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やさしい闇の。(3/3)
 気だるさに襲われながら歩美は目を覚ました。カーテンから漏れる光が眩しくて仕方ない。いくら二日酔いとはいえ、寝すぎた。だが、昨日と違って頭の痛みはない。
「妙な夢だったな」
 ベットを整えながら思い出すのは、妙な夢の事。茅ケ崎がヴァンパイアで、自分が襲われる夢。あまりにリアルで、生々しかった。
 現実の茅ケ崎は本当にいい人で、何処にでもいるような平凡な顔立ち。彼がヴァンパイアなど、まして人を襲うなど考えられない。
「何であんな夢見たんだろ?」
「……おはよう」
 戸惑い気味の茅ケ崎の声がリビングから響く。
「おはよう」
「気分は?」
「いいよ。迷惑かけてごめんね」
 手早く身支度を整えてリビングに姿を現す。時計は八時頃だったはずだが、外は昼のように明るい。
 テーブルにはコンビニで買ったらしい、サンドイッチとオレンジジュース、サラダが並んでいた。
「気を使ってくれなくてもいいのに」
「いや、でも――」
「茅ケ崎君は本当にいい人だよね」
 その言葉に、茅ヶ崎はまじまじと歩美を見つめ、顔をそらし、哀しそうにため息を吐く。
「どうしたの?」
「……何でもない」
 茅ケ崎の様子が気にはなったが、歩美は深く追求しない事にした。誰にだって秘密の一つや二つはあるものだ。それを追求するほど自分は下世話ではない。
 オレンジジュースは好きなのに、何故か飲みたいと思わなかった。オレンジの酸味のある甘い香りが鼻腔をくすぐるが、よい香りだとは思うが、ちっとも美味しそうとは思えない。
 そんな自分自身に首を傾げつつ、歩美は義務的にオレンジジュースに口をつける。
「……不味《まず》っ」
 とてもじゃないが飲めたものじゃない。腐り、澱みきった下水の水でも口に入れた気分。口直しにとサンドイッチに手を伸ばす。
「……何、これ」
 まるで砂を食べているようだ。じゃりじゃりと口の中で音がしそうな歯ざわり。茅ケ崎の手前、何とか飲み下すが、とてもじゃないが美味しいなんてお世辞にも言えない。
「美味しくない?」
 心配そうな茅ケ崎の声。歩美は愛想笑いを浮かべつつ、頬が引きつるのを抑えきれない。
 突然、茅ケ崎は歩美の足元に座り込み、深深と頭を床につける。
「ごめん! こんなつもりじゃなかったんだ!」
「え、何?」
 歩美も慌てて床に正座し、茅ケ崎に向きなおる。
「ごめん! 本当にごめん! 幾ら謝っても足りないけど、本当にごめん!」
「あの、何? とりあえず頭上げて、茅ケ崎君」
「ごめん! 本当にごめん!」
「うん、わかったから」
 自分が謝らなければならないのに、茅ケ崎に謝られ、歩美はどうして良いのかわからない。
「なんていうか、その……僕、ヴァンパイアなんだ」
 にっと、茅ケ崎は大きな八重歯を見せる。
「……は?」
 朝から何を言い出すんだろうか。
「森さん、美味しいからさ」
 茅ケ崎は言い訳がましく言う。
 美味しいって何が? 何か得たいの知れない気味の悪さに歩美は身を震わせる。
 嬉しそう、いや、美味しそうな食べ物を思い出した顔で茅ケ崎はにやついている。
 一瞬意識を飛ばしかけた歩美だったが、気を取り直す。
「――本当なの?」
 歩美の問いかけに、真剣な面持ちで茅ケ崎は首を縦にふる。
 馬鹿なと思いつつ、歩美はあの、妙な夢を思いだし、ぽつりとつぶやく。
「あれ、夢じゃなかったんだ」
「ごめん」
「……朝起きたらだるかったのも、私に鉄分取らせてたのもそのせいだって事?」
 茅ケ崎は素直に頷く。私の心配をしてくれてるいい人じゃなくて、最初から私の血の為に優しくしてくれていたって事だろうか。
 考えると頭が痛い。
