魔女の鍵(2/3)
「……うぎゃー!!」
朝っぱらから妙な叫び声をあげてしまった。穴があったら入りたいと思いつつも、自分にこんな声が出せたんだと感心する。
「起きた?」
目の前にはカテリナが、ニナ・ルッツの格好をしてたたずんでいた。刺青、ピアスに奇妙なアクセサリー。黒ずくめの引きずるような衣装。昨日とはまた少し格好が違っていたが、夜の暗闇でも見たくはないし、起きざまにも見たくない格好であるところは相変わらず。
何らかの殺気でも発してくれていればそれなりの覚悟をして目を開けることが出来るのだが、穏やかな人の気配でこの格好は……心臓にきつい。
「朝からなんだ? いや、それよりもどうやってこの部屋に入った? 鍵を掛けたはずだが……そういえば君は魔女だったな」
「低血圧じゃないのね、目覚めてすぐにそれだけしゃべるところをみると」
「カテリナ、頼むから元の姿に戻ってくれ」
頼むと、彼女は一瞬で普通の娘の格好に戻る。
「ウォルフはこっちのほうがいいの?」
「あぁ」
ニナ・ルッツは心臓にも悪ければ、精神衛生上も良くない。
「王子様がニナ・ルッツをお召しだからずっとこの格好をしてなきゃいけないかと思ってたの」
いたずらっぽく目を細めて笑う。先ほどの私の失態を思い出しているんだろう。
「先ほどのことは頼むから忘れてくれ。王子に会うときはニナ・ルッツの格好のほうがいいだろうが、私といるときは普通でいい」
「……わかったわ。朝食にしましょ」
部屋を出てゆく。
私は急いで身支度を整え部屋を出る。
「きゃっ」
なぜか扉を開けてすぐのところにカテリナはたたずんでいた。つい先ほどの草色のワンピースから、空色のワンピースに衣装換えして。
「すまない」
「……私こそごめんなさい。あなたが出てくるの遅いから、声かけようかどうしようか考え込んでたの。そうよね、あなた騎士様なんだから、身支度って簡単にはすまないわよね」
言われて自分の格好を見る。旅用の略式な騎士服ではあるが、確かに普通の服とは違って多少時間が掛かる。だが、
「この格好では登城するわけにもいかないから、私はいったん着替えに戻る」
「戻るって、家に?」
「そうだ。君の事も早く城の者に報告しておかなければいけない」
カテリナは不満げな表情を見せ、
「王子様にすぐに面会って出来ないの? 人を呼びつけておいて」
「王子は何をするにも予定があり、約束がいる」
「私も明日はバイトがあるわ」
小馬鹿にしたような顔をし、
「でも、今日中には会えるんでしょ?」
「早くても夕方、晩餐をご一緒することになるかもしれない」
「晩餐? 面倒臭いわね」
普通の娘であれば喜ぶことなのだが、カテリナは盛大にため息をつく。
気づけば店の玄関まで来ていた。
「朝食は――」
「外で食べろって。ここ、夜中まで店開けてるから朝食はしてないの」
「そうか」
連れだって店を出る。
「この辺で朝食が食べられる店は――」
「ウォルフの家でいいわよ」
「わ、私の家!?」
「奥さん、いるんでしょ?」
カテリナの言葉に私は首をひねる。
「……そんな者はいないが」
「嘘! じゃ、誰へのお土産だったの? あのブローチ」
昨日、カテリナに見立ててもらって小間物屋で買ったのだ。小さな淡い桃色の石と虹色のガラスを編みこむように連ねたブローチを。
「……姉だ」
「姉? お姉さんの為にあんなブローチ買ったっての?」
高らかな笑い声。
家を飛び出し転がり込んだのは騎士をやっていた叔父の家だった。姉、というのはその叔父の妻であるアンナのことだ。彼女は『おっかさん』を地で行く人で、家を持ってからも世話になりっぱなしなので何かの折には彼女にプレゼントを贈るのが決まりごとのようになっていた。
最近、彼女は私の結婚の話で煩《うるさ》い。家に帰ればまた、大量の見合いの書類が郵便受けからはみ出しているかもしれないし、姉本人が待ち受けているかもしれない。
