよく食べているから、好物だと思っていたんだが。
「甘いのがいいの? それとも甘くないのを作りましょうか?」
「甘いのが良い」
 よくそんなものつまみに、焼酎なんて飲めますねぇ。尋ねた自分の言葉を思い出し、笑えてくる。
「どうしたの? 何がおかしいの?」
「いや、何でもない」
「じゃあ、お仕事がんばってくださいね」
「あぁ」
 がちゃりと電話は切れる。
 女の感は鋭いというが……今日もばれなかった。
 俺は大きく息をつき、女子高生の弁当のような可愛らしいサンドイッチを大急ぎで片付ける。
 誰も帰ってこない間に空になった弁当箱を課長の鞄に戻しておく。最初は心臓が狂ったほど高鳴っていたものだったが、今では慣れたものだ。
 
 仕事が終わればだいたい呑みに誘われる。参加するのは、課長を筆頭に同僚二・三人。俺もその一人。
 通いなれた、チェーン展開している飲み屋で、毎回飽きもせず同じような肴《さかな》を注文し、同じような酒を飲む。
 飲み始めてすぐ、愚痴り始めるのは課長。
「うちの古だぬきが最近色づきやがって、男でも出来たに決まってんだ……俺の稼ぎが悪いからって、何もそんな嫌味な真似しなくってもよさそうなもんだろ? 嫌なら家を出てきゃいいんだ。俺の家にいて、他の男を作んなくてもよさそうなもんを……(中略)……騙されてたんだよ、俺はよぅ。若くて優しいといい女に見えちまうんだよ。若気の至りってやつだな。でも、今じゃ見る影もねぇ、古だぬきだぜ? まったくよう、俺は騙されてたんだよぉ……」
 なんて話が延々続く。毎回同じことを聞く部下の身にもなってほしい。
「でも、いいじゃないですか。最近奥さん優しいんでしょ?」
「ありゃ下心あるに決まってらぁ」
「綺麗にもなったんですよね?」
「男が出来たんだよ」
 課長も年の所為か、ひがみっぽくなっている。
「だから、この間言ってやったんだよ。おまえ好きな奴がいるのか?ってな。そしたらなんて言ったと思う?」
 尋ねつつ、酒をぐいっとあおる。
「課長だって言われたんですか?」
「……なんでわかったんだよ? そうだよ、俺のことじぃっと見て、『あなたに決まってるじゃないですか』なんて言いやがる。ありゃ絶対に他に男がいるんだ」
 そう言う課長の顔は、アルコールではない朱が混じる。
「課長、明日はお弁当を食べてみられたらどうです? 奥さんの愛情がこもったお弁当なんだから」
「……でも、なぁ」
「奥さんが課長の好きなもの、入れてくれてるかも知れないじゃないですか」
 考え込むように静かに飲み始める。連日の押し問答で、課長の心も徐々に傾きつつある様子。後もう一押しってところだろう。
「明日は奥さんの弁当、食べてあげてください」
 課長はどこか上の空の表情。こうなればやっと俺も息がつける。延々上司の愚痴に付き合わされる酒など、胃が痛くなるばかり。

 翌日。
 俺は久々に弁当を買いに出かけた。これからは呑みにもあまり誘われなくなるかもしれない。



『弁当』をご覧いただきありがとうございました。
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