羽と彼女と魔術師と。(1/2)
一.沢倉知子《さわくらともこ》
目が覚めた時、確かに何か違和感を感じた。けれどまどろみの中にある私にはそれを追及する気なんて起こらず、朝食を食べ、身支度を整え、いざ出かけようって段になってようやく気付いた。
先月買った姿見の中の背中に生える、細い、針金細工のような羽。けれど触る事は出来ず、ただ蜃気楼のようにそこに見えるだけ。細い針金のような銀色の光を精密に組みあげ、三十センチほどの羽の形にした感じ。良く出来ているし、美しい。
けれど、そんな事を言ってる場合じゃない。上着を羽織る。が、光で出来たそれは布地を通り抜け、背中に存在している。
「何、これ」
声に出して呟いてみるが、なんら問題は解決しない。手に触れもしないものをどうやって取り除けると言うのだろう。
どうしようか考え込み、ふとあの噂を思い出したのは天の声とも言えた。
商店街の外れにある喫茶店「リトル・カフェ」の占い師は、本物の魔術師である――
今日は日曜日。しかも、十時前と時間帯も早め。人々がまだ動き出していないのが幸いした。商店街と言えども人通りは少ない。
人ってものは、その人物が堂々としていれば違和感に気づきにくい。どこかで読んだ一説を思い出し、なるたけ平常を装う。表情が多少こわばっていたかもしれないが、羽を見られているとしても十人にも満たないだろう。
まして背中に羽があるなど、光の加減か、寝ぼけていたか、見間違いで片付けてくれるだろう、たぶん。大多数の人間は、自分の許容しえない物事は無かったことにしてしまう生き物なのだ。これもその本の受け売りだけれど。
角を曲がると目的の喫茶店が見えてきた。量と値段だけに主体を置いた、三十年くらい前からやってる近所では有名な店だ。さすがに日曜の朝だけあって店はがらんとしていた。
年季の入った分厚いガラスがはめ込まれた木のドアに手をかけると、ドアベルが派手な音を立てる。
「いらっしゃい」
中から聞こえてくる中年女性の声。ドアベルの音に反応して声を上げただけらしく、顔は見えない。席につくまでもなく、お絞りと水を手にした声の主が現れた。
「どこでも好きな席にどうぞ」
「いえ、あの……違うんです」
「違う? 何が?」
不信げな顔つきに変わる。
「あの、」
何から話せば良いのかわからない焦りと、本当に朝見た羽が背中にあるんだろうかという不安と。もしかすると自分の見間違いで、羽などなくなってしまっているかもしれない、なんて淡く儚い期待。
……自分が思っていたより、この状況下は自分自身に深刻なダメージを与えていたらしい。『超マイペース』なんてあだ名は今日限り、謹んで返上しよう。
「これ、」
クルリと背中を見せる。
おばさんは妙な顔をし、
「……羽?」
触れようと手を伸ばす。が、何もつかめないのでますます奇妙な顔になる。
「何これ、光――で、出来てんの?」
「みたいで」
「……良く出来てるわねぇ」
おばさんは何度もそれに触れようと、羽の形に添って手を動かす。
「触れないわねぇ」
「えぇ。それで、魔術師――占い師さんは?」
魔法が解けたかのようにおばさんは我に返り、
「あぁ、そうね、これ魔法よね」
「だと思って」
育ててくれた祖母は若い頃に魔術師を目指していたらしい。簡単な魔法であれば確かに使えたし、古い魔法のテキスト書なんかも数冊、うちでみかけた覚えがある。
魔法は掛けた本人でなければ解けない、というのは通説だが、昨今の魔術師であればテキスト通りの魔法しか使えないので、ちょっと能力があれば何とかなるらしい。
ここの魔術師がその「ちょっと能力」がある人ならば良いのだけれど。
おばさんは店の奥に掛けられた懐かしい振り子時計を見上げ、
「もうそろそろ来る時間だけど……」
「待たせてもらえますか」
「いいけど」
とは言うものの、妙な沈黙。なんだろうと考え込むまでもなく、
「あの、アップルティー下さい」
喫茶店だってこと、忘れてた。注文するとおばさんはほっとした顔で奥へと引っ込んだ。
私に常識がないわけでも、不人情なわけでもなく、ただあまりの現実に忘れてただけだ。自分に言い訳して、羽が見られないよう一番奥の席に座る。
待つこと四十分。いかにも、な格好をした人物がドアをくぐる。顔までもをすっぽり覆った黒い衣装、大きな木の杖、じゃらじゃらしたアクセサリーに刺青。これで魔術師じゃなければ、お前は何者だって雰囲気。