考えると嫌な予感がして、
「君はついて来るな。姉に会ったら面倒――」
「ウォルフ!」
言っているそばから姉の声が背中に掛かる。私が姉の声を聞き間違えるわけが無いのだが、そのときほど聞き間違いであって欲しいと願ったことは無い。
「ウォルフ!」
こちらが逃げ隠れできないほどの距離にまで近づいてきているのに、先ほどと同じ大きさの声を上げる。早いとはいえないが、まだ朝。近所迷惑この上ない。
「ウォルフ!」
三回目はすぐ背後。肩で息をしながらだった。走ってきたのだろう。
「お早うございます」
振り向き何事も無かったかのような笑顔で挨拶。
「こちらはカテリナ・ローゼンバーグ殿。王子のお招きでこちらにいらっしゃるため私が案内を――」
「まぁまぁまぁ、カテリナさん? あなたお幾つ?」
姉は話を聞いていない。
「姉上!」
「まぁ、いいじゃないのウォルフ。私は今年で二二ですわ」
カテリナがいたずらを思いついた子供のような顔をする。
問題を混迷させる気だ。
「まぁまぁまぁ」
姉の口癖。
「あなたのお相手にぴったりなお年頃の娘さんね!」
「いや、姉上。カテリナ殿は王子の招きで――」
「愛妾が九人もいるような方のことはどうでもいいのよ」
王子に対してこの言いよう。姉は怖いもの知らずで、誰に対しても容赦ない。
「それよりも問題はあなたよ、二八歳にもなって妻が一人もいないんじゃ格好がつかないでしょ? 騎士としても、男としても」
余計な世話だ。それに妻は一人で十分だ。
口元まででかかった言葉を呑み込む。妻を娶《めと》る気はまだ当分無いのだと何度、どんなに平たく説明しても理解してくれないのだ、姉は。
「まぁ、奥様がいらっしゃらないんですか? ウォルフ様には」
カテリナを睨みつけるが、彼女は嬉しそうに微笑んでいる。悪魔の笑みだ。
「仕事がありますからこれで……」
「これでって、家にお連れするところだったんでしょ? こっちに向かっているってことは?」
城とは反対方向の道の上。
「……微妙に違――っ痛」
「そうです」
カテリナに足を踏まれ、否定しようとしていた言葉を肯定される。
「ウォルフ殿が朝食をご馳走してくださると」
そんなことは言ってない。
「まぁまぁまぁ……仲がいいのね?」
妙な笑顔で私の顔を覗き込まれても困る。
「それではこれで」
カテリナを促し、姉のそばを離れる。声が聞こえないくらい離れたところでそっと後ろを振り向くと晴れやかな顔で微笑む姉の姿。盛大にため息をつく。
「まったく、君は何がしたいんだ?」
「ウォルフのうちで朝ごはんが食べたいのよ。有名料理店の料理ばかり食べてるとね、たまには素人料理も食べたくなるの」
「そんなものか?」
「そんなものよ」
途中マーケットに寄って食材を買い込み、アパートにたどり着く。
「あなた、アパート暮らしなの?」
驚きを隠せない表情のカテリナ。
「帰って寝るだけなのに家を持つことは無いだろう?」
一階の一番奥が私の部屋だ。日当たりがほとんど無いから、借り手がなかなかつかなかったと部屋を借りたとき、大家の爺さんがぼやいていた。
預けておいた鍵を爺さんから受け取り、部屋に入る。十日ぶりの部屋は相変わらず愛想が無い。朝だというのに灯をともさなければならない暗さ。
郵便受けの手紙を振り分け、姉からの手紙は開けずに直接ゴミ箱へ放り込む。
「何、このシンプルさ! 何も無いじゃない!」
私の後をついてきたカテリナは素っ頓狂な声を上げる。
ここには帰って寝るだけだと先ほど説明したはずなんだが。
台所へ買ってきた食材を持っていき、簡単に朝食をつくる。レタスとトマトだけのサラダにプレーンオムレツ、珈琲、買ってきたクロワッサンを添えて、テーブルに置く。
「うっわー! 感動すら覚えるわ、このメニュー」
嫌味にしか聞こえない。
数種のフルーツが一口大に切られ、盛り付けられ売られていたそれをテーブルの真ん中に置き、椅子に座る。
「これだけ?」
