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やさしい闇の。(2/3)
 次に目が覚めたのは二十時も過ぎた頃だった。リビングで歌番組を見ていた茅ケ崎は、寝室の歩美に声をかける。
「気分どう?」
 寝すぎたため、まわらない頭で歩美は答える。
「まぁまぁ」
「飯食べる?」
 答えるように大きなお腹の音。歩美は赤い顔で、お腹をさすりながら、うなづく。
「起きられる?」
「大丈夫」
 ふらりとするものの、何とか立ち上がる。着たままだったブラウス、スカートは見るも無残だ。
 そのまま歩美がリビングに姿を現すと、茅ケ崎はテレビから一瞬だけ歩美に目を向ける。
「その格好じゃ食べに行けないね」
 自分の目で見える以上に顔など酷いのかもしれない。歩美は鞄から化粧ポーチを取り出し、
「洗面所借りていい?」
 茅ケ崎が指差すドアへ駆けこむ。
「あ、そうだこれ」
 ドアを閉める直前、思い出したように茅ケ崎が声をあげ、買い物袋を歩美に手渡す。
「何?」
「歯ブラシとか」
「――ありがと」
 出かけたときについでに買ってきたのだろう。手回しが良い。

 洗面所の鏡に映る歩美の顔は二日酔いと寝すぎの為、見事にむくんでいた。
「酷い顔」
 思わず笑みが漏れる。こんなに飲んだのは学生の時以来だろう。
 買い物袋の中身を取り出す。歯ブラシセット、化粧も落とせる洗顔フォームにタオル、ヘアブラシ。最低限だか、ないよりは良い。
 茅ケ崎は一人暮らしらしい。片付けは出来ないようだが掃除はしているようだ。
 顔を洗い、髪を整えていると、リビングから声が掛かる。
「うどんと蕎麦《そば》、どっちが良い?」
「うどん……本当にごめん、迷惑掛けて」
 洗顔しながらマッサージし、手早く化粧を済ませると、リビングに戻る。
 テーブルは四人用のちょっと大きなものだが、物があふれている。手を伸ばせば届く範囲に物を集中させているらしい。
「さっぱりした――ごめんね」
「何が?」
「迷惑かけて」
「良いって言わなかった?」
 怒った様子もなく、淡々とした顔で答える。
 茅ケ崎が何を考えているのかわからないが、とりあえず歩美は胸をなで下ろす。昨日、こちらがおごったので、その分親切にしてくれているのかもしれない。
「これ飲んで」
 茅ケ崎は冷蔵庫からジュースを取り出す。昼に飲んだ栄養ドリンクと同じく、こちらにも大きく『鉄分』とある。
 歩美は不思議に思いつつも、ありがたくもらう。確かに女性は貧血になりやすいのではあるが……歩美は貧血気味ではない。普通の栄養ドリンクでも構わないというのに。
「三十分くらいしたら来ると思うから」
 茅ケ崎は自分の真向かいの椅子の上に積み上げられていた荷物を手早く片付ける。机の上の荷物も同じように右から左へ。
 歩美は手伝わないほうが良いだろうと判断し、しばらくしてようやく空いた椅子に腰掛ける。
「本当にありがと」
 茅ケ崎は布巾《ふきん》で机の上を拭きながら、
「「ありがと」も「迷惑かけてごめん」も何度も聞いたからもういいよ。僕は好きでやってるんだし、その分昨日してもらったんだから」
 これ以上言うのはしつこいだろうと、歩美は話題を変える。
「うどん屋さん、近くにあるの?」
「学校前にあったでしょ?」
「ああ、」
 学校帰りに何度か立ち寄った。蕎麦屋、お好み焼き屋、ピザ屋、ソフトクリーム屋――
「まだやってたんだ」
「コンビニ出来たから売上はさっぱりらしいけど」
「そうなの」
 茅ケ崎はこの辺りの事に詳しい。
「ずっとここに住んでるの?」
「高校の時からね」
「地元は?」
「電車で二十分くらいのとこ」
 話す事もないので、歩美は疑問に思ったことを質問し、茅ケ崎は当り障りなく答える。そうこうしているうちに時間は過ぎ、うどんが届いた。だが、茅ケ崎は歩美の分しか頼まなかったらしく、ワカメうどんが一杯だけ。
「茅ケ崎君、食べないの?」
「――お腹いいから」
 何故か後ろめたげな表情になる。歩美は深く追求せず、うどんに手をつけた。

