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マイペース
 日本人形のような、と称される容姿をした智里《ちさと》さんはとてもマイペースな女の子でした。生まれて十七年。誰よりも波乱とは縁のない人生を送っていましたが、高校三年のある日のことです。
「智里」
 学校から帰ってきた彼女は居間で難しい顔をしている両親に呼び止められました。いかにも人のいいおばちゃんな雰囲気の母が見慣れないスーツ姿で正座していました。
「話がある」
 重々しく口を開いた父もスーツ姿です。
「座りなさい」
 不信に思いながら智里さんは両親の前に腰をおろしました。
「実は――」
 声を上げかけた父ですが、考え込むように黙り込み、要領を得ない言葉をつむぐのみ。
 日本人形のような、と称される智里さんですが、そこは現代っ子。正座など普段することがありません。五分もたたないうちに足がしびれ、両親の話を聞くどころではなくなってしまいました。
「……今さらだとは思ったが、お前の幸せを考えるとこうするのが一番いいんじゃないかと……母さんとも話し合った結果だ」
「そう」
 話を聞いていなかった智里さんでしたが、部屋の中の空気はなんとも居心地の悪いもので、たずね返すこともできません。

 翌日はちょうど十三日の金曜日でした。智里さんはそれに気づきましたがうちは仏教徒だからと眉一つ動かすことなく、学校へ行く支度を整えました。
「智里っ」
 いつものように台所に行くと母が息を呑みました。
「その格好で……?」
 何を言いたいのかわからず、智里さんは穏やかにうなづきました。母は泣き出してしまい、智里さんは慌てて落ち着かせるように言い聞かせます。
「大丈夫よ、お母さん。泣かないで」
「母さん、」
 父が泣き声を聞きつけたのか、台所にやってきました。いつもならば仕事へ出かけている時間です。
「智里、準備ができたのか」
 智里さんはうなづきます。
「じゃあ、行こうか」
 どうやら送ってくれるようです。今までになかったことだと思っていると、
「智里、元気で……」
「はい、お母さんも」
 学校へ行くだけなのに大げさな、と思いながら智里さんは返事を返しました。