「ごめん。でも、凄く我慢はしてたんだ。森さんの血、美味しい事わかってるけど、土曜日は飲み過ぎてだるそうだったし」
 飲みすぎてってのは二日酔いでって意味じゃなく、血を吸われ過ぎてってことのようだ。
 歩美はどっと疲れを感じる。
「でもさ、」
 茅ケ崎は気遣うように言葉を続ける。
「本当に美味しいんだよ、森さんの血。あの頃と味変わってなくて、ちょっと感動しちゃったよ」
「あの頃って?」
「時々寝てたでしょ?」
「……保健室か」
 そう言えば、昨日のような事があったかもしれない。
 あの頃、部活に一生懸命だった歩美は、授業中よく眠っていた。教室の机というのはいかんせん寝心地が悪い。だから昼休みを利用して保健室のベットの中にもぐり込むこともあった。だが、保健室で寝れば寝るほど体はだるさを増していた。良く眠れるから深く眠り過ぎているのだろうと思っていたら……そう言う理由だったのか。
「なんでそれならそうと最初に言ってくれなかったわけ?」
「僕がヴァンパイアだってわかっても普通に接してくれる? 頼んだら吸わせてくれた?」
「しなかったわよ」
 即答。当たり前でしょとばかり、歩美は茅ケ崎から一歩遠ざかり、睨みつける。
「っていうか、絶対に近づかない」
「――でしょ?」
 言われなれているのか、茅ケ崎にダメージの様子はない。
「あんた、その為に私を留めようとしたわけ?」
 茅ケ崎はほとんど、いやまったく食事をしなかった。けれど、だからって茅ケ崎が吸血鬼だなんて普通絶対思わない。
 茅ケ崎はおかしそうに首を振り、
「それは思い過ごし」
「……そう」
 バツの悪い顔をしつつ、歩美は玄関に向かって歩を進める。
「どこ行くの?」
「帰るのよ。お世話になりました。どうも有難う」
「いや――」
 茅ケ崎の声を振り切るようにドアを開けた歩美は、そのまま硬直した。
 眩《まぶ》しい、なんてもんじゃない。
 熱い、ギラギラとした容赦ない光の渦。
 茅ケ崎は急いでドアを閉め、茫然自失《ぼうぜんじしつ》の歩美をリビングに運び床に寝かせる。急いで氷枕を抱かせ、冷たいスポーツドリンクを飲ませる。手元にあったどこかのパンフレットで扇《あお》いでいると、歩美は落ち着いてきたらしい。瞬きを繰り返し、やがて説明してくれそうな茅ケ崎を不安げに見つめる。
「こんなつもりじゃなかったんだ」
 扇ぎながら、茅ケ崎は頭を下げる。
「……どういうこと?」
 喉は何日も水を飲んでいなかったかのようにヒリヒリと焼け付いている。歩美は不味《まず》いスポーツドリンクをそれでも飲み込む。
「怒らない?」
「怒るって?」
 何か、これまでに感じた事のない程の嫌な予感。
「あの時は他に手がなくて……これは適切な処置だったと思うよ。森さん、死にかけてたし」
「……何の事?」
 尋ねる歩美の背中を冷たいものが走る。
 死にかけていた? どういう意味だろう。彼はヴァンパイアで、私は死にかけていて――それはきっと、血を吸われ過ぎたからで……。
 吸血鬼映画のワンシーンが頭に浮かぶ。それを即座に否定する。
 そんなことあるわけがない。
「だからさ、生き返らせようとして――わかるでしょ?」
 マイペースな茅ケ崎が腹立たしい。歩美はわからないと首を振り、
「もうちょっとわかりやすく説明してくれる?」
「森さんもヴァンパイアになったんだよ」
 ノー天気としか言いようのない笑顔。
 ふつふつと湧き上がってくる感情は怒りだろうか。歩美は冷静に分析するが、そればかりとは言い切れない。様々な感情混ざり合い、蠢《うごめ》いている。生まれてこの方始めての心理状態だ。
 にこり、歩美は恐ろしいくらいの微笑で茅ケ崎を見つめる。体と心が歩美自身、不思議なほどアンバランスに動く。見た目は静かに、内部ではこれ以上ないくらいドロドロと。
「じゃ、あんたの血、吸わせて?」