おばさんは親切にも私の事をその人に伝えてくれる。その人は顔を上げ――とは言うものの、顔は見えなかったけれど――私を見た。
しっかりした足取りで私の前の席につく。
「こんにちは、お嬢さん」
低すぎず、高すぎない中性的な声。話し方からも男女、どちらともとれる。唯一見えている手は骨ばってはいるものの、男性の手とは言いがたく、かといって女性の手とも言い切れない。
年齢も、性別も不詳。『怪しい』が具現化して、目の前に座っている。
「羽はいつから?」
実物を見もせず、問い掛けられる。
「起きた時からです。いつかはわかりません」
魔術師がうっすらと笑った気がした。布地に覆われているため表情は見えないが、雰囲気がふっと和らいだのだ。
「簡潔な答えだ」
どうやら誉められたらしい。
「夢見がちなお嬢さんではないようだね――そう睨まないで」
瞳がほんの少し険しくなったのを察したようだ。自分のことは悟らせず、他人のことはじっと観察しているらしい。気味が悪い。
「これです」
さっさと見てもらおうと、体をひねる。片方の羽しか見えないかもしれないけれど。
「なるほど、見事な羽だ」
「これ、治せますか?」
体をひねったまま話をするのも辛いので、正面を向く。魔術師も羽に興味を示していないようだし。
「治す、か」
くつくつと喉の奥で笑う声。
「魔法は『解く』と言うのだよ」
「……解けますか?」
顔は赤くなっているはずだ。魔法なんて知らないのが当たり前の昨今、いちいち言葉の上げ足をとらなくてもいいじゃないか。性格悪い。
魔術師は懐から青い石のペンダントを取り出す。
「問題ない、」
良く見ると、青い石ではなく黒い石に青い、小さな文字で文字がみっしりと掘り込まれている。
「これを身に付けている間はその羽が消える」
問題ないと言いながら、身に付けている間とはどういうことだろうか。
「解けないって事ですか?」
「違う。君のその魔法は特殊なものだ。魔法をかけた人物、かけた魔法の種類がわからなければ対処しようがない。調べるには少々時間が掛かる」
「なるほど」
時間稼ぎのためって訳か。とりあえずはこれをもらっておかなければ、夕方からのバイトに行けない。
伸ばした手に石は触れず、
「お金」
空の手が目の前にある。以外に素早い。
「いくらですか?」
「五十万円」
「ご、」
目を見開く。確かに、魔法は高いもんだってこと聞いたことがある。
けれど、五十万。
南の国のお土産っぽい雰囲気のダサいペンダントが五十万。
羽がなくなれば付けなく成る事間違い無しのペンダントに、諭吉さんが五十人。
……。
…………。
………………。
……………………無理。
「ちょっと――」
言いよどむ私に、
「レンタルでもいいよ」
タイミングよく言う。もしや人が苦悩してるの見て楽しんでるんだろうか。
「……いくらですか?」
「一日五百円」
なんとワンコイン。めっちゃ安い。いや、待て。どこかでこんな手口を聞いたことがある。
そう、あれは詐欺の特集をしてたテレビ番組だ。高い商品だと偽り、値段を吹っかけておいて半額以下で売る。けれど販売した価格がもともとの価格で、まったく安くないってやつだ。
「どうする?」
「……何日くらいかかりますか?」
魔法は何でもかんでもとにかく時間がかかると祖母が言っていた。まして、特殊な魔法であれば調べるだけでも相当時間がかかるはず。
一日五百円とはいえ、一ヶ月だと一万五千円。そんな余裕はない。
「ニ・三日もあれば十分だろう。昔に比べて魔術師自体が少ないから、君に魔法をかけた相手を探すのはわけがない」
「でも、魔法の種類も調べなければいけないんですよね?」
「魔術師は全て国に登録されている。登録されている個人情報と、公共の場で使用した魔法の履歴などを調べれば推測できる」
「へぇ」
魔術師に対するイメージがちょっと下がる。まさか登録制とは知らなかった。でも魔法で何でも出来るのならば、登録していなければ悪い事に魔法を使ったとき対応のしようがないか。
「魔法を解くのは別料金だよ」
……金の亡者か。
「いくらですか?」
「五千円」
思ったより高くない。風邪を引いて病院に行く事を考えるとどっこいだろう。
「わかりました」
「前金で三千円」
「……は?」
前金?