 学校まで車で二十分ほどなのに、高速を使い、一時間半も走って到着したのは大きなお屋敷の前でした。車に乗るとすぐに眠たくなる智里さんは、道中、ずっと眠っていたのでここがどこかわかりません。
「智里、こっちだ」
 父は慣れた様子でそのお屋敷に入ります。智里さんは顔にクエスチョンマークを浮かべながらも後に続きます。
 表玄関と思《おぼ》しき場所にタキシードに似た服装の男がたたずんでいました。
「智里を連れてまいりました」
 父は深深と頭を下げ、恐縮しきった様子で話し掛けました。良くはわかりませんが、父の仕事先の関係なのかもしれないと智里さんは思い、慌てて頭を下げました。そうであれば失礼なことをするのは先日部長に昇進した父の為にもなりません。
「智里様、お帰りなさいませ。私は執事長の宇佐美と申します」
 執事は智里さんに深々と頭を下げました。
「こちらへどうぞ」
 重々しい扉が開き、ドラマのセットよりよほど立派なお屋敷内に智里さん一人招き入れられました。
「あの、父は?」
 執事の案内で長い毛足の高そうな絨毯が張られた廊下を歩きながら智里さんは尋ねます。
「後ほどお会いなさいます。まずはお着替えを」
 高級ホテルなのだろうか、と智里さんは思いました。智里さんは家族旅行でも一泊八千円の部屋に泊まったことしかありません。
 通された部屋は台所と茶の間と玄関と……家と比べているとなんだか虚しくなってきたので、智里さんは部屋の広さは考えないことにしました。
 ゴシック調の窓枠にかけられた淡い草色のカーテンには同色の刺繍が施され優しい彩りです。素敵だなぁと眺めていると、
「失礼します。世話役を仰せつかりました亀井と申します」
 三十歳くらいの女性に声をかけられました。黒いタイトスカート姿ですが、ここがお屋敷であることを考えるとメイドかもしれません。
「今日はこちらのお洋服はいかがでしょう?」
 彼女が広げて見せたのはモノトーンチェックのワンピース。胸から上は黒一色のデザインです。
「素敵ですね」
「では、こちらにお召し変えを」
 言われ、制服のジャケットを脱いだ智里さんでしたが、彼女は部屋を出ようとはしません。いくら同性とはいえ智里さんは人の前で着替えるのには抵抗があります。
「着替えるまで外にいてもらえませんか?」
「わかりました。着替え終わりましたらお呼び下さい。失礼いたします」
 扉が閉まるのを確認し、智里さんはいそいそとワンピースを着込みます。それはまるであつらえたように智里さんにぴったりです。
 鏡台の前で自分の姿を眺めているうち、ずいぶん時間が過ぎてしまいました。彼女は不安そうな声で部屋の扉を開けました。
「失礼いたします――まぁ、よくお似合いですわ」
 再び部屋に入ってきた彼女は、智里さんを鏡台の前に座らせ髪を梳きはじめました。
 彼女をメイドだと思ってた智里さんでしたが、スタイリストかもしれないと思いながら、鏡に映る滑らかに動く彼女の手を見つめていました。
「……身代金を支払った直後、犯人側からは何の音沙汰も無くなったのですよ」
「へぇ」
「乳飲み子を民家の前に置き去りとは、酷い話ですわ……」
 彼女はドラマか何かにはまっているらしく熱心にその話をしていました。智里さんは興味も無いので適当な相槌を返していると、
「さ、これでよろしいですわ」
 やっと終わったようです。これはサービス料に含まれているのかしら、と智里さんは頭をひねりました。
 そこへタイミングよくノックがあり、執事が姿をあらわしました。
「皆様お待ちです」
 智里さんは皆様とは誰だろうと思い巡らせながら執事のあとに続きます。
「当家の……」
 執事は歩きながら左右にある調度品の説明をはじめました。智里さんは退屈なので適当に合いの手をはさみながら、完璧に掃除の行き届いた廊下に塵を見つけてやろうと熱心に目を光らせていました。
「……簡単ではでございましたが」
 ちょうど到着したようです。執事の話はまったく聞いていなかった智里さんでしたが、穏やかに微笑みながら、
「ありがとう」
 と、答えました。世渡りだけは上手い智里さんです。
 通されたそこは食堂と言うことでしたが、宴会くらい楽に開けそうな大広間でした。智里さんはテーブルについている人々の顔を見渡し、驚きました。自分と良く似た顔が並んでいたからです。
「智里、お帰り」
 一番奥にいる初老の男性が嬉しげに声を上げます。
「パパ、先に言っちゃうなんてずるいわ! 智里さん、さ、席について」
 男の右手に座っている自分に良く似た女性が微笑みます。残り二つの席にも智里さんに似た、年上の男性が座っています。
 執事に促されるまま、智里さんは引かれた椅子に腰掛けます。高そうな調度品に気落ちしつつも、目の前に並べられた豪華な昼食にお腹は歓喜の声を上げます。
「では、いただきましょう」
 女性の声を合図に、食卓にはゆったりとした音楽が響き始めます。智里さんは次にいつ食べられるかわからない美味しい食事を堪能し、食卓を囲む四人から繰り出される質問には適当に答えました。
「智里、学校へはいつから行くかね?」
 食後、旦那様と執事が言っていた男に聞かれ、智里さんは今日はまだ金曜日だったことを思い出しました。
「今からだと遅刻ですね」
「今日から? 智里はずいぶんまじめだね」
 そんなことを言われたことがないので、智里さんはなんと言ったらいいものかわからず黙り込んでいると、
「では車を用意させよう」
 送っていってくれるようです。どこの誰かはわかりませんが、ずいぶん親切です。智里さんは自分が今、どこにいるかもわからないのでそうしてもらった方がありがたいのだと気づき、慌ててお礼を言いました。
 それにしても、と智里さんは眉間に皺を寄せました。父に高級ホテルのようなところへ連れて行かれ、豪華な昼食を食べていたので遅刻した――なんて遅刻理由、真実であっても誰が信じるでしょう? どう説明するのが一番いいのか……熱心に嘘だとばれない言い訳を考えていた智里さんは旦那様が執事に言った言葉を聞いていませんでした。
「……だな。宮下君を呼んでくれ」
「智里さん、そのお洋服で行かれる?」
 奥様に話し掛けられ、智里さんは我に返りました。せっかく着替えた素敵なワンピースですが、学校に行くともなると当然着替えなければなりません。
「あの、さっきの部屋は……」
「緒方、智里さんを部屋へ。お洋服はいろいろ用意してあるからお好きなものをお選びなさい」
 学校には制服で行くものなのに、奥様は妙なことを言うと思いながらも智里は素直に感謝の言葉を述べました。
 先ほどの部屋まで執事――緒方さんが先導してくれ、智里さんはすばやく朝着ていたセーラー服に着替えました。
「お嬢様、その格好で?」
 不思議そうな緒方さんの声に、智里さんは怪訝な顔で、
「ええ、学校へ行くのですから。授業が終わる前に行きたいのですけれど」
「承知しました」
 不承不承の様子ながら緒方さんは表玄関に連れてきてくれました。大きな家に憧れていたけれど、大き過ぎるのも考え物だわと智里さんは思いました。
 玄関にはずいぶん大きくて立派な車が止まっていました。
「これ、ですか?」
「こちらでございます」
 執事が確信をもってうなづき、運転手もドアを開けて智里さんが乗り込むのを待っています。それは黒塗りのベンツだかロールスロイスだか言われる車です。いくら智里さんでもそれが高級車であることは知っています。
 これはオプションサービスなのかしら?
 智里さんは父の財布の懐具合を心配しながら乗り込みました。