「あぁ」
「ふぅーん。ところで私の椅子は?」
「そこら辺にあるものに腰を下ろしてくれ」
きょろきょろと辺りを見渡すが、気に召すような椅子の代用品が無いらしくカテリナはパンパンと手を鳴らし、椅子を出現させる。昨日、夕食のときに屋敷で座っていたものだ。
「もうちょっと明るくするわね」
指を鳴らすと昨日、物置に出現した光球が頭上に三つ現れる。
「さ、これで朝っぽくなったわ」
確かに明るい。この明るさで見るとこの部屋の物の無さが非常に寂しい。
「さっきマーケットで会った男に君が来たことを城に伝えてくれるよう頼んでおいた。ここで待っていれば連絡が来るだろう」
食事をしながらの会話など何年ぶりだろうと、ふと思う。
「あれから考えてたんだけど――」
「何をだ?」
「王様の女癖の悪さについて。百年くらい前まではよく登城してたのよ、ニナ・ルッツ。なんでお城に行かなくなっちゃったのかしら?」
「私に聞かれてもわからない」
「そうなんだけど……鍵、何なんだろう?」
デザート用のフルーツ盛り合わせから苺だけ選り分け、口に運びながらカテリナは言った。彼女が悩んでいるとは思えない。
「連絡が来るまで何するの?」
私が食べ終わるのを待って、カテリナが声を上げる。
「何って……」
言葉に詰まる。
「その辺にある本でも読んでいてくれ」
「本? 剣技やら、武術の専門書を私に読めって?」
確かにそんな本しかこの部屋には無い。それらも叔父から貰い受けた品なのだが。
「嫌ならば魔法で何でも出せばいいだろ?」
私の言葉にカテリナはむっと顔をしかめる。何が気に障ったのだろう?
「……ウォルフはどうするの?」
低い声で問われる。
「私は――」
休日は散歩がてらに競馬場や闘技場に向かうのだが……行くわけにも行かないだろう。
「することが無い」
私の声にカテリナは嬉しそうに顔をほころばせる。
「じゃ、久々の王都なんだし、案内して」
「だが連絡を待っていなければ――」
「さっきのお爺さんに頼んでおけばいいでしょ? どうせ早くても夕方まで登城は出来ないって言ってたじゃないの」
押し切られる形で散策することになってしまった。
「百年もたてばずいぶん街の様相が変わったわね。あら、あの演劇場、前のほうが趣《おもむき》があって良かったのに!」
街の案内を始めて数分で思い知らされたことがある。カテリナは私より街について詳しい。安価なガイド誌を購入し、それを読み上げていた私が悪いのではあるが、古の魔女ニナ・ルッツは確かにこの街へ良く来ていたらしい。
「有名な建築物は百年以上前に出来ているからな」
嫌味のような台詞を思わず吐いてしまう。
「けれどずいぶん建物も変わったし、人も増えたわ」
懐かしそうな瞳。
「どうして百年もここに来なかったんだ?」
「さぁ……あら、あれ――」
指差しているのは中央公園の噴水の真ん中にそびえ立つ巨大なオブジェ。巨大な彫像の女の周囲に水が湧き上がり、その周りに彫刻で出来た鳥が集い、彫刻の花々が咲き乱れている。
「あれ、ニナ・ルッツよね?」
戸惑い顔で尋ねられ、ガイド誌を開く。
「『古の魔女を愛《いつく》しんで王が創らせた』ものだそうだ」
「……愛しんで? どういうことかしら? 確かに歴代の王とは親しくしていたけれど、こんな彫像を創られる覚えはないわ」
じっと見つめていたが何も思い出せないらしい。
「この彫像が創られたのはいつ?」
手元のガイド誌によると、
「『公園が作られる五年前』だから――」
「公園は後で作られたの?」
「そうらしいな」
計算をやめてカテリナを見る。先ほどよりも深刻そうな顔をして、
「何があったのかしら? 早く鍵を思い出さなきゃダメね」
行きましょう、と歩き始める。
彫像のために公園が作られたともなると、確かに事態はずいぶんややこしくなる。
どこへ向かうのかわからず、私はカテリナの後を追いかけた。