財布からなけなしの三千円を引っ張り出し、テーブルに置く。
魔術師は瞬速でそれを懐にしまいこみ、さっきまで三千円あった場所には青いペンダント。魔術師じゃなくて手品師でも通じそうだ。
「もしかして、」
何か言いかけ、言葉を切り席を立つ。
嫌な予感。意味深な前置きで何を言うつもりなのだろう。
「何ですか?」
「いや――」
ふらりと歩みだす。慌ててペンダントを身につけ、後を追うように付いていったのだが、占い師は帰るわけではなく席を移動しただけだった。占い用の小道具が置かれた席。つまり、定位置に。
「気になるんですけど?」
とりあえず魔術師の前の席に腰を下ろす。
「……君は占いに興味があるか聞こうと思ったんだよ」
「は?」
「何を占おうか。今日の運勢? 恋愛運? 金運?」
「いえ、結構です」
立ち上がろうとするが、なぜか立てない。腰が上がらないのだ。
「ふふふ、」
魔術師が不気味な笑い声を上げる。
「私の占いが終わるまでは立てないよう、その椅子には魔法が掛けてあるのだよ」
なんて陰湿な。
「不意の出費が重なる日。家でおとなしくしているのが吉」
なんて馬鹿げた占い結果を聞き、料金の千円を払って店を出た。
帰ってみればお昼前。簡単に料理を作り、返却日が迫っているビデオを掛ける。
半分ほど食べ終えたところで、来客を告げるブザー音。やたら勘に障る音が何度も部屋に響く。
ドアを開けると、サラリーマン風の男が二人たたずんでいた。手前の男は濃紺のスーツに青のネクタイ。足元には黒い皮製のバッグ。色鮮やかなパンフレットと思しき紙がのぞいている。奥の男は葬式にでも向かうかのような黒尽くめ。
「こちらは沢倉さんのお宅ですか?」
「そうですが」
「沢倉知子さんご本人ですか?」
「えぇ」
男の瞳がキラリと輝く。
……一人暮らしの天敵、押し売りだ。本能が告げる。
「ちょっと――」
「間に合ってます」
ピシャリと扉を閉め、ドアチェーンに鍵をかける。女の子の一人暮らしってこういう時の用心が肝心だ。
「あの、すいません、沢倉さん!」
扉を何度も叩く二人組み。うるさいったらありゃしない。管理人さんと警察に不審者がいると電話を掛け、ヘッドホンをして音量を上げた。
二.町田高弘《まちだたかひろ》
「おたくら、何してんの?」
突然警官と老婆に声を掛けられる。
「特に何ってわけでもないですが……」
俺は言葉を選びつつ答える。
現状としては非常にまずい。一人暮らしの女性の玄関先で騒いでいたら、不審者と思われても仕方ない。
それにしても長谷川先輩、警察が来た事くらい教えてくれてもいいだろうに。何もしないで欲しいとは言ったものの、まさか本当に何もしないとは……先輩の事、甘く見すぎていたらしい。
「沢倉の嬢ちゃん、おらんじゃろうが」
老婆が声を荒げる。
「いえ、先ほどいらっしゃいましたよ」
「嘘つけ! 出とるって電話があったわ」
……は?
「沢倉さん宅の玄関先に不審者がいるって匿名の通報があったんだよねぇ」
警察が老婆の言葉を遮るように声を上げる。妙に親しげな口調なのはこちらを疑っているからだろう。
彼女、手が回しがいい。
「いえ、私たちは別に怪しいものでは――」
足元の鞄を抱え立ち去ろうとするが、一方通行の出入り口を塞がれたんじゃ逃亡もままならない。
「じゃかわしい」
老婆が罵声を上げる。
「そんな死神みたいな格好しとって何言うとんじゃ」
やっぱり先輩か。
洋物の刑事ドラマが好きだと自負するだけあって、とにかく先輩は妙だ。さすがに怪しいからと今はサングラスを外してもらっているが、普段からエージェント・スミスのような格好をしている。
何て刑事ドラマが元ネタなのかは知らないが。
自分自身、幼いころに憧れていた特撮ヒーローものの延長のような今の職に付いているので、あまり批判もできない。
怒鳴り続ける老婆をなだめようと試行錯誤していたものの、警官は諦めたように息をつき、
「ちょっとここじゃなんだから、一緒に来てくれるかな?」
……任意同行だろうか。
確かに、邪魔な老婆のいないところで話をするにはそれしかないだろうが……田舎で暮らしてる両親に顔向けできない。けれど、行かなければますます面倒な事になる。
どうしようかと先輩を見やれば、何故だか嬉しそうな顔をしている。本当に頼りにはならない人だ。
海外もののドラマで主人公の警官が捕まったりなんてストーリーあっただろうか?
「名前と住所、ここに一応書いてくれる?」
警官はあくまで優しい。老婆があれほど怒らなければ、調書をとる必要もないのだから当然かもしれないが。
書類を受け取り、でたらめな住所を記す。
「で、二人は何をしていたのかな?」
書類を受け取りながら、世間話の要領で警官は尋ねる。手馴れたものだ。
「黙秘する」
鋭い言葉が部屋にこだます。
……先輩?