「到着いたしました」
 運転手に扉を開けられ、智里さんが見たそこには見たこともない立派な校舎がそびえていました。
「ここ、どこですか?」
 昨日まで智里さんが通っていたのは変哲のない灰色のコンクリート校舎でしたが、今、目の前に映っているのは赤レンガも素敵な洒落《しゃれ》た校舎です。
「学校でございます」
「……そう、ですか」
 朝から不思議なことばかりです。智里さんは首を傾げつつも、運転手に案内されるまま教務室へ進みます。運転手は教務室に到着すると、奥にいた初老の男性と話しだしました。
 時間はちょうど昼休み真っ只中らしく、大勢の学生たちが私服で行き交っています。紺色の、智里さんが着ているいかにも制服めいたものを着ている人は誰もいません。
 初老の男性が四十代の女性を呼び寄せ、話は続きます。
「……でよろしいですね。では、お嬢様をよろしくお願いいたします」
 やっと話は終わったようです。女性の後について行くよう初老の男性に言われたので、智里さんは興味深そうに周囲を見ながら歩き出しました。途中、女性に何度か話し掛けられましたが、聞いていなかった智里さんは適当に返事を返しました。

 連れてこられた部屋に智里さんは驚きました。同世代の人間が十数人座っているところを見ると教室のようです。ですが、とても明るくて綺麗で広々とし、机もカーテンも、何もかもが豪奢なものでした。
「……というわけで、席はあちらですよ」
 智里さんが教室内に気を取られているうちに何か女性からクラスに話があったようです。智里さんは見たことも無い人たちの間をすり抜け、指示された席につきました。
 昨日までの学校の机と椅子はどこへ行ってしまったのだろうと智里さんは考えました。目の前にあるのは学校ではなく会社の社長室にありそうなデスクですし、椅子もクッションが利いていてとても座りごこちが良いものです。
「授業、終わったよ?」
 不意に話し掛けられ、智里さんは顔を上げました。なぜ中学生の少年がここにいるのだろうと思いましたが、よくよく考えれば隣の席に座っていた同級生です。
「部活は何にするの?」
「私は天文部よ」
 何をあたりまえのことを聞くのとばかり智里さんは答えました。
「じゃあ一緒だ。部室はこっちだよ」
 彼の言葉に首を傾げつつも、少年の後に続きます。天文部に彼のような学生がいたとは智里さんの記憶には無かったからです。
 部室の扉を開け、中に入った智里さんは思わず目を見張りました。天井には無数の星星が輝いています。
「結構良くできてるでしょ?」
 黒い布に星図と同じ間隔であけられた小さな穴から光が漏れ、まるでプラネタリウムのようです。
「素敵」
 声も無く、天井を見上げます。
「話を聞いたときには……」
 少年が切り出しにくそうに話し掛ける話に対し、星図と寸分たがわぬ見事なできに感心しきっている智里さんは適当に返事を返し、
「……かもしれないって思った」
「ええ、そうね」
 何を言われたのかわからないまま、頷きました。