 声の調子はいつもの歩美だったが、その奥に含まれる感情は暗くて深い。茅ケ崎はそれを感じ取っているのか、青ざめた顔で首を振る。
「どうして?」
「えっと、あの、同属の血を飲むのはど、どうかと思うよ」
「そうかしら?」
「それに、ええっと、第一まずい」
 嘘だ。明らかに、その動揺の仕方は嘘。そう言えば、夢だと思っていた記憶の中で、何かとても美味しい物を飲んだ覚えがある。あれはもしかしなくとも彼の血、だったのではないだろうか。
「――美味しすぎてダメって事?」
「いや、えっと……」
 怪しいくらいに動揺している。どうやら確信をついたらしい。
「同属の血を吸うなんて倫理的に――」
「寝てる同級生の血を吸うのは良いんだ?」
「だから、ごめん!」
 深深と頭を下げる。どんなに頭を下げられようとも、もうどうしようもない。
 歩美は茅ケ崎を壁際まで追い詰め、肩口に歯をたてる。本能的にどうすれば血が吸えるのか理解していることに気づく。何ともやるせない。
 観念した顔の茅ヶ崎はされるがままといった表情。
「美味しい」
 しばらくすすってやっと歩美は茅ケ崎の首元から牙を抜いた。口元を滴る血を歩美は舌で舐めとる。
「――だろうね」
 当然だとばかり茅ケ崎は呟き、
「想い人の血ってのはまた格別だから」
「想い人?」
「字のごとく。自分の事をどんな感情でも良い、考えている相手の血は格別なんだよ」
「へ~」
 歩美は感心顔。
「恐怖が最高のスパイスと言われてた時期もあったけど、昨今は親愛の情を持っている相手の血が一番美味しいと言われてるんだ」
 茅ヶ崎は首元に手をやり、指についた自分の血をペロリと舐める。その様子に目を離せず、歩美は上の空で尋ねる。
「茅ヶ崎は私に親愛の情を持ってるってこと?」
「ずっと好きだったからね」
 ふてくされたように茅ケ崎は呟き、バンソウコウと呟きながら寝室に消えた。
 好きだった?
 血が、ではなく私自身をと言うことだろうか? でも『だった』って過去形だから、今はそんな風に思っていないのかもしれない。いや、そうだろう。高校卒業して十数年。ずっと思いつづけてるなどありえない。
 歩美はようやく納得し、肩口にバンソウコウを貼り付け、再びリビングに登場した茅ケ崎に確認しようと声をあげる。
「今のって――」
「血を通して感情伝わったでしょ?」
「どういう事?」
 歩美は首を傾げる。
 薮蛇《やぶへび》だったかと小さく呟き、茅ケ崎はヴァンパイアについて説明し始める。
 茅ケ崎をヴァンパイアにした男はずいぶんたくさんの人間の血を吸い、魔力を蓄えていた。だから、茅ケ崎には吸った人間の血を通して相手の感情や考え、時には記憶までも読み取る事ができる。
 だが、茅ケ崎は最近最低限の食事しかしていない。一ヶ所に滞在しているのが長くなりすぎ、血を吸いにくくなってきている為だ。引越しを考えるも、今の暮らし環境が肌に合っているため、引越し予定を延ばすばかりしている。
 魔力をさして持たない茅ケ崎が誠心誠意込めて歩美をヴァンパイアにしたところで、血を吸う最低限の力しか持たないのは仕方のない事。単純に僕《しもべ》――魂のない人形を作りだすのであれば簡単だったが、そんなことはしたくはなかった。
「よくわからないけど、私は何の能力もないって事?」
「そう」
「だけどヴァンパイアだと」
「そう」
「人間的な生活はできないわけ?」
「できるよ」
 茅ケ崎は戸棚の中から錠剤が入っているらしき薬瓶を取り出す。張り付いた笑みを浮かべたマッチョな外国人の写真と、英語ではない小さな文字が書かれた栄養補助錠剤のようなもの。
「これは日光がへっちゃらになる薬、こっちは銀に触っても大丈夫な薬、それはニンニクを食べても問題ない薬――」
「どこで売ってるわけ? こんな怪しいもの」
「普通に。カタログとかネットのショップ」