こういう場合は適当にごまかし、もしくは上に連絡し指示を仰ぐことになっているのだが。
警官は疑りの視線を一瞬見せ、何事も無かった用に書類に目を通す。
「高橋一哉《たかはしかずや》さんにジェームズ・ボンド――?」
じろり、警官が疑わしそうに先輩を睨む。
先輩、何考えてるんですか!
「いえ、あの、じょ、ジョークです。ジョーク好きなんですよ、先輩」
必死に言い募る俺には目をくれず、先輩は横柄な態度で、
「電話を貸せ」
「は?」
警官も目を丸くしている。
「電話だ。私には弁護士に電話する権利があるはずだが?」
「いや、あの、事件にするとかそんな話じゃないから――」
「電話をする権利があるはずだが?」
不敵に笑う。
どうしてここまで怪しい態度をとる必要があるんだ? 警官も当初は注意して終わりにするはずだったんだろうが、話をややこしくするのでげんなりしている。
先輩は電話を借り、直接上に電話を入れているようだ。たぶん、電話口の向こうは課長だろう。上司であるにもかかわらず、高校時代の後輩だとかで、何故だか先輩は課長をあごでつかっている。
若いというのに胃腸が弱いらしく、先週、胃潰瘍が回復しつつあると嬉しげに話していたと言うのに気の毒な話だ。
「電話を替われと――」
先輩が納得行かない顔で、俺に受話器を差し出す。
「はい、替わりました」
「……極秘任務って言わなかったか?」
恨みがましい声。
「すいません」
「お前一人に任せてたはずの任務に、なぜ奴が参加してるんだ?」
「すいません」
「……はぁ」
地獄のそこから響いてくるような、暗く、重い溜息。
「すいません」
ただただ謝るしかない。
「そこにいる貧乏くじ引いた警官に替わってくれ」
「了解」
警官に受話器を渡す。警官は戸惑いつつ、
「はい、替わりました。……は? え、あ、はぁ……そうですか。いや、えぇ――」
受話器を置く頃には、疲れきった顔をしていた。
「組織ぐるみで何をしてるんだ?」
「すいませんが極秘事項なので、お答えできないんです」
この警官には気の毒だが、極秘事項を少しでも漏らせば左遷だ。家族ともども言葉の通じない地に、永久に。
そんな俺の杞憂に気づきもせず、先輩はなぜか嬉しそうに、
「羽だ」
「は?」
警官と俺の声がかぶる。
「朝、この町で強力な魔法反応があった」
「ちょ、ちょっと何言い出すんですか!」
極秘事項だって事、課長に散々釘を刺されたはずなのに。
「うるさい、どうしてこの俺があいつの言うことを聞かなければいけないんだ?」
子供じゃあるまいし、何を言い出すんだ。
「上司じゃないですか!」
「あいつは後輩だ!」
「上司です!」
「うるさい」
止めようと、警官が間に立つ。
「落ち着け、この町には魔術師なんていないはずだが?」
「いる」
「いない」
「いるんだ」
「いないって」
今度は警官と言い争い始める先輩。トラブルメーカーではあるが、強力な悪運を持ち合わせているらしく、迷宮入りしそうな事件をなぜか次々と解決している。その実績を買われているのか、左遷されることもない。
そろそろ子供の口喧嘩の様相を呈して来た。低レベルな悪口と、無意味な揚げ足鳥が続いている。掴みあいをしないだけマシだが、警官の額には青筋。一触触発の危険な状態。
しかたなく弥生《やよい》さんの番号を呼び出す。
「お忙しいところすいません」
「何? アイツまた問題起こしたの?」
ツーカーで会話が通じる。弥生さんにはそれ以外で電話をかける事がないからなのだが、俺も、そして弥生さんにとっても嫌な関係である。
「――はい」
「替わって」
「先輩、弥生さんです」
言った途端、先輩の表情が一変し、口調も替わる。
「――弥生ちゃん? もしもーし……」
どうして一瞬でここまで人が替われるのか、いつ見ても不思議だ。
それまでの争いなんてなかったかのような先輩の態度に、警官は狐につままれたような顔で、
「何?」
俺に尋ねる。
「相手は先輩の奥さんです。先輩が暴走したときの抑制剤なんですよ」
「……あ、そう」
疲れきった顔で座り込み、お茶をすする。
そりゃそうだろう。課内の人間でも、先輩に慣れるには半年掛かる。仕事を覚えるよりも難しいため、一番人の移動が多い課と言われている。
一通り愛の電話――弥生さんが皮肉り、怒鳴り、先輩が愛の言葉を繰り返す不毛な会話――が終わると、先輩は上機嫌だった。
「さ、さっさと仕事を済ませるぞ」
「……はい」