「お嬢様、遅うございましたね」
 運転手はずっと待っていたようです。智里さんが車に乗り込み、家に連れて行ってくれるよう頼むと運転手は笑って、
「承知してございます。今日はお疲れのご様子ですね」
「驚くことばかりで――」
「そうでございましょう」
 気を利かせてくれたのか、窓から入ってくる光はずいぶん柔らかになりました。さすがは高級車。窓からの光まで調節できるようです。

 智里さんがうっすら目をあけると、降るような小さな花の刺繍を施された柔らかな布が周囲を取り囲んでいます。寝ぼけているのかしら、と寝返りをうった智里さんでしたが、肌に触れるシーツは柔らかく、光沢があり、いつもの綿百パーセントとは明らかに異なりました。
「えっ?」
 飛び起きた智里さんは夢がまだ覚めていないことに愕然《がくぜん》としました。
「お目覚めですか、お嬢様」
 昨日のスタイリストです。いつからそこにいたのか、寝言は聞かれなかっただろうかと智里さんが気をもんでいると、
「お夕食の用意が整いましたので……」
 どうやら今、来たばかりのようです。智里さんはそっと胸を撫で下ろしました。
「……とのことで、旦那様も奥様も大変お喜びでしたわ」
 嬉しそうに微笑むので、彼女の言ったことを聞いていなかった智里さんでしたが、
「それは良かったです」
「お嬢様が目覚められましたら食堂へお通しするよう仰せつかっております」
 舌をかみそうな台詞も彼女はたやすく口にしました。食堂につくまで智里さんは何度もそれを胸中で反復してみたのですが、やはり自分では上手くしゃべれそうもありません。
「こちらが勝手にお願いしていたことではありましたけれど、今の時代、やはり本人達の意思も……」
 嬉しそうな奥様の声に智里さんは我に返りました。テーブルの上には昼以上に豪勢な食事が所狭しと並んでいます。昼食で食べた以上の料理など想像もできなかったので、お腹は声をあげるのさえ忘れてしまっています。この中で智里さんが食べ慣れているものといえば、彩りに添えられたパセリくらいかもしれません。
「おめでとう智里さん」
「おめでとう」
「おめでとうございます、お嬢様」
「あ、ありがとうございます」
 智里さんはわけもわからず、照れ隠しのように微笑みながら言いました。食堂にはどこから沸いて出たのか、メイドや執事や運転手、いろんな人が溢れていました。口々におめでとうと言いますが、奥様の話を聞いていなかった智里さんには何がおめでたいのか検討もつきません。
「良かったわ……」
 奥様はどうやら話をするのが好きなようです。母も良くしゃべるほうだけれど奥様にはかなわないかも知れないと思っていると、
「……ですものね」
 ふいに視線が集中しているのに気づき、智里さんは赤くなりながら小さく頷きます。
「本当に私、これほど嬉しいことは無いわ。では式は卒業を待ってすぐにと先方にもお伝えしましょうか」
 何の式なのかわからないまま、智里さんはもっとご馳走が食べられるのかも知れないと頷きました。
「本当に良かった……」
 奥様の話はまだ長々と続きます。せっかくのご馳走ですがいつになったら食べられるものか、お腹も不平の声をあげています。
 智里さんは飽き飽きして時計を探しました。精緻な陶器の人形が頭上に金色の文字盤を抱き壁にかかっていました。見難い文字盤から何とか時間を読み取るとどうやら八時を回っています。
「奥様、」
 智里さんの呼びかけに、室内にどよめきが起こりましたが智里さんはかまわず続けました。
「うちの両親が心配していると思うので、今日は失礼させて下さい」
「――智里さん? 私、あなたが今、何をおっしゃったのか……?」
 よろめいた奥様を旦那様が支え、自失した顔で智里さんを見やります。智里さんはそんな周囲の様子など気づきもせず、
「電話をお借りします。父に迎えに来てもらうので、車は結構ですから」



『マイペース』をご覧いただきありがとうございました。

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