朝っぱらから妙な叫び声をあげてしまった。穴があったら入りたいと思いつつも、自分にこんな声が出せたんだと感心する。
「起きた?」
目の前にはカテリナが、ニナ・ルッツの格好をしてたたずんでいた。刺青、ピアスに奇妙なアクセサリー。黒ずくめの引きずるような衣装。昨日とはまた少し格好が違っていたが、夜の暗闇でも見たくはないし、起きざまにも見たくない格好であるところは相変わらず。
何らかの殺気でも発してくれていればそれなりの覚悟をして目を開けることが出来るのだが、穏やかな人の気配でこの格好は……心臓にきつい。
「朝からなんだ? いや、それよりもどうやってこの部屋に入った? 鍵を掛けたはずだが……そういえば君は魔女だったな」
「低血圧じゃないのね、目覚めてすぐにそれだけしゃべるところをみると」
「カテリナ、頼むから元の姿に戻ってくれ」
頼むと、彼女は一瞬で普通の娘の格好に戻る。
「ウォルフはこっちのほうがいいの?」
「あぁ」
ニナ・ルッツは心臓にも悪ければ、精神衛生上も良くない。
「王子様がニナ・ルッツをお召しだからずっとこの格好をしてなきゃいけないかと思ってたの」
いたずらっぽく目を細めて笑う。先ほどの私の失態を思い出しているんだろう。
「先ほどのことは頼むから忘れてくれ。王子に会うときはニナ・ルッツの格好のほうがいいだろうが、私といるときは普通でいい」
「……わかったわ。朝食にしましょ」
部屋を出てゆく。
私は急いで身支度を整え部屋を出る。
「きゃっ」
なぜか扉を開けてすぐのところにカテリナはたたずんでいた。つい先ほどの草色のワンピースから、空色のワンピースに衣装換えして。
「すまない」
「……私こそごめんなさい。あなたが出てくるの遅いから、声かけようかどうしようか考え込んでたの。そうよね、あなた騎士様なんだから、身支度って簡単にはすまないわよね」
言われて自分の格好を見る。旅用の略式な騎士服ではあるが、確かに普通の服とは違って多少時間が掛かる。だが、
「この格好では登城するわけにもいかないから、私はいったん着替えに戻る」
「戻るって、家に?」
「そうだ。君の事も早く城の者に報告しておかなければいけない」
カテリナは不満げな表情を見せ、
「王子様にすぐに面会って出来ないの? 人を呼びつけておいて」
「王子は何をするにも予定があり、約束がいる」
「私も明日はバイトがあるわ」
小馬鹿にしたような顔をし、
「でも、今日中には会えるんでしょ?」
「早くても夕方、晩餐をご一緒することになるかもしれない」
「晩餐? 面倒臭いわね」
普通の娘であれば喜ぶことなのだが、カテリナは盛大にため息をつく。
気づけば店の玄関まで来ていた。
「朝食は――」
「外で食べろって。ここ、夜中まで店開けてるから朝食はしてないの」
「そうか」
連れだって店を出る。
「この辺で朝食が食べられる店は――」
「ウォルフの家でいいわよ」
「わ、私の家!?」
「奥さん、いるんでしょ?」
カテリナの言葉に私は首をひねる。
「……そんな者はいないが」
「嘘! じゃ、誰へのお土産だったの? あのブローチ」
昨日、カテリナに見立ててもらって小間物屋で買ったのだ。小さな淡い桃色の石と虹色のガラスを編みこむように連ねたブローチを。
「……姉だ」
「姉? お姉さんの為にあんなブローチ買ったっての?」
高らかな笑い声。
家を飛び出し転がり込んだのは騎士をやっていた叔父の家だった。姉、というのはその叔父の妻であるアンナのことだ。彼女は『おっかさん』を地で行く人で、家を持ってからも世話になりっぱなしなので何かの折には彼女にプレゼントを贈るのが決まりごとのようになっていた。
最近、彼女は私の結婚の話で煩《うるさ》い。家に帰ればまた、大量の見合いの書類が郵便受けからはみ出しているかもしれないし、姉本人が待ち受けているかもしれない。
考えると嫌な予感がして、
「君はついて来るな。姉に会ったら面倒――」
「ウォルフ!」
