灰色の雨
一.藤田大輝 フジタタイキ
六月の始めといえば、例年にもれずこの街は梅雨の真っ只中だ。空色がどんな色だったか忘れてしまいそうなほど、空は灰色で厚く塗りつぶされ、雨は一定のリズムを刻みつつ、街を水の中に閉じ込めようと必死になっている。夕方になってもその雨脚は弱まることもなく、帰宅する人々にも容赦ない。
「美咲ちゃんまた外れ」
野々村の声に我に返った。職場で、仕事中だというのに雨に見とれていたなんて自分らしくない。気恥ずかしさを隠すため、大輝は興味もないのに尋ね返す。
「美咲ちゃん? 彼女か?」
「あれ、藤田さん知りません?」
若いやつは自分の知っていることは周囲が知っていて当然だと思っている。……と、二コ下の野々村を若者呼ばわりしている自分が虚しくなってくる。
大輝の様子などお構いなしに野々村は説明しはじめる。
「朝のテレビに出てる天気キャスターの子なんですがね、可愛いんですよ――」
放っておけばいつまででも一人でしゃべっているタイプだ。野々村のおしゃべりは続いたが、大輝は適当に相槌を打ちつつ、窓の外を見やる。
降りつづける雨を見飽きることなく見つづける。雨だけは何時間見ていても飽きることがない。
灰色をした街は天のシャワーを受け、より濃い灰色へと姿を変える。赤や緑、白や青、いつもならば美しいと感じる色でさえ薄い灰色をかぶり醜く濡れそぼっている。
雑音が消えてしまったのに気づいたのは、それからずいぶん時間が経った頃だった。オフィスには誰の姿もない。挨拶を交わした記憶が無いでもないが、不確かなものでしかない。それほど熱心に雨に見入ってしまっていた自分に苦笑しつつ、立ち上がる。机の奥に放り込んでいた折り畳み傘を引っ張り出し、会社を出る。
家の近所にある児童公園まで帰ってきたときだった。いつもであれば誰かしらの姿がある時間だが、さすがに雨の中、誰もいない。雨に濡れた滑り台、活気の無い公園を照らしだす外灯。非日常的な光景に、不意に背筋に怖気が走る。
――キーコ
ブランコのきしむ音。大輝はぎょっと、音のしたほうをゆっくり見やる。ブランコに人影。白い服――出たか? と思わず身構えた瞬間、彼女と目が合った。若い女性だ。傘もささず、白いワンピース姿で、地面に足をつけ、乗ったブランコをゆらりゆらりと揺らしている。大輝は魅入られたかのように公園に足を踏み入れる。
膝までのスカートからのぞく白い足。ベージュのパンプスが雨にぬれ変色している。いつからここにいたのか、完全に塗れた髪が雨で肌に張り付き、寒さの為に白くなった肌に何よりも美しい色として彩っている。足があるところを見ると幽霊ではなさそうだが、もう少し暗くなれば見分けがつきそうに無い。
「雨、降ってますよ」
なんと声をかけてよいものやらわからず、妙な事を言ってしまった。言ったあと、大輝は自分の言葉に恥ずかしくなる。
何と言われたか考え込むように瞬きを繰り返した後、彼女は大輝を見やる。
「良いんです、」
彼女は何かを言いかけたが言葉を発することなく、暗い瞳で笑う。
「もう良いんです」
二.藤田阿佐美 フジタアサミ
住宅街の一角。亡き父が三十七年ローンで建てた家は支払い終わっているものの、その分痛みが激しい。補修する個所は多く、思い切って立て直したほうが早い。わかっていても、先立つものの無い現状では素人の日曜大工であちこち手を入れながら住み続けている。
柱時計が六時を打ってずいぶん過ぎた。父母の新婚祝いに恩師から貰ったと言うそれは、主亡き今も現役だ。
「遅いな」
食卓に料理を並び終え、阿佐美が時計を見上げながら呟いた時、
「ただいま」
大輝の声が響く。だが、どこか後ろめたそうな響き。
「おかえり~」
阿佐美はニヤつきを抑えながら玄関に向かう。普段は感情の無いアンドロイドのような大輝だが、雨の日には人間らしさを取り戻すらしい。
「今度は何? 犬? それとも猫?」
普段ならば即刻保健所に通報するくせに、雨の日には情ってものが湧き出てくるらしい。雨にぬれた小動物を連れ帰ってくるのだ。
「いや、」
大輝は口篭もる。動物を飼いたい阿佐美と、飼わないと言う大輝。けれど、本人が拾ってきたのならば仕方が無いでしょと押し切り、阿佐美は犬のシロと猫のニャア、ミィを家に置いてやっている。
今度は何だろうか、と阿佐美がにやついていると――
「どうぞ」
大輝が外に声を掛け、入るようにうながす。
「こちらは?」
大輝に尋ねる。屋根の下、雨のかからない場所にたたずんでいたのはずぶぬれの女性――阿佐美より少々若い二十四・五歳の女性だった。
口篭もる大輝を睨み付け、風呂場に向かう。バスタオルを持って引き返し、
「お風呂できてるから入って。服――私のでも大丈夫かな。サイズは?」
急いで彼女を風呂に放り込む。触れた肌は風邪を引いてもおかしくないほど、冷たく冷え切っている。何時間雨の中にいたのだろう。
「あんた何やってんのよ!」
押し殺した声で、自分の部屋に引き上げようとしている大輝に問う。
「何もしてないよ」
いつも通りの声。何もやってないからあんな状態になってるんでしょうが。怒鳴りつけたい気持ちを押し殺し、さっさと着替えて降りてくるよう言い渡す。雨の日はいつもと少し思考が変わっているのだが、それにしたって若い彼女を何時間雨の中に放り出していたのだろう?
