やさしい闇の。(1/3)
妙な夢だ。
そう思いつつ目をあけた歩美は見知らぬ天井に顔をしかめた。だが次の瞬間、昨日の出来事を思い出し、自分の愚かさに苦笑いを漏らす。
自暴自棄になってはいたが、まさか三十歳も過ぎて自分がこんな事をするとは思ってもみなかった。昨日はそう、酔っていたのだ。五年も付き合い、婚約までしていた男に振られて。
会社帰りに呼び出されたのは、考えてみれば久々だった。重要な話があると告げられたとき、歩美はどんな話をされるのか予想していた。ここ数ヶ月、彼がそれを切り出す日を恐れ、待ち望んでいたのだ。
待ち合わせ場所には珍しく、彼が先に待っていた。紺色のスーツに歩美の見た事のないネクタイ、シャツ。あきらかに、歩美の知っている彼の趣味ではない。
「待たせたかしら?」
「いや」
歩美の姿を確認するように、ちらりと視線を上げたものの再びうつむく。
「ごめん、本当に――」
声は小さく、苦しげな響き。
「何?」
「遊びのつもりだったんだ、彼女のことは――でも……」
顔を上げ、助けを乞うような瞳を歩美に向ける。
「……そう」
歩美は笑みを浮かべる。彼にとっては慈愛の、歩美にとっては自嘲の笑み。
彼に他に女がいることを歩美はずいぶん前から知っていた。知っていて、知らないふりをしていた。みっともない真似をしたく無い、その一身で全てを黙殺した。
そんな風に思えるのは彼がその程度の男だったからか。それとも彼を愛しているふりをしている自分が好きだったからか。
彼の言い訳を聞きつつ、歩美は冷静に自問していた。
「――だが、彼女が妊娠した」
耳に飛び込んできた言葉。
「そうなの」
答えた声は歩美自身、驚くほど平常だった。
彼はこの場所でただ一人、安っぽいテレビドラマの主人公みたいに滑稽な演技を続ける。
「俺はけじめをつけたい。だから別れてくれ――」
「わかったわ。じゃ、さよなら」
簡素に答え、歩き出す。歩美は振り返ろうとも思わなかったし、事実振り返らなかった。哀しくは無かったし、混乱もしていなかった。所詮、自分にとってその程度の男だったのだろう。
歩美はこの五年を振り返り、どうして自分があの男を好きになったのか、どこを愛していたのかを思い出そうとした。けれど、頭には何も浮かんでこない。思い出せない。この五年、彼に対し、自分がどんな想いでいたのかわからない。
タイミング良くやってきた電車に乗り込む。
*
電車から降り、歩美は我に返る。
間違えた。
ここはいつもの下車駅ではない。だが、見覚えがある。――高校の時、利用していた駅だと気づいたのはすぐだった。
どうしてこんな所で降りてしまったのだろう。振られた事に自分でも思わないほどショックを受けているのだろうか。
まさか、そんな。
歩美は苦笑する。
時刻表を調べると、乗り換えの電車は一時間以上待たなければならない。ため息を一つつき、駅を出る。
誘蛾灯のように駅前には小さなコンビニ。そこで発泡酒の六缶パックを買い込み、土手に向かった。
部活動に一生懸命だったあの頃。朝、夕方、何度も走った川沿いの土手。辛くて、嫌で、でも、やめたいとは思わなかった。
このまま高校まで歩こうかとも思ったが、買い物袋の中身が重い。土手へと降りるコンクリートの階段に腰を下ろす。
暗い川のせせらぎが気持ちよく耳に響く。遠くを走る車が時折ライトを向けるものの、辺りを照らしているのは弱弱しい月の光だけ。
買い物袋から一本取り出し、プルタブを開ける。二本、三本あくのに時間はかからなかった。酒には強い方ではない。なのに、幾ら呑んでも酔わない。そのかわり、鮮やかに先ほどの会話が蘇る。