「……世も末ね」
 しみじみ歩美が呟くと、
「そうかな? 便利な世の中だと思うけど?」
 きょとんとした顔で茅ケ崎は答える。
 日光がへっちゃらになる薬をもらい、歩美は外へ出る。記憶にあるより太陽光が眩しが、先ほど感じた身を焦がすほどの物ではない。
「森さん、どうする?」
「どうって?」
 駅に向かって歩きつつ、のんびりと会話する。足をひねっているため歩美は早く歩けない。そんな歩美に合わせるように茅ケ崎もゆっくり歩いている。
「今後の事だよ」
「別に。こんな薬があるんなら今まで通り生活するけど?」
 その言葉に茅ケ崎が重い息を吐き、
「食事代はかからなくなるけど、薬代がかさむし、食事をとるのも大変だよ。今の世の中」
「……何が言いたいの?」
「好きでしょ?」
「何が?」
 茅ケ崎が何を言いたいのかわからず、歩美はむっと顔をしかめる。押し問答のごとき会話がわずらわしい。
「一緒に暮らさない?」
「……何で?」
 歩美はまじまじと茅ヶ崎の顔を見やる。
 茅ヶ崎は確かに面倒見がいい。今回の責任をとろうと思っているのかもしれないが、歩美自身に生活力がないわけでもなく、今まで通り一人でも十分やっていくことができる。薬さえあれば今まで通りの生活を送ることも不可能ではなさそうだ。だから、わざわざ責任をとってもらわなくてもいい。
 考え込む歩美を見やり、茅ケ崎は忍び笑いからやがて大笑いになる。
「だから、振られたんだよ。森さん」
 歩美の中に流れる血は、明確に気持ちを表しているというのに、本人はまるで気づいていない。大事なことほど見えない、わからないのだろう。
 そう思うと茅ヶ崎はおかしくてたまらない。
 自分が描いていた森歩美という女性像と、実際の森歩美はずいぶん隔たりがあった。
 それを知ることができた嬉しさ、そして、気持ちを告げる言葉の難しさ。なんと言うべきか考えていると、
「どういうことよ!」
 自分の知らないことを茅ヶ崎が知っている。その事実に歩美は顔を赤くし、同時に腹を立てていた。
「いや、えっとね……」
「はっきり言いなさいよ」
 歩美に言われ、茅ヶ崎は開き直る。本当に天然な彼女にはストレート過ぎるくらいがちょうど良いのかもしれない。
「結婚して下さい」
「……え? いや、あの……その……」
 思ってもみなかったことを言われ、混乱し、取り留めのない言葉を歩美は吐き出す。茅ヶ崎はおかしそうに笑い、
「別に今すぐ答えてくれなくていいよ」
「何よ、それ」
 むっと反論しかけた歩美の眼前に、小さな紙片を差し出す。
「何?」
「きっと必要になるだろうから。僕の連絡先」
「いらない」
「とっときなよ」
 すばやく歩美のバッグに滑り込ませる。携帯だの財布だのが邪魔をしてすぐに取り出せない。
「もぉ、何するのよ」
 いらだつ歩美に、茅ヶ崎はマイペースなまま、
「電車の時間は大丈夫?」
「ヤバイ。じゃ」
 挨拶もろくに交わさず、歩美はそそくさと切符を買い、電車に乗り込む。
 発車を知らせるベルが鳴り響く中、息を整えつつ構内を見やると、茅ヶ崎が笑みを浮かべこちらを見ていた。発車の警笛が鳴り、電車が徐々に動き出しても、茅ヶ崎は手を振ったりはせず、ただ、何か確信している表情でこちらを見ている。
 何もかも見通したその顔に腹立たしさを覚え、歩美は背を向け、座席に座り込む。バッグを漁ると、先ほど茅ヶ崎に渡された紙片。
 あまり上手くもない字で、ただ一行、電話番号が記されている。
「何よ」
 破ろうかとも思ったが、今が車内であることを思い出し、財布のポケット、レシートの束に突っ込む。

 アパートの鍵を開け、帰宅した歩美は数日前まで馴染みの我が城だったはずの部屋が、なんだか他人の部屋のような気がして首を傾げた。
 わずか数日だというのに、どうしてこんな疎外感を感じるのだろう?