「元気がないな?」
「はいっ!」
警官に言葉を掛け、派出所を出る。
俺達が出て行くのがよほど嬉しいのだろう、警官は幸福そうな笑みを浮かべ、バイバイと思いきり手を振ってくれた。
俺もそっちで一緒に手を振りたい。
目が覚めた時、確かに何か違和感を感じた。けれどまどろみの中にある私にはそれを追及する気なんて起こらず、朝食を食べ、身支度を整え、いざ出かけようって段になってようやく気付いた。
先月買った姿見の中の背中に生える、細い、針金細工のような羽。けれど触る事は出来ず、ただ蜃気楼のようにそこに見えるだけ。細い針金のような銀色の光を精密に組みあげ、三十センチほどの羽の形にした感じ。良く出来ているし、美しい。
けれど、そんな事を言ってる場合じゃない。上着を羽織る。が、光で出来たそれは布地を通り抜け、背中に存在している。
「何、これ」
声に出して呟いてみるが、なんら問題は解決しない。手に触れもしないものをどうやって取り除けると言うのだろう。
どうしようか考え込み、ふとあの噂を思い出したのは天の声とも言えた。
商店街の外れにある喫茶店「リトル・カフェ」の占い師は、本物の魔術師である――
今日は日曜日。しかも、十時前と時間帯も早め。人々がまだ動き出していないのが幸いした。商店街と言えども人通りは少ない。
人ってものは、その人物が堂々としていれば違和感に気づきにくい。どこかで読んだ一説を思い出し、なるたけ平常を装う。表情が多少こわばっていたかもしれないが、羽を見られているとしても十人にも満たないだろう。
まして背中に羽があるなど、光の加減か、寝ぼけていたか、見間違いで片付けてくれるだろう、たぶん。大多数の人間は、自分の許容しえない物事は無かったことにしてしまう生き物なのだ。これもその本の受け売りだけれど。
角を曲がると目的の喫茶店が見えてきた。量と値段だけに主体を置いた、三十年くらい前からやってる近所では有名な店だ。さすがに日曜の朝だけあって店はがらんとしていた。
年季の入った分厚いガラスがはめ込まれた木のドアに手をかけると、ドアベルが派手な音を立てる。
「いらっしゃい」
中から聞こえてくる中年女性の声。ドアベルの音に反応して声を上げただけらしく、顔は見えない。席につくまでもなく、お絞りと水を手にした声の主が現れた。
「どこでも好きな席にどうぞ」
「いえ、あの……違うんです」
「違う? 何が?」
不信げな顔つきに変わる。
「あの、」
何から話せば良いのかわからない焦りと、本当に朝見た羽が背中にあるんだろうかという不安と。もしかすると自分の見間違いで、羽などなくなってしまっているかもしれない、なんて淡く儚い期待。
……自分が思っていたより、この状況下は自分自身に深刻なダメージを与えていたらしい。『超マイペース』なんてあだ名は今日限り、謹んで返上しよう。
「これ、」
クルリと背中を見せる。
おばさんは妙な顔をし、
「……羽?」
触れようと手を伸ばす。が、何もつかめないのでますます奇妙な顔になる。
「何これ、光――で、出来てんの?」
「みたいで」
「……良く出来てるわねぇ」
おばさんは何度もそれに触れようと、羽の形に添って手を動かす。
「触れないわねぇ」
「えぇ。それで、魔術師――占い師さんは?」
魔法が解けたかのようにおばさんは我に返り、
「あぁ、そうね、これ魔法よね」
「だと思って」
育ててくれた祖母は若い頃に魔術師を目指していたらしい。簡単な魔法であれば確かに使えたし、古い魔法のテキスト書なんかも数冊、うちでみかけた覚えがある。
魔法は掛けた本人でなければ解けない、というのは通説だが、昨今の魔術師であればテキスト通りの魔法しか使えないので、ちょっと能力があれば何とかなるらしい。
ここの魔術師がその「ちょっと能力」がある人ならば良いのだけれど。
おばさんは店の奥に掛けられた懐かしい振り子時計を見上げ、
「もうそろそろ来る時間だけど……」
「待たせてもらえますか」
「いいけど」
とは言うものの、妙な沈黙。なんだろうと考え込むまでもなく、
「あの、アップルティー下さい」
喫茶店だってこと、忘れてた。注文するとおばさんはほっとした顔で奥へと引っ込んだ。
私に常識がないわけでも、不人情なわけでもなく、ただあまりの現実に忘れてただけだ。自分に言い訳して、羽が見られないよう一番奥の席に座る。