『俺はけじめをつけたい。だから別れてくれ――』
『わかったわ。じゃ、さよなら』
あまりにさっぱりした、ドラマにもならないような綺麗な別れ方、振られ方だった。なのに、どうして何度も思い出すのだろう。
「何してんの?」
三十歳過ぎくらいの男の声。見回りだろうか。暗い中、土手で一人で飲んでいるのは確かに不自然だ。
「何でもありません」
移動しようと立ち上がり、歩美はぺたりと座り込む。頭に酔いはまわっていないのに、足にはきていたらしい。
「呑みすぎじゃない?」
男は隣に座り、
「これ、もらって良い?」
勝手に一本あける。あまりに失礼な出来事に、歩美は憮然《ぶぜん》と男を見やる。
妙な男だ。
歩美は男の横顔を見つめる。発泡酒を美味そうに呑みながら、月を見上げている。
顔はハーフと言うより、クォーターっぽい感じ。かといって、美男子でもなく、太陽の下で会ったならば、ありふれた、普通の人と表現するのが良さそうな顔立ち。月の光りが彼の顔立ちの陰影を濃くしている。
落ち着いた響きの声から、三十歳過ぎかと思っていたが、改めて見るとずいぶん若い。二十歳前半、いや大学生だろうか。ジーパンに黒のポロシャツとありふれた格好なので、はっきりしない。
まじまじと歩美が男の顔を見つめていたためだろう、男は恥ずかしげに微笑む。それがまた綺麗で、歩美は魅入られたように微笑み返す。
「僕の顔、何かついてる?」
戸惑った顔もまた、美しい。
「何も」
歩美はずっと見つめたまま。男は照れ隠しのようにまた勝手に一本開け、
「もう一本もらって良い?」
「……どうぞ」
しばらく無言で呑んでいたら、全て空き缶になってしまった。
「呑み足りない」
歩美がぶすりと呟く。
「そうかな?」
男はまるで酔っていない顔。
「あんたが呑むからでしょ」
酔った歩美は男に絡む。
「ごめん」
悪びれた顔もせず、男は格好だけは大げさに謝る。
「ごめんで済んだら警察いらない。もっと呑むの!」
「いや、えっと、僕は帰るから」
立ち上がる男のポロシャツの裾を掴む。
「ダメ。あんただけ酔ってないってズルイ」
「あのさ、酔ってるでしょ? 帰った方がいいよ」
「何言ってるのよ、私は全然酔ってない。あんた、私のお酒盗ったのよ!」
ビシリと音がしそうなほど見事に男を指差す。
「くれるって言ったじゃん」
呆れ顔。
酔ってる、酔ってないの押し問答を繰り返すこと数分。男は根負けした顔で、
「じゃ、近くの居酒屋でも行く?」
「えぇ、行きますよ。行かせていただきます。行ってあんたを酔いつぶしてやる」
「……無理だと思うけど?」
男は何故か不敵に笑う。だから歩美も同じ顔で――男には酔っ払いがヘラヘラ笑っているようにしか見えなかったが――笑って見せる。
「フフフ、大丈夫。負けたら私がおごるから」
そしてどこか、居酒屋に連れて行ってくれたのだ。男の宣言通り、男は幾ら飲んでも酔った様子はなく、逆に歩美は呑みすぎて意識を失ってしまった。
ベッドの中で歩美が居心地悪く寝返りをうっていると、
「起きた?」
彼が現れる。昨日思った通り、何処にでもいそうなありふれた顔でしかない。ただ、年齢は三十歳くらいだろう。若く見間違えるなどどうにかしている。あの時点で相当酔っていたのだろうか。
上半身を起こし、ふらつく頭を支えようと頭に手をやる。
「ごめんなさい。今、何時でしょうか?」
呑み過ぎた為だろう。体がだるいし、頭が痛い。
「九時過ぎって所」
「やばっ、仕事――」
立ち上がろうとして、ベットに沈み込む。とてもじゃないが起き上がれない。
「連絡しといたよ」