着替えてリビングにやって来た大輝はいつも通り食卓につく。料理に手をつけようとする大輝に、凍てつきそうな瞳を向けてやる。大人しく箸をおくのを見届けてから、
「さて。話していただきましょうか?」
「話って……話す事はないんだが」
煮え切らない。
「彼女は誰? 兄さんとどんな関係なわけ?」
答えない。大輝はあらぬ方を向き、時間が過ぎないかと願うばかりの顔をしている。
「三十歳前の癖に彼女の一人もいないと思って心配してあげてたのに――いいわ、本人に聞くから」
「ちょっと待て」
「待たないわよ、誰が待つもんですか」
パタパタとスリッパの音を響かせて、風呂へ向かう。
「お湯加減どう?」
脱衣所の戸を開けると、まだそこで彼女はたたずんでいた。阿佐美がタオルを肩に掛けてやったそのままで。
「ちょっと、早く入らないと本当に風邪引いちゃうわよ」
タイミングよくくしゃみ。
「ほら、早くお風呂入って。濡れた服はその辺置いといて――迷惑とか言わない。さっさとして」
彼女は言われるままにのろり動き始める。リビングに引き返した阿佐美は黙り込み、重い沈黙が満ちるリビングで彼女が現れるのを待った。
三.木村恵 キムラメグミ
ざぶり、思い切って肩まで使ったお湯が体温の無い体には熱い。急に流れはじめた血管はじんじん痛むような痒さを伝える。
私、何やってるんだろ。ばしゃりと顔にお湯を掛け、手足を伸ばす。寒さで縮こまっていた手足は真っ赤だ。
今日は朝から最悪だった。いつも見てるテレビ番組の占いコーナー結果は最下位。憂鬱な気分だったけれどそれで仕事を休むわけにもいかず、気にしてなければ当たりはしないと自分に言い聞かせた。けれど。なぜか今日に限って占いは良く当たった。仕事ではミスを連発し、やんわりと早退を言い渡された。帰りがけに派手に転び、その時財布を落としたらしい。携帯も電池切れで動かない。仕方なく歩いて帰ろうとしたものの、引っ越して間も無いこともあり、道に迷い、交番は見つからず、靴ずれが出来てまともに歩けなくなり、ようよう見つけた公園で途方にくれてブランコに座り込んだのだ。
「占いなんていつもは当たらないのにさ」
最悪の結果の日に限って的中しなくても良さそうなものだ。その上、見知らぬ男性の後をふらふらついて来てしまい風呂に入っている。どう考えたってあり得ない。
あの女性……奥さん、よね。そう思うと、恵は三十分前の自分を叱りつけたくなった。知らない人についていっちゃダメだってことは幼稚園児でも知っていることだ。彼女に何をどう説明すればいいのだろう。考えると気分は重い。
玄関を入ってすぐ、奥さんは冷たい瞳で男性を睨んでいた。恵のことを浮気相手だと勘違い――しないほうがおかしい。今日一日の説明をしたところで誰が信じると言うのだろう。
体が温まってくると自分の馬鹿さ加減に嫌気が差した。恥ずかしくて、穴があればもぐり込んで埋もれてしまいたい。が、いつまでも風呂に入っているわけにもいかない。迷惑を掛けた二人に頭を下げなければ人として問題だ。覚悟を決め、風呂から上がる。
用意されていたTシャツにジャージを着込む。少々小さいが、文句は言えない。脱衣場の扉を開ける音に気づいたのだろう。奥から先ほどの女性が顔を出す。
「ありがとうございました、すいません――」
勢いよく頭を下げた恵に、女性は優しい笑みを貼り付けた顔で、
「いえいえ、さ、こちらへどうぞ」
「あの、これ以上ご迷惑は――」
「いいえ」
有無を言わさない口調。その先には修羅場が待ち受けているのだとわかっていながらも、後には引けない。恵はあとに続く。通されたリビングでは先ほどの男性が着替え、困惑顔で座り込んでいた。平穏な家庭に要らぬ混乱をもたらしたのだ。三十分ほど前の自分には叱るだけでは済まない。落ち込み、自暴自棄になっていたのではあるが、そんな言い訳で通用するかと怒鳴りつけて――
「ここへどうぞ」