言っているそばから姉の声が背中に掛かる。私が姉の声を聞き間違えるわけが無いのだが、そのときほど聞き間違いであって欲しいと願ったことは無い。
「ウォルフ!」
こちらが逃げ隠れできないほどの距離にまで近づいてきているのに、先ほどと同じ大きさの声を上げる。早いとはいえないが、まだ朝。近所迷惑この上ない。
「ウォルフ!」
三回目はすぐ背後。肩で息をしながらだった。走ってきたのだろう。
「お早うございます」
振り向き何事も無かったかのような笑顔で挨拶。
「こちらはカテリナ・ローゼンバーグ殿。王子のお招きでこちらにいらっしゃるため私が案内を――」
「まぁまぁまぁ、カテリナさん? あなたお幾つ?」
姉は話を聞いていない。
「姉上!」
「まぁ、いいじゃないのウォルフ。私は今年で二二ですわ」
カテリナがいたずらを思いついた子供のような顔をする。
問題を混迷させる気だ。
「まぁまぁまぁ」
姉の口癖。
「あなたのお相手にぴったりなお年頃の娘さんね!」
「いや、姉上。カテリナ殿は王子の招きで――」
「愛妾が九人もいるような方のことはどうでもいいのよ」
王子に対してこの言いよう。姉は怖いもの知らずで、誰に対しても容赦ない。
「それよりも問題はあなたよ、二八歳にもなって妻が一人もいないんじゃ格好がつかないでしょ? 騎士としても、男としても」
余計な世話だ。それに妻は一人で十分だ。
口元まででかかった言葉を呑み込む。妻を娶《めと》る気はまだ当分無いのだと何度、どんなに平たく説明しても理解してくれないのだ、姉は。
「まぁ、奥様がいらっしゃらないんですか? ウォルフ様には」
カテリナを睨みつけるが、彼女は嬉しそうに微笑んでいる。悪魔の笑みだ。
「仕事がありますからこれで……」
「これでって、家にお連れするところだったんでしょ? こっちに向かっているってことは?」
城とは反対方向の道の上。
「……微妙に違――っ痛」
「そうです」
カテリナに足を踏まれ、否定しようとしていた言葉を肯定される。
「ウォルフ殿が朝食をご馳走してくださると」
そんなことは言ってない。
「まぁまぁまぁ……仲がいいのね?」
妙な笑顔で私の顔を覗き込まれても困る。
「それではこれで」
カテリナを促し、姉のそばを離れる。声が聞こえないくらい離れたところでそっと後ろを振り向くと晴れやかな顔で微笑む姉の姿。盛大にため息をつく。
「まったく、君は何がしたいんだ?」
「ウォルフのうちで朝ごはんが食べたいのよ。有名料理店の料理ばかり食べてるとね、たまには素人料理も食べたくなるの」
「そんなものか?」
「そんなものよ」
途中マーケットに寄って食材を買い込み、アパートにたどり着く。
「あなた、アパート暮らしなの?」
驚きを隠せない表情のカテリナ。
「帰って寝るだけなのに家を持つことは無いだろう?」
一階の一番奥が私の部屋だ。日当たりがほとんど無いから、借り手がなかなかつかなかったと部屋を借りたとき、大家の爺さんがぼやいていた。
預けておいた鍵を爺さんから受け取り、部屋に入る。十日ぶりの部屋は相変わらず愛想が無い。朝だというのに灯をともさなければならない暗さ。
郵便受けの手紙を振り分け、姉からの手紙は開けずに直接ゴミ箱へ放り込む。
「何、このシンプルさ! 何も無いじゃない!」
私の後をついてきたカテリナは素っ頓狂な声を上げる。
ここには帰って寝るだけだと先ほど説明したはずなんだが。
台所へ買ってきた食材を持っていき、簡単に朝食をつくる。レタスとトマトだけのサラダにプレーンオムレツ、珈琲、買ってきたクロワッサンを添えて、テーブルに置く。
「うっわー! 感動すら覚えるわ、このメニュー」
嫌味にしか聞こえない。
数種のフルーツが一口大に切られ、盛り付けられ売られていたそれをテーブルの真ん中に置き、椅子に座る。
「これだけ?」
「あぁ」
「ふぅーん。ところで私の椅子は?」
「そこら辺にあるものに腰を下ろしてくれ」