彼の手には歩美の携帯。
「『職場』ってとこでしょ?」
確かに登録しといたのだけれど……勝手に他人の携帯を使うだなんて、なんて礼儀知らずなのだろう。いや、この場合は大変助かったのだけれど。
歩美が何と言おうか戸惑っていたところ、
「――ごめんね」
沈み込んだ男の声。昨日のような大げさな身振りはない。
「いえ、助かりました」
恐縮しきった男の様子に歩美は一瞬、頭が痛むのも忘れ頭を下げる。その途端、眩暈《めまい》に襲われる。
あれだけ呑んだのだ。二日酔いにならないわけがないのだが、それにしても酷い。
「いや、じゃなくて――」
言いよどむ男に歩美は慌てて衣服を確認する。
スカートは皺《しわ》だらけで見るも無残だが、ストッキングさえもつけたまま寝てしまったのだから仕方がない。ブラウスは一番上のボタンが外れているけれど、寝苦しくて自分で外した気がする。
どこもおかしくない。昨日の格好のまま。
酔っ払って絡んだあげく、泊まらせてもらったのだからこちらが謝らなければならないのに、何を謝られることがあるのだろう。
「飲み過ぎちゃって」
「え? えーっと……」
歩美の不確かな記憶の奥底に、かなりの額の支払いをした記憶が蘇ってくる。だが、あれは仕方ない。男は財布を持っていなかったのだし、酔った歩美がおごると宣言したのだから。
今月は貯金を切り崩さなければ生活できそうもない。頭が痛むのはそのせいもあるのだろうか。
「お酒強いんですね」
男は歩美よりもずいぶん飲んだはずなのだが、まるで酔った様子がなかった。
「まぁ……ね」
「私は頭がずきずきして――」
「痛み止め飲む?」
「有難う。でもこれ以上ご迷惑をおかけする訳にはいきませんから」
言いはするものの、当分起き上がれそうもない。
「僕は別に構わないけど?」
「……じゃぁ、もうちょっとだけベットをお借りします。もう少ししたら帰りますから」
頑固《がんこ》な歩美の言葉に男は微笑み、
「本当にいいよ、いつまでいたって。僕はちょっと出てくるから」
扉の閉まる音が聞こえた。
*
いい匂いにつられ、歩美は目を覚ます。
枕もとに置かれた時計はすでに一時過ぎ。ずいぶん長い間寝ていたらしい。
「やっと起きた。気分はどう?」
「まぁまぁです」
頭は相変わらず痛いが、気分はずいぶん良くなっている。二日酔い特有の嫌な汗で体中気持ち悪いが、あれだけ呑んだのだから当然だろう。
「お粥食べる?」
この匂いはお粥なのか。
意識した途端、お腹は大きな音を鳴らす。
「あまり食事作らないから、レトルトだけど」
これ以上、迷惑を掛けたくはないと言ったはずだが、背に腹は替えられない。
「いいえ、有難うございます」
「そんなにかしこまらなくて良いよ、森さん」
男はついでにと言った様子で言い置き、台所に向かう。
「そんなわけには――って、どうして私の名前を?」
「高校の同級なんだけど……覚えてない?」
覚えていないと首を振る。とにかく、歩美の高校時代の思い出と言えば部活動しかない。
「そっか。じゃ、改めて茅ケ崎《ちがさき》です。よろしく」
軽く頭を下げ、
「でもそれじゃ、」
驚いた顔。
「昨日は知らない相手に酔って絡んでたの? 森さん、そんな人だとは思わなかった。危ないよ?」
「あんた――茅ケ崎君が話しかけてきたんじゃない」
同級生とわかり、途端口調を改めるのもどうかと思うが、相手が砕けた口調である以上、こちらも丁寧にやる必要はない。顔見知りであるならば無論の事。
「そうだっけ?」
「そうよ」
自信を持って歩美が答えるので、茅ケ崎はそれ以上反論しようとはせず、質問を変えた。