待つこと四十分。いかにも、な格好をした人物がドアをくぐる。顔までもをすっぽり覆った黒い衣装、大きな木の杖、じゃらじゃらしたアクセサリーに刺青。これで魔術師じゃなければ、お前は何者だって雰囲気。
おばさんは親切にも私の事をその人に伝えてくれる。その人は顔を上げ――とは言うものの、顔は見えなかったけれど――私を見た。
しっかりした足取りで私の前の席につく。
「こんにちは、お嬢さん」
低すぎず、高すぎない中性的な声。話し方からも男女、どちらともとれる。唯一見えている手は骨ばってはいるものの、男性の手とは言いがたく、かといって女性の手とも言い切れない。
年齢も、性別も不詳。『怪しい』が具現化して、目の前に座っている。
「羽はいつから?」
実物を見もせず、問い掛けられる。
「起きた時からです。いつかはわかりません」
魔術師がうっすらと笑った気がした。布地に覆われているため表情は見えないが、雰囲気がふっと和らいだのだ。
「簡潔な答えだ」
どうやら誉められたらしい。
「夢見がちなお嬢さんではないようだね――そう睨まないで」
瞳がほんの少し険しくなったのを察したようだ。自分のことは悟らせず、他人のことはじっと観察しているらしい。気味が悪い。
「これです」
さっさと見てもらおうと、体をひねる。片方の羽しか見えないかもしれないけれど。
「なるほど、見事な羽だ」
「これ、治せますか?」
体をひねったまま話をするのも辛いので、正面を向く。魔術師も羽に興味を示していないようだし。
「治す、か」
くつくつと喉の奥で笑う声。
「魔法は『解く』と言うのだよ」
「……解けますか?」
顔は赤くなっているはずだ。魔法なんて知らないのが当たり前の昨今、いちいち言葉の上げ足をとらなくてもいいじゃないか。性格悪い。
魔術師は懐から青い石のペンダントを取り出す。
「問題ない、」
良く見ると、青い石ではなく黒い石に青い、小さな文字で文字がみっしりと掘り込まれている。
「これを身に付けている間はその羽が消える」
問題ないと言いながら、身に付けている間とはどういうことだろうか。
「解けないって事ですか?」
「違う。君のその魔法は特殊なものだ。魔法をかけた人物、かけた魔法の種類がわからなければ対処しようがない。調べるには少々時間が掛かる」
「なるほど」
時間稼ぎのためって訳か。とりあえずはこれをもらっておかなければ、夕方からのバイトに行けない。
伸ばした手に石は触れず、
「お金」
空の手が目の前にある。以外に素早い。
「いくらですか?」
「五十万円」
「ご、」
目を見開く。確かに、魔法は高いもんだってこと聞いたことがある。
けれど、五十万。
南の国のお土産っぽい雰囲気のダサいペンダントが五十万。
羽がなくなれば付けなく成る事間違い無しのペンダントに、諭吉さんが五十人。
……。
…………。
………………。
……………………無理。
「ちょっと――」
言いよどむ私に、
「レンタルでもいいよ」
タイミングよく言う。もしや人が苦悩してるの見て楽しんでるんだろうか。
「……いくらですか?」
「一日五百円」
なんとワンコイン。めっちゃ安い。いや、待て。どこかでこんな手口を聞いたことがある。
そう、あれは詐欺の特集をしてたテレビ番組だ。高い商品だと偽り、値段を吹っかけておいて半額以下で売る。けれど販売した価格がもともとの価格で、まったく安くないってやつだ。
「どうする?」
「……何日くらいかかりますか?」
魔法は何でもかんでもとにかく時間がかかると祖母が言っていた。まして、特殊な魔法であれば調べるだけでも相当時間がかかるはず。
一日五百円とはいえ、一ヶ月だと一万五千円。そんな余裕はない。
「ニ・三日もあれば十分だろう。昔に比べて魔術師自体が少ないから、君に魔法をかけた相手を探すのはわけがない」
「でも、魔法の種類も調べなければいけないんですよね?」
「魔術師は全て国に登録されている。登録されている個人情報と、公共の場で使用した魔法の履歴などを調べれば推測できる」
「へぇ」
魔術師に対するイメージがちょっと下がる。まさか登録制とは知らなかった。でも魔法で何でも出来るのならば、登録していなければ悪い事に魔法を使ったとき対応のしようがないか。
「魔法を解くのは別料金だよ」
……金の亡者か。
「いくらですか?」
「五千円」
思ったより高くない。風邪を引いて病院に行く事を考えるとどっこいだろう。
「わかりました」
「前金で三千円」
「……は?」
前金?