きょろきょろと辺りを見渡すが、気に召すような椅子の代用品が無いらしくカテリナはパンパンと手を鳴らし、椅子を出現させる。昨日、夕食のときに屋敷で座っていたものだ。
「もうちょっと明るくするわね」
指を鳴らすと昨日、物置に出現した光球が頭上に三つ現れる。
「さ、これで朝っぽくなったわ」
確かに明るい。この明るさで見るとこの部屋の物の無さが非常に寂しい。
「さっきマーケットで会った男に君が来たことを城に伝えてくれるよう頼んでおいた。ここで待っていれば連絡が来るだろう」
食事をしながらの会話など何年ぶりだろうと、ふと思う。
「あれから考えてたんだけど――」
「何をだ?」
「王様の女癖の悪さについて。百年くらい前まではよく登城してたのよ、ニナ・ルッツ。なんでお城に行かなくなっちゃったのかしら?」
「私に聞かれてもわからない」
「そうなんだけど……鍵、何なんだろう?」
デザート用のフルーツ盛り合わせから苺だけ選り分け、口に運びながらカテリナは言った。彼女が悩んでいるとは思えない。
「連絡が来るまで何するの?」
私が食べ終わるのを待って、カテリナが声を上げる。
「何って……」
言葉に詰まる。
「その辺にある本でも読んでいてくれ」
「本? 剣技やら、武術の専門書を私に読めって?」
確かにそんな本しかこの部屋には無い。それらも叔父から貰い受けた品なのだが。
「嫌ならば魔法で何でも出せばいいだろ?」
私の言葉にカテリナはむっと顔をしかめる。何が気に障ったのだろう?
「……ウォルフはどうするの?」
低い声で問われる。
「私は――」
休日は散歩がてらに競馬場や闘技場に向かうのだが……行くわけにも行かないだろう。
「することが無い」
私の声にカテリナは嬉しそうに顔をほころばせる。
「じゃ、久々の王都なんだし、案内して」
「だが連絡を待っていなければ――」
「さっきのお爺さんに頼んでおけばいいでしょ? どうせ早くても夕方まで登城は出来ないって言ってたじゃないの」
押し切られる形で散策することになってしまった。
「百年もたてばずいぶん街の様相が変わったわね。あら、あの演劇場、前のほうが趣《おもむき》があって良かったのに!」
街の案内を始めて数分で思い知らされたことがある。カテリナは私より街について詳しい。安価なガイド誌を購入し、それを読み上げていた私が悪いのではあるが、古の魔女ニナ・ルッツは確かにこの街へ良く来ていたらしい。
「有名な建築物は百年以上前に出来ているからな」
嫌味のような台詞を思わず吐いてしまう。
「けれどずいぶん建物も変わったし、人も増えたわ」
懐かしそうな瞳。
「どうして百年もここに来なかったんだ?」
「さぁ……あら、あれ――」
指差しているのは中央公園の噴水の真ん中にそびえ立つ巨大なオブジェ。巨大な彫像の女の周囲に水が湧き上がり、その周りに彫刻で出来た鳥が集い、彫刻の花々が咲き乱れている。
「あれ、ニナ・ルッツよね?」
戸惑い顔で尋ねられ、ガイド誌を開く。
「『古の魔女を愛《いつく》しんで王が創らせた』ものだそうだ」
「……愛しんで? どういうことかしら? 確かに歴代の王とは親しくしていたけれど、こんな彫像を創られる覚えはないわ」
じっと見つめていたが何も思い出せないらしい。
「この彫像が創られたのはいつ?」
手元のガイド誌によると、
「『公園が作られる五年前』だから――」
「公園は後で作られたの?」
「そうらしいな」
計算をやめてカテリナを見る。先ほどよりも深刻そうな顔をして、
「何があったのかしら? 早く鍵を思い出さなきゃダメね」
行きましょう、と歩き始める。
彫像のために公園が作られたともなると、確かに事態はずいぶんややこしくなる。
どこへ向かうのかわからず、私はカテリナの後を追いかけた。
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