「あんなとこで何してたの?」
「何って……呑んでたのよ」
「川を見ながら?」
「そうよ、あんたこそ何してたの?」
「散歩」
「あんな場所を?」
街頭がありはするものの、何もない寂しい場所だ。
「月を見ながらブラブラしてると気持ち良いんだよ」
その言葉に歩美はふっと息を吐いた。始めの印象通り、悪い人間じゃない。
「でも、勝手に人のお酒を呑むのはどうかと思うわ」
「だって、くれるって言ったでしょ?」
三十歳過ぎた男が『だって』なんて言っても可愛くない。
「あれは事後承諾よ。私はあんたが呑むから仕方なく「あげる」って言ったの」
子供のように歩美は頬を膨らませる。
「森さんってそんな人だとは思わなかった」
茅ケ崎はつぶやくように先ほどと同じ台詞を言い、おかしげに笑いはじめる。
「何よ」
ぶすりと歩美。
「いや、だって森さんって大人びた優等生ってイメージだったから……」
十年以上昔の話。歩美は同窓会にもここ十年くらいは顔を出していない。茅ケ崎の中の歩美はあの頃のイメージのままで、現実の歩美とのギャップに呆れているのだろう。
歩美は気恥ずかしさと、妙な腹立たしさから顔を赤くする。
「悪かったわね」
「何かあったの?」
茅ケ崎はクスクス笑いをようやく引っ込め、真面目な顔でたずねる。話をうまくそらせたと思っていた歩美はびくりと震える。
「何かって?」
わかっていてはぐらかす。
「川を見ながら酒盛りしなけりゃならない理由《りゆう》」
「……関係ないでしょ」
「そうかなぁ? 僕、絡まれた上にベット盗られてるんだけど」
回りくどく責めるやつだ。
歩美は一つ息を吐き、顔を背ける。
「すてられたのよ。婚約者に」
どうしてこんな事を話しているのだろう。歩美は自問するが、答えはない。茅ケ崎に迷惑をかけたから? それとも茅ケ崎の持っている独特の雰囲気のせいだろうか?
「どうして?」
優しく、力強い声。歩美に非がないと信じきっている声。
それまで、歩美は泣きたいなんて思わなかったのに、何故だか涙があふれてくる。
「別の女を妊娠させたから、責任とるって」
「そっか――酷いヤツだね」
酷い? 違う。酷いのは私だ。私のプライドを満足させるために別れてやらなかった。彼はずっと苦しんでいたはずだ。
ぎゅっと布団を握り締める。
でも、仕方ないじゃない。私は好きだったのよ、彼の事。――嘘だ。好きだなんて錯覚だ。彼の何処に好きになる要素があったというのだ?
冷静な自分自身は彼を否定していた。けれども、それでも、理由なんてなくただ彼が好きだった――好きだったのだ……。
涙が一筋こぼれ落ち、せきを切るように嗚咽が漏れる。
「お粥、持ってこようか? 冷めちゃったかも知れないけど」
非難も同情も、励ましもない声がありがたい。
「……ありがと……」
茅ケ崎が言っていた通り、食事はコンビニで買ってきたらしい温めただけのお粥と、インスタントのほうれん草の味噌汁、それに栄養ドリンクだった。
腹がくちくなれば、眠くなる。十分眠ったはずなのに、歩美の瞼《まぶた》は重い。
「寝ていいよ」
茅ケ崎が優しく言う。
「そんなわけにはいかないわよ。明日は仕事行かなきゃ」
それに着替えなければ気持ち悪い。
歩美は睡魔と闘うが、
「明日は日曜だけど?」
「……そうだっけ?」
答える声はすでに重く、引きずり込まれるように眠りに落ちる。
自分が思わなかったほど精神的に疲れていたんだろうか。茅ケ崎が布団を掛けなおしてくれている気配に「ありがと」と呟くが、声になっていたのか歩美にはわからなかった。