 食べ終わり、食器を片付け終わるとする事もない。歩美は何となく一緒にテレビを見る。
 クイズ番組が終わった所で歩美は椅子から立ち上がる。
「じゃ、帰るね」
「もう?」
 時計を見やった茅ケ崎は納得した顔で、
「じゃ、送るよ」
「悪いから良いわ」
「散歩のついで」
 そう言われたら断り切れない。
 何故か安堵している自分の気持ちを不思議に思いつつ、歩美は手早く荷物をまとめる。

 電車の時刻は昨日と一緒だろう。そう歩美は考えていたのだが、駅について時刻表を確認すると、二時間後の最終電車まで電車がない。
「嘘」
「田舎だからね」
 苦笑交じりに茅ヶ崎は答え、
「そこで時間つぶす?」
 駅前のファミレスを指差す。
「……茅ケ崎君、帰って良いよ?」
「僕のおごり。森さん、お腹空いてるでしょ?」
 見通されてる。
 二日酔いの気分の悪さがなくなった今となっては、お腹が空いて仕方がない。何せ今日はまだ、お粥とうどんしか食べていないのだ。
「じゃあ、遠慮なく」
「どうぞどうぞ」
 そこでも、茅ケ崎は紅茶を飲んでいただけで何も食べようとはせず、歩美は恐縮しながらも結構な量を食べた。

 歩美が食べ終われば時間をつぶす為、二人は他愛もないおしゃべりに花を咲かせる。
「あ、電車」
 茅ケ崎の声に、歩美は一瞬何の事かわからなかった。
 だが、茅ケ崎が指差す方を見れば、乗るはずだっただろう電車が無常にも去ってゆく。
「嘘、あれ最終」
 歩美は慌てて店を飛び出す。
 駅員に尋ねると、まさしく先ほど見かけた電車が歩美が乗るはずだった電車であることが証明され、歩美は肩を落とす。
 遅れてやってきた茅ケ崎は、困りきった表情の歩美を見つけると、クスクス笑い始める。
「何よ、私が馬鹿だって笑いたいのね」
 茅ケ崎は違うと首を振り、耐え切れなくなったのか大きな笑い声を上げる。
「違うよ。今日一日で森さんのイメージかなり変わったから……森さん、しっかり者だって思ってたけど、そうじゃないんだね」
 笑い声は止まらない。
「そうよ、どうせ抜けてるわよ」
「そう言う意味じゃなくて」
「どう言う意味よ」
「そうだな……意外に可愛いって事かな」
 その言葉に歩美は顔をしかめる。元婚約者も付き合い始めた最初の内はそう言っていた。
「怒らないで、誉めてるんだから」
「でしょうね」
 歩美は歩き出す。慌てて茅ケ崎は後を追いかけ、
「どこ行くの?」
「歩いてでも帰る」
「無理だよ」
「やってみなきゃわからないわ」
 こうなれば意地だ。プライドの問題だ。
 茅ケ崎がついてこないよう、足を速める。
「それより、もう一晩泊まっていきなよ」
 そういうわけにはいかないわ。
 歩美は風をきるように歩く。



「痛くない?」
「……まぁ」
 茅ケ崎の背中におぶさり、歩美は悔し紛れの言葉を吐く。捻挫した足首が痛くて仕方ない。
 たかだか三百メートルも歩いていないはずだ。体力の衰えを実感し、哀しくなる。もう、若くはない。
「コンビニでも寄ろうか?」
「うん」
 茅ケ崎にはおとといから迷惑の掛け通しだ。もう一度「ごめん」と言いたいが、何度も「いいよ」と言っていたから、また言うと茅ケ崎が気分を悪くするだけかもしれない。
 かけるべき言葉を見つけられないまま、店に到着する。必要な物をカードで買い込み、再び茅ケ崎の部屋に戻る。