 不信に思いつつも、いつも通りの行動をとる。パソコンの電源を入れ、部屋着に着替え、コーヒーを淹れる。いつも通りのはずなのに、そこに違和感を感じて仕方がない。
「どうして?」
 自問するが答えはない。
 とにかく、いつも通りに行動することだと自分に言い聞かせ、メールとニュースのチェックを行う。
 やがて、増してゆく違和感の正体が「不安」なのだと気づく。迷子の子供のように、不意に親がいなくなってしまった絶望的な孤独感。湧き上がる感情を簡単に説明するならばそれしかない。
「なんで? ここは家よ? 私は茅ヶ崎の家から帰ってきて……茅ヶ崎?」
 茅ヶ崎の事を考えた一瞬、不安感が柔らいだことに気づく。
「茅ヶ崎に関連してる? 連絡先、どこだっけ?」
 財布の中身をばら撒き、数字の書かれた紙片を探す。レシートにまぎれ込ませた紙片はなかなか見つからず、泣き出しそうな自分を無理やり押さえ込み、レシートの山をかき分ける。
「あった!」
 震える指で携帯のボタンを押す。
「茅ヶ崎!」
 絶叫。
「……森さん、思ったより時間がかかったね」
 電話口から聞こえてくる苦笑交じりの茅ヶ崎の声。はっきりと安堵する自分の気持ちを歩美は自覚する。
 嬉しい反面、腹立たしい。
「あんた、これ、どういうことよ」
 我慢しようとするが、思わず涙が溢れ出しとまらない。茅ヶ崎は歩美の言いたいことをゆっくり聞き取り、
「森さん、説明するより体験してもらったほうが納得するタイプみたいだから……」
「どういうことよ?」
 子供のようにしゃくりあげながら、歩美はつっかえつっかえ言葉を紡ぐ。これほど泣くのは十数年ぶりだろう。
「森さん、ヴァンパイアになったのは今朝だよね? 生き物って大抵は生まれてしばらくは親と一緒にいるでしょ?」
「……で?」
 なんとなく予想しながらも、歩美は茅ヶ崎の言葉の続きを促す。
「親である僕から離れるなんて、今の森さんの精神には無理なんだよ」
「何よ、それ」
「何って言われても……そういう風になってるわけだから」
 弱り声の茅ヶ崎。今まさにその状態を体験している歩美は、確かにそういう風になっているわけで。
「納得できないけどわかった。でも、そうしたら……だから、あんなこと言ったわけ?」
「違う」
 真剣な声。
「でも、その説明を電話でするのは野暮だからしない」
 そう言われ、歩美は頬を染める。
「それで森さん、この後どうするの?」
 いつも通りのマイペースな口調に戻った茅ヶ崎が優しく尋ねる。
「どうするって?」
「その状態じゃ、今まで通り一人暮らしは無理でしょ?」
「……うん」
 不承不承といった口調ながらも、歩美はうなづく。ここで強がってみても、孤独感に押しつぶされそうだという感情など、自分ではどうしようもないのだ。
「帰っておいでよ。最低限必要なものだけ持って」
「ちょっと、帰るってどこによ? ここが私の家よ?」
 茅ヶ崎は声を立てて笑い、
「言い直す。僕の家に来なよ。駅で待ってるから」
 一方的に電話は切れた。
「……何よ、無茶なこと言って」
 腹立たしげに呟きつつも、歩美の手は小さな旅行カバンに荷物を詰めてゆく。

 駅までの道を飛ぶように駆け、やってきた電車に飛び乗る。車中は茅ヶ崎への恨み言を呟きつつも、目的の駅が近づき、見覚えあるシルエットが目に入ると、嗚咽に変わる。
 誰かに押されるようにして降りた構内には今朝方、車窓から見たままの茅ヶ崎。
「お帰り、森さん」
 優しい笑みを浮かべた顔。
 存在を目にすると、電話以上の効き目があることを歩美は実感する。飛び込んで来いとばかり両手を広げた茅ヶ崎の手前で、歩美は泣き崩れる。
 茅ヶ崎は照れ笑いを浮かべつつも弱りきった顔で、うずくまる歩美に近寄り、
「お帰り」
「……ただいま」
 歩美は、声をあげて泣きたい衝動にかられながら答える。
 表現しようの無い爆発的で凶暴な感情が暴れている。まるで小さな子供だ。自分の無力さ、そして親という存在の偉大さ、絶対性。
 世界は茅ヶ崎を中心に回っている。
 今、そう言い切れてしまう自分自身に、不思議と奇妙さを感じない。
「……確かに、結婚するのが一番手っ取り早い隠れ蓑かも知れないわね」
 良い歳した男女が一緒に暮らすとなると、世間をあざむくカムフラージュとしてはこれ以上のものはないだろう。
「そういう意味で言ったんじゃないんだけど……」
 不満そうに呟いた茅ヶ崎の言葉は、泣き疲れ、うとうとし始めた歩美の耳には届かない。
「ちょっと、ここで寝ちゃダメだよ」
「……わかってる」
 言葉ではそういいつつも、まぶたは重い。小さな子供同様、あがらえない様子で眠りの世界へ落ちてゆく。
 弱りきった顔をしながらも、茅ヶ崎はあの夜と同じように歩美を抱きかかえる。
「ごめん、迷惑かける……」
 睡魔と闘いつつ、歩美は何とか声にする。
「それは言わない約束でしょ?」
「……ごめんね……」
 安らかに眠る歩美の顔に、茅ヶ崎はあきらめ混じりのため息をつく。
「本当、森さんってこんな人だとは思わなかった」



『やさしい闇の』をご覧いただきありがとうございました。

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