そう思いつつ目をあけた歩美は見知らぬ天井に顔をしかめた。だが次の瞬間、昨日の出来事を思い出し、自分の愚かさに苦笑いを漏らす。
自暴自棄になってはいたが、まさか三十歳も過ぎて自分がこんな事をするとは思ってもみなかった。昨日はそう、酔っていたのだ。五年も付き合い、婚約までしていた男に振られて。
会社帰りに呼び出されたのは、考えてみれば久々だった。重要な話があると告げられたとき、歩美はどんな話をされるのか予想していた。ここ数ヶ月、彼がそれを切り出す日を恐れ、待ち望んでいたのだ。
待ち合わせ場所には珍しく、彼が先に待っていた。紺色のスーツに歩美の見た事のないネクタイ、シャツ。あきらかに、歩美の知っている彼の趣味ではない。
「待たせたかしら?」
「いや」
歩美の姿を確認するように、ちらりと視線を上げたものの再びうつむく。
「ごめん、本当に――」
声は小さく、苦しげな響き。
「何?」
「遊びのつもりだったんだ、彼女のことは――でも……」
顔を上げ、助けを乞うような瞳を歩美に向ける。
「……そう」
歩美は笑みを浮かべる。彼にとっては慈愛の、歩美にとっては自嘲の笑み。
彼に他に女がいることを歩美はずいぶん前から知っていた。知っていて、知らないふりをしていた。みっともない真似をしたく無い、その一身で全てを黙殺した。
そんな風に思えるのは彼がその程度の男だったからか。それとも彼を愛しているふりをしている自分が好きだったからか。
彼の言い訳を聞きつつ、歩美は冷静に自問していた。
「――だが、彼女が妊娠した」
耳に飛び込んできた言葉。
「そうなの」
答えた声は歩美自身、驚くほど平常だった。
彼はこの場所でただ一人、安っぽいテレビドラマの主人公みたいに滑稽な演技を続ける。
「俺はけじめをつけたい。だから別れてくれ――」
「わかったわ。じゃ、さよなら」
簡素に答え、歩き出す。歩美は振り返ろうとも思わなかったし、事実振り返らなかった。哀しくは無かったし、混乱もしていなかった。所詮、自分にとってその程度の男だったのだろう。
歩美はこの五年を振り返り、どうして自分があの男を好きになったのか、どこを愛していたのかを思い出そうとした。けれど、頭には何も浮かんでこない。思い出せない。この五年、彼に対し、自分がどんな想いでいたのかわからない。
タイミング良くやってきた電車に乗り込む。
*
電車から降り、歩美は我に返る。
間違えた。
ここはいつもの下車駅ではない。だが、見覚えがある。――高校の時、利用していた駅だと気づいたのはすぐだった。
どうしてこんな所で降りてしまったのだろう。振られた事に自分でも思わないほどショックを受けているのだろうか。
まさか、そんな。
歩美は苦笑する。
時刻表を調べると、乗り換えの電車は一時間以上待たなければならない。ため息を一つつき、駅を出る。
誘蛾灯のように駅前には小さなコンビニ。そこで発泡酒の六缶パックを買い込み、土手に向かった。
部活動に一生懸命だったあの頃。朝、夕方、何度も走った川沿いの土手。辛くて、嫌で、でも、やめたいとは思わなかった。
このまま高校まで歩こうかとも思ったが、買い物袋の中身が重い。土手へと降りるコンクリートの階段に腰を下ろす。
暗い川のせせらぎが気持ちよく耳に響く。遠くを走る車が時折ライトを向けるものの、辺りを照らしているのは弱弱しい月の光だけ。
買い物袋から一本取り出し、プルタブを開ける。二本、三本あくのに時間はかからなかった。酒には強い方ではない。なのに、幾ら呑んでも酔わない。そのかわり、鮮やかに先ほどの会話が蘇る。
『俺はけじめをつけたい。だから別れてくれ――』