「ベット、また借りてごめんね」
 居心地の悪さを感じつつ、歩美はベットに入る。
「気分どう?」
「だいぶ良いよ。もうちょっと頭痛いけど」
「……そう」
 ばつが悪るそうな顔。呑みすぎたのは自分の責任で茅ケ崎はなにも悪くない。本当にいい人だ。
 電気を消し、部屋は暗くなったものの、歩美は眠りすぎているため寝つけない。だが、起き出すのも悪いので、じっとベットに入ったまま天井を見つめていた。
 一時間ほどして、リビングで寝ている茅ケ崎の動く気配がする。
「――腹減った」
 小さいがはっきりした呟き。今日一日、茅ケ崎は歩美の目の前で一度の食事をしていない。
 もしかして、茅ケ崎は貧乏なんだろうか? だとすると、自分の為に余分なお金を使わせてしまったのではないだろうか。
「誰かいるかな……」
 玄関のドアを静かに開け出て行く気配。友人にお金を借りにでも行ったのだろうか。そう思うと歩美はますます不安になった。
 茅ケ崎は散々「いいよ」なんて気前のいい事言っていたけれど、本当はそんな経済状態じゃなかったのだろう。「ごめん、迷惑掛けて」なんて言葉じゃ詫び様がない。
 自分はなんて事をしてしまったのだろう。茅ケ崎が戻ってくるまでの一時間半、歩美は自分のやった事に対して酷く悔やんでいた。

     *

 出て行ったとき同様、ドアは静かに開いた。だが静まり返った空間にはそれでも響く。
 歩美はループしている思考を一旦中断し、何と謝るべきか言葉を捜す。
 ごめん、はすでに言った。迷惑掛けて……もすでに言ってしまっている。謝ろうにも言葉がない。
 リビングと寝室を結ぶ引き戸を開ける音。流れ込んでくる甘い香り。
 女性の元へ行っていたのだろうか。三十歳過ぎの茅ケ崎に彼女の一人や二人いて当然だ。
 妙な失望感に歩美は自分を疑う。もしかして、彼にすてられたことを茅ケ崎にもすてられたように混同しているのだろうか。
 部屋の中へ滑りこんでくる足音。歩美は目をつぶり、寝たふりをする。声を掛けようにも、言いたい事があり過ぎて言葉に出来ない。
「大丈夫かな」
 茅ケ崎の呟き声。歩美に対しての言葉ではなく、自分自身へ問い掛けのような響き。
「……一口ぐらいなら――大丈夫だよな」
 暗闇だと言うのに、茅ケ崎は目が利くらしい。音も立てずベットの枕もとに立つ。歩美を伺っている気配。
 歩美は内心慌てながらも、死んだように眠ったふりを続ける。早く部屋から立ち去って欲しいと願いつつ、行かないで欲しいとも思う。混乱した頭はまともに機能せず、自動的に歩美の得意なポーカーフェイスを続ける。
 ふわり、歩美の首元に茅ケ崎の気配。首筋に顔をうずめ、次の瞬間、小さな痛みに驚き歩美は目を開ける。
 猫の目がそばにあった。金色に輝いているそれは茅ケ崎の瞳で、肌は発光でもしているかのような白さ。酔った歩美が見たよりも数段美しい顔がそこにあり、同じく驚いた顔をして、じっと歩美を見つめている。
 夢、だろうか。
 歩美は混乱したまま、茅ヶ崎を見つめる。
 茅ヶ崎はうっすらとやさしげな、それでいて怪しい笑みを浮かべる。歩美は魅入られたように同じく笑みを浮かべる。
 香料をかき消すかのようなはっきりとした血の匂い。歩美は痛みが走った首筋に手をやる。ぬるりとした感触。それが何であるか、瞬間頭に浮かんだ。
「もったいない」
 茅ケ崎は歩美の首元を見つめ、唇を舐める。
「……ヴァンパイア?」
「そうだよ」
 これが現実であるはずがない。
 茅ヶ崎はごくごく普通の外見で、美しいなんて露ほども思わせるような容姿はしていない。まして、ヴァンパイアなどいるものか。
「私の血、おいしい?」
 夢だと判断し、歩美は怪しい美しさを持つ茅ヶ崎に尋ねかける。
「とても」
 にこりと微笑む顔は絵にもできないほど。
 茅ヶ崎はヴァンパイアだからご飯を食べなかったのだ。一日、歩美がそばにいて、血をすする時間などなかっただろう。それではお腹が空いてしまうのも当然だ。
「もっと飲む?」
「……いいの?」
「お腹、空いてるんでしょ? 私の血で良ければお腹いっぱい召し上がれ」
 茅ケ崎は歩美の首元に再び顔をうずめる。
 歩美は徐々に瞼が重くなり、この夢もいつか見た妙な夢に似ているなと思いつつ意識を失った。

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