財布からなけなしの三千円を引っ張り出し、テーブルに置く。
魔術師は瞬速でそれを懐にしまいこみ、さっきまで三千円あった場所には青いペンダント。魔術師じゃなくて手品師でも通じそうだ。
「もしかして、」
何か言いかけ、言葉を切り席を立つ。
嫌な予感。意味深な前置きで何を言うつもりなのだろう。
「何ですか?」
「いや――」
ふらりと歩みだす。慌ててペンダントを身につけ、後を追うように付いていったのだが、占い師は帰るわけではなく席を移動しただけだった。占い用の小道具が置かれた席。つまり、定位置に。
「気になるんですけど?」
とりあえず魔術師の前の席に腰を下ろす。
「……君は占いに興味があるか聞こうと思ったんだよ」
「は?」
「何を占おうか。今日の運勢? 恋愛運? 金運?」
「いえ、結構です」
立ち上がろうとするが、なぜか立てない。腰が上がらないのだ。
「ふふふ、」
魔術師が不気味な笑い声を上げる。
「私の占いが終わるまでは立てないよう、その椅子には魔法が掛けてあるのだよ」
なんて陰湿な。
「不意の出費が重なる日。家でおとなしくしているのが吉」
なんて馬鹿げた占い結果を聞き、料金の千円を払って店を出た。
帰ってみればお昼前。簡単に料理を作り、返却日が迫っているビデオを掛ける。
半分ほど食べ終えたところで、来客を告げるブザー音。やたら勘に障る音が何度も部屋に響く。
ドアを開けると、サラリーマン風の男が二人たたずんでいた。手前の男は濃紺のスーツに青のネクタイ。足元には黒い皮製のバッグ。色鮮やかなパンフレットと思しき紙がのぞいている。奥の男は葬式にでも向かうかのような黒尽くめ。
「こちらは沢倉さんのお宅ですか?」
「そうですが」
「沢倉知子さんご本人ですか?」
「えぇ」
男の瞳がキラリと輝く。
……一人暮らしの天敵、押し売りだ。本能が告げる。
「ちょっと――」
「間に合ってます」
ピシャリと扉を閉め、ドアチェーンに鍵をかける。女の子の一人暮らしってこういう時の用心が肝心だ。
「あの、すいません、沢倉さん!」
扉を何度も叩く二人組み。うるさいったらありゃしない。管理人さんと警察に不審者がいると電話を掛け、ヘッドホンをして音量を上げた。
二.町田高弘《まちだたかひろ》
「おたくら、何してんの?」
突然警官と老婆に声を掛けられる。
「特に何ってわけでもないですが……」
俺は言葉を選びつつ答える。
現状としては非常にまずい。一人暮らしの女性の玄関先で騒いでいたら、不審者と思われても仕方ない。
それにしても長谷川先輩、警察が来た事くらい教えてくれてもいいだろうに。何もしないで欲しいとは言ったものの、まさか本当に何もしないとは……先輩の事、甘く見すぎていたらしい。
「沢倉の嬢ちゃん、おらんじゃろうが」
老婆が声を荒げる。
「いえ、先ほどいらっしゃいましたよ」
「嘘つけ! 出とるって電話があったわ」
……は?
「沢倉さん宅の玄関先に不審者がいるって匿名の通報があったんだよねぇ」
警察が老婆の言葉を遮るように声を上げる。妙に親しげな口調なのはこちらを疑っているからだろう。
彼女、手が回しがいい。
「いえ、私たちは別に怪しいものでは――」
足元の鞄を抱え立ち去ろうとするが、一方通行の出入り口を塞がれたんじゃ逃亡もままならない。
「じゃかわしい」
老婆が罵声を上げる。
「そんな死神みたいな格好しとって何言うとんじゃ」
やっぱり先輩か。
洋物の刑事ドラマが好きだと自負するだけあって、とにかく先輩は妙だ。さすがに怪しいからと今はサングラスを外してもらっているが、普段からエージェント・スミスのような格好をしている。
何て刑事ドラマが元ネタなのかは知らないが。
自分自身、幼いころに憧れていた特撮ヒーローものの延長のような今の職に付いているので、あまり批判もできない。
怒鳴り続ける老婆をなだめようと試行錯誤していたものの、警官は諦めたように息をつき、
「ちょっとここじゃなんだから、一緒に来てくれるかな?」
……任意同行だろうか。
確かに、邪魔な老婆のいないところで話をするにはそれしかないだろうが……田舎で暮らしてる両親に顔向けできない。けれど、行かなければますます面倒な事になる。
どうしようかと先輩を見やれば、何故だか嬉しそうな顔をしている。本当に頼りにはならない人だ。
海外もののドラマで主人公の警官が捕まったりなんてストーリーあっただろうか?
「名前と住所、ここに一応書いてくれる?」
警官はあくまで優しい。老婆があれほど怒らなければ、調書をとる必要もないのだから当然かもしれないが。
書類を受け取り、でたらめな住所を記す。
「で、二人は何をしていたのかな?」
書類を受け取りながら、世間話の要領で警官は尋ねる。手馴れたものだ。
「黙秘する」
鋭い言葉が部屋にこだます。
……先輩?
こういう場合は適当にごまかし、もしくは上に連絡し指示を仰ぐことになっているのだが。
警官は疑りの視線を一瞬見せ、何事も無かった用に書類に目を通す。
「高橋一哉《たかはしかずや》さんにジェームズ・ボンド――?」
じろり、警官が疑わしそうに先輩を睨む。
先輩、何考えてるんですか!