『わかったわ。じゃ、さよなら』
あまりにさっぱりした、ドラマにもならないような綺麗な別れ方、振られ方だった。なのに、どうして何度も思い出すのだろう。
「何してんの?」
三十歳過ぎくらいの男の声。見回りだろうか。暗い中、土手で一人で飲んでいるのは確かに不自然だ。
「何でもありません」
移動しようと立ち上がり、歩美はぺたりと座り込む。頭に酔いはまわっていないのに、足にはきていたらしい。
「呑みすぎじゃない?」
男は隣に座り、
「これ、もらって良い?」
勝手に一本あける。あまりに失礼な出来事に、歩美は憮然《ぶぜん》と男を見やる。
妙な男だ。
歩美は男の横顔を見つめる。発泡酒を美味そうに呑みながら、月を見上げている。
顔はハーフと言うより、クォーターっぽい感じ。かといって、美男子でもなく、太陽の下で会ったならば、ありふれた、普通の人と表現するのが良さそうな顔立ち。月の光りが彼の顔立ちの陰影を濃くしている。
落ち着いた響きの声から、三十歳過ぎかと思っていたが、改めて見るとずいぶん若い。二十歳前半、いや大学生だろうか。ジーパンに黒のポロシャツとありふれた格好なので、はっきりしない。
まじまじと歩美が男の顔を見つめていたためだろう、男は恥ずかしげに微笑む。それがまた綺麗で、歩美は魅入られたように微笑み返す。
「僕の顔、何かついてる?」
戸惑った顔もまた、美しい。
「何も」
歩美はずっと見つめたまま。男は照れ隠しのようにまた勝手に一本開け、
「もう一本もらって良い?」
「……どうぞ」
しばらく無言で呑んでいたら、全て空き缶になってしまった。
「呑み足りない」
歩美がぶすりと呟く。
「そうかな?」
男はまるで酔っていない顔。
「あんたが呑むからでしょ」
酔った歩美は男に絡む。
「ごめん」
悪びれた顔もせず、男は格好だけは大げさに謝る。
「ごめんで済んだら警察いらない。もっと呑むの!」
「いや、えっと、僕は帰るから」
立ち上がる男のポロシャツの裾を掴む。
「ダメ。あんただけ酔ってないってズルイ」
「あのさ、酔ってるでしょ? 帰った方がいいよ」
「何言ってるのよ、私は全然酔ってない。あんた、私のお酒盗ったのよ!」
ビシリと音がしそうなほど見事に男を指差す。
「くれるって言ったじゃん」
呆れ顔。
酔ってる、酔ってないの押し問答を繰り返すこと数分。男は根負けした顔で、
「じゃ、近くの居酒屋でも行く?」
「えぇ、行きますよ。行かせていただきます。行ってあんたを酔いつぶしてやる」
「……無理だと思うけど?」
男は何故か不敵に笑う。だから歩美も同じ顔で――男には酔っ払いがヘラヘラ笑っているようにしか見えなかったが――笑って見せる。
「フフフ、大丈夫。負けたら私がおごるから」
そしてどこか、居酒屋に連れて行ってくれたのだ。男の宣言通り、男は幾ら飲んでも酔った様子はなく、逆に歩美は呑みすぎて意識を失ってしまった。
ベッドの中で歩美が居心地悪く寝返りをうっていると、
「起きた?」
彼が現れる。昨日思った通り、何処にでもいそうなありふれた顔でしかない。ただ、年齢は三十歳くらいだろう。若く見間違えるなどどうにかしている。あの時点で相当酔っていたのだろうか。
上半身を起こし、ふらつく頭を支えようと頭に手をやる。
「ごめんなさい。今、何時でしょうか?」
呑み過ぎた為だろう。体がだるいし、頭が痛い。
「九時過ぎって所」
「やばっ、仕事――」
立ち上がろうとして、ベットに沈み込む。とてもじゃないが起き上がれない。
「連絡しといたよ」
彼の手には歩美の携帯。
「『職場』ってとこでしょ?」
確かに登録しといたのだけれど……勝手に他人の携帯を使うだなんて、なんて礼儀知らずなのだろう。いや、この場合は大変助かったのだけれど。
歩美が何と言おうか戸惑っていたところ、
「――ごめんね」
沈み込んだ男の声。昨日のような大げさな身振りはない。
「いえ、助かりました」
恐縮しきった男の様子に歩美は一瞬、頭が痛むのも忘れ頭を下げる。その途端、眩暈《めまい》に襲われる。
あれだけ呑んだのだ。二日酔いにならないわけがないのだが、それにしても酷い。
「いや、じゃなくて――」
言いよどむ男に歩美は慌てて衣服を確認する。
スカートは皺《しわ》だらけで見るも無残だが、ストッキングさえもつけたまま寝てしまったのだから仕方がない。ブラウスは一番上のボタンが外れているけれど、寝苦しくて自分で外した気がする。
どこもおかしくない。昨日の格好のまま。
酔っ払って絡んだあげく、泊まらせてもらったのだからこちらが謝らなければならないのに、何を謝られることがあるのだろう。
「飲み過ぎちゃって」
「え? えーっと……」
歩美の不確かな記憶の奥底に、かなりの額の支払いをした記憶が蘇ってくる。だが、あれは仕方ない。男は財布を持っていなかったのだし、酔った歩美がおごると宣言したのだから。
今月は貯金を切り崩さなければ生活できそうもない。頭が痛むのはそのせいもあるのだろうか。
「お酒強いんですね」
男は歩美よりもずいぶん飲んだはずなのだが、まるで酔った様子がなかった。
「まぁ……ね」
「私は頭がずきずきして――」
「痛み止め飲む?」
「有難う。でもこれ以上ご迷惑をおかけする訳にはいきませんから」
言いはするものの、当分起き上がれそうもない。
「僕は別に構わないけど?」
「……じゃぁ、もうちょっとだけベットをお借りします。もう少ししたら帰りますから」
頑固《がんこ》な歩美の言葉に男は微笑み、
「本当にいいよ、いつまでいたって。僕はちょっと出てくるから」
扉の閉まる音が聞こえた。
*
いい匂いにつられ、歩美は目を覚ます。
枕もとに置かれた時計はすでに一時過ぎ。ずいぶん長い間寝ていたらしい。
「やっと起きた。気分はどう?」
「まぁまぁです」
頭は相変わらず痛いが、気分はずいぶん良くなっている。二日酔い特有の嫌な汗で体中気持ち悪いが、あれだけ呑んだのだから当然だろう。
「お粥食べる?」
この匂いはお粥なのか。
意識した途端、お腹は大きな音を鳴らす。
「あまり食事作らないから、レトルトだけど」
これ以上、迷惑を掛けたくはないと言ったはずだが、背に腹は替えられない。
「いいえ、有難うございます」
「そんなにかしこまらなくて良いよ、森さん」
男はついでにと言った様子で言い置き、台所に向かう。
「そんなわけには――って、どうして私の名前を?」
「高校の同級なんだけど……覚えてない?」
覚えていないと首を振る。とにかく、歩美の高校時代の思い出と言えば部活動しかない。
「そっか。じゃ、改めて茅ケ崎《ちがさき》です。よろしく」
軽く頭を下げ、
「でもそれじゃ、」
驚いた顔。
「昨日は知らない相手に酔って絡んでたの? 森さん、そんな人だとは思わなかった。危ないよ?」
「あんた――茅ケ崎君が話しかけてきたんじゃない」
同級生とわかり、途端口調を改めるのもどうかと思うが、相手が砕けた口調である以上、こちらも丁寧にやる必要はない。顔見知りであるならば無論の事。
「そうだっけ?」
「そうよ」
自信を持って歩美が答えるので、茅ケ崎はそれ以上反論しようとはせず、質問を変えた。
「あんなとこで何してたの?」
「何って……呑んでたのよ」