「いえ、あの、じょ、ジョークです。ジョーク好きなんですよ、先輩」
必死に言い募る俺には目をくれず、先輩は横柄な態度で、
「電話を貸せ」
「は?」
警官も目を丸くしている。
「電話だ。私には弁護士に電話する権利があるはずだが?」
「いや、あの、事件にするとかそんな話じゃないから――」
「電話をする権利があるはずだが?」
不敵に笑う。
どうしてここまで怪しい態度をとる必要があるんだ? 警官も当初は注意して終わりにするはずだったんだろうが、話をややこしくするのでげんなりしている。
先輩は電話を借り、直接上に電話を入れているようだ。たぶん、電話口の向こうは課長だろう。上司であるにもかかわらず、高校時代の後輩だとかで、何故だか先輩は課長をあごでつかっている。
若いというのに胃腸が弱いらしく、先週、胃潰瘍が回復しつつあると嬉しげに話していたと言うのに気の毒な話だ。
「電話を替われと――」
先輩が納得行かない顔で、俺に受話器を差し出す。
「はい、替わりました」
「……極秘任務って言わなかったか?」
恨みがましい声。
「すいません」
「お前一人に任せてたはずの任務に、なぜ奴が参加してるんだ?」
「すいません」
「……はぁ」
地獄のそこから響いてくるような、暗く、重い溜息。
「すいません」
ただただ謝るしかない。
「そこにいる貧乏くじ引いた警官に替わってくれ」
「了解」
警官に受話器を渡す。警官は戸惑いつつ、
「はい、替わりました。……は? え、あ、はぁ……そうですか。いや、えぇ――」
受話器を置く頃には、疲れきった顔をしていた。
「組織ぐるみで何をしてるんだ?」
「すいませんが極秘事項なので、お答えできないんです」
この警官には気の毒だが、極秘事項を少しでも漏らせば左遷だ。家族ともども言葉の通じない地に、永久に。
そんな俺の杞憂に気づきもせず、先輩はなぜか嬉しそうに、
「羽だ」
「は?」
警官と俺の声がかぶる。
「朝、この町で強力な魔法反応があった」
「ちょ、ちょっと何言い出すんですか!」
極秘事項だって事、課長に散々釘を刺されたはずなのに。
「うるさい、どうしてこの俺があいつの言うことを聞かなければいけないんだ?」
子供じゃあるまいし、何を言い出すんだ。
「上司じゃないですか!」
「あいつは後輩だ!」
「上司です!」
「うるさい」
止めようと、警官が間に立つ。
「落ち着け、この町には魔術師なんていないはずだが?」
「いる」
「いない」
「いるんだ」
「いないって」
今度は警官と言い争い始める先輩。トラブルメーカーではあるが、強力な悪運を持ち合わせているらしく、迷宮入りしそうな事件をなぜか次々と解決している。その実績を買われているのか、左遷されることもない。
そろそろ子供の口喧嘩の様相を呈して来た。低レベルな悪口と、無意味な揚げ足鳥が続いている。掴みあいをしないだけマシだが、警官の額には青筋。一触触発の危険な状態。
しかたなく弥生《やよい》さんの番号を呼び出す。
「お忙しいところすいません」
「何? アイツまた問題起こしたの?」
ツーカーで会話が通じる。弥生さんにはそれ以外で電話をかける事がないからなのだが、俺も、そして弥生さんにとっても嫌な関係である。
「――はい」
「替わって」
「先輩、弥生さんです」
言った途端、先輩の表情が一変し、口調も替わる。
「――弥生ちゃん? もしもーし……」
どうして一瞬でここまで人が替われるのか、いつ見ても不思議だ。
それまでの争いなんてなかったかのような先輩の態度に、警官は狐につままれたような顔で、
「何?」
俺に尋ねる。
「相手は先輩の奥さんです。先輩が暴走したときの抑制剤なんですよ」
「……あ、そう」
疲れきった顔で座り込み、お茶をすする。
そりゃそうだろう。課内の人間でも、先輩に慣れるには半年掛かる。仕事を覚えるよりも難しいため、一番人の移動が多い課と言われている。
一通り愛の電話――弥生さんが皮肉り、怒鳴り、先輩が愛の言葉を繰り返す不毛な会話――が終わると、先輩は上機嫌だった。
「さ、さっさと仕事を済ませるぞ」
「……はい」
「元気がないな?」
「はいっ!」
警官に言葉を掛け、派出所を出る。
俺達が出て行くのがよほど嬉しいのだろう、警官は幸福そうな笑みを浮かべ、バイバイと思いきり手を振ってくれた。
俺もそっちで一緒に手を振りたい。
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