「川を見ながら?」
「そうよ、あんたこそ何してたの?」
「散歩」
「あんな場所を?」
街頭がありはするものの、何もない寂しい場所だ。
「月を見ながらブラブラしてると気持ち良いんだよ」
その言葉に歩美はふっと息を吐いた。始めの印象通り、悪い人間じゃない。
「でも、勝手に人のお酒を呑むのはどうかと思うわ」
「だって、くれるって言ったでしょ?」
三十歳過ぎた男が『だって』なんて言っても可愛くない。
「あれは事後承諾よ。私はあんたが呑むから仕方なく「あげる」って言ったの」
子供のように歩美は頬を膨らませる。
「森さんってそんな人だとは思わなかった」
茅ケ崎はつぶやくように先ほどと同じ台詞を言い、おかしげに笑いはじめる。
「何よ」
ぶすりと歩美。
「いや、だって森さんって大人びた優等生ってイメージだったから……」
十年以上昔の話。歩美は同窓会にもここ十年くらいは顔を出していない。茅ケ崎の中の歩美はあの頃のイメージのままで、現実の歩美とのギャップに呆れているのだろう。
歩美は気恥ずかしさと、妙な腹立たしさから顔を赤くする。
「悪かったわね」
「何かあったの?」
茅ケ崎はクスクス笑いをようやく引っ込め、真面目な顔でたずねる。話をうまくそらせたと思っていた歩美はびくりと震える。
「何かって?」
わかっていてはぐらかす。
「川を見ながら酒盛りしなけりゃならない理由《りゆう》」
「……関係ないでしょ」
「そうかなぁ? 僕、絡まれた上にベット盗られてるんだけど」
回りくどく責めるやつだ。
歩美は一つ息を吐き、顔を背ける。
「すてられたのよ。婚約者に」
どうしてこんな事を話しているのだろう。歩美は自問するが、答えはない。茅ケ崎に迷惑をかけたから? それとも茅ケ崎の持っている独特の雰囲気のせいだろうか?
「どうして?」
優しく、力強い声。歩美に非がないと信じきっている声。
それまで、歩美は泣きたいなんて思わなかったのに、何故だか涙があふれてくる。
「別の女を妊娠させたから、責任とるって」
「そっか――酷いヤツだね」
酷い? 違う。酷いのは私だ。私のプライドを満足させるために別れてやらなかった。彼はずっと苦しんでいたはずだ。
ぎゅっと布団を握り締める。
でも、仕方ないじゃない。私は好きだったのよ、彼の事。――嘘だ。好きだなんて錯覚だ。彼の何処に好きになる要素があったというのだ?
冷静な自分自身は彼を否定していた。けれども、それでも、理由なんてなくただ彼が好きだった――好きだったのだ……。
涙が一筋こぼれ落ち、せきを切るように嗚咽が漏れる。
「お粥、持ってこようか? 冷めちゃったかも知れないけど」
非難も同情も、励ましもない声がありがたい。
「……ありがと……」
茅ケ崎が言っていた通り、食事はコンビニで買ってきたらしい温めただけのお粥と、インスタントのほうれん草の味噌汁、それに栄養ドリンクだった。
腹がくちくなれば、眠くなる。十分眠ったはずなのに、歩美の瞼《まぶた》は重い。
「寝ていいよ」
茅ケ崎が優しく言う。
「そんなわけにはいかないわよ。明日は仕事行かなきゃ」
それに着替えなければ気持ち悪い。
歩美は睡魔と闘うが、
「明日は日曜だけど?」
「……そうだっけ?」
答える声はすでに重く、引きずり込まれるように眠りに落ちる。
自分が思わなかったほど精神的に疲れていたんだろうか。茅ケ崎が布団を掛けなおしてくれている気配に「ありがと」と呟くが、声になっていたのか歩美にはわからなかった。
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