女性に言われ、恵は我に返って椅子に腰をおろす。椅子は四つあるが、普段は二つしか使っていない様子。準備されたダイニングテーブルの上に置かれた料理はまだ手がつけられていない。
「名前、名乗っていませんでしたね。私は藤田阿佐美です」
女性に言われ、恵は改まって頭を下げた。
「――木村恵です」
「そう。それで、恵さんはなんでびしょ濡れだったの?」
犯人の見当がついているとばかり、阿佐美さんは男性を睨みつける。非があるのはすべてこちらで、まったくこの男性とは関係ないというのに。
「あの、助けてもらったんです」
話を合わせてもらおうと男性の顔をちらりと見やる。男性は不思議そうな顔をしてこちらを見ている。仕方なく、今日朝からの出来事を話すことにした。聞いたところで信じてもらえるとは思えないけれど。
「――ということで、この方とは一切関係ないんです」
語り終った恵を阿佐美さんはきょとんとした顔で見つめ、
「……それだけ?」
問われる。それ以上も以下もない。恵は素直にうなづく。阿佐美さんは肩を震わせ――怒っているのだろうと思ったら、声をあげて笑い始めた。男性はそんな阿佐美さんを不思議そうな顔で見ているだけだ。
ただ一人、目に涙まで浮かべ爆笑しおわると、阿佐美さんは恵に料理を勧めた。恵は勧められるがまま、ずるずると食事を取り、食後のコーヒーになぜかデザートまでご馳走になった。
四.藤田大輝 フジタタイキ
「あの、本当にこの度はご迷惑をおかけしました」
食事が終わったところで彼女は深々と頭を下げる。妹は他所向けの仮面をかぶったままで、
「いえいえ、たいしたことなどしておりませんよ」
コーヒーにデザートを出してくる。いつもはこんなもの無いのに、いつ用意したのだろう。亡き母にしろ、我が家の女どもの外面の良さは不思議でならない。粗野で乱暴だとしか思えない妹だが、ご近所では優しく朗らか、親切で女性らしいと別人のような評価なのだから。
「お住まいはどちら?」
自然な流れの誘導尋問は続く。彼女、完全にはまりきり会話に不自然さを感じていない。
「まぁまぁ、じゃあそれほど遠くないわね」
妹は自然な動作で時計を見上げ、大げさに驚く。そして申し訳なさそうな顔。完璧な演技だ。だが、それは見慣れた人間にしか見抜けない。
「あらあら、遅くまで引き止めてごめんなさいね。荷物もあるから……兄さん、送って差し上げて」
「え?」
驚く彼女。自分も驚いたが、
「あ、あぁ、そりゃそうだ」
立ち上がる。不気味に光る妹の目が怖い。他人には親切そうな笑みを浮かべた表情にしか見えないらしいが、こういう顔をしているときは逆らわないに限る。
妹は手早く彼女の荷物をまとめ、僕に渡す。本人に持たせれば――と思ったが、持ってみれば濡れた衣服はずしりと重い。
「でも」
彼女の困惑に妹は勝ち誇った顔。
「その服はかまいませんよ、不要でしたら捨てて下さい」
サイズが合わないのだとほのめかす。が、あとで僕に請求してくるだろう。もしくは新品を買わされるか。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
彼女は不承不承に頷く。顔にはなんて良い女性なのだろうと書いてある。妹は彼女に踵の無いサンダルを貸した。
靴擦れがあるため、ひょこひょこ歩く彼女と傘を並ならべてゆっくり歩く。話すことも無いので黙って歩いていたが、公園が見えてくると彼女がくすりと笑った。
「何か?」
「いえ、本当に今日はテレビの――朝の占い通りだったなぁと思って」
「占い?」
「ご存知ありません? 『美咲の今日の天気』の後でやってる占い。私の今日の運勢は最悪。家の中でおとなしくしているのが吉。ただし、運命の出会いがあるかも~って」
「矛盾してますね」
「ですよね」
楽しそうな笑顔。
「藤田さんは何座ですか?」
「僕は魚座だったかな」
「あ、今日一番運勢良かったんですよ」
「そうなんですか?」
「そうそう。私、一番運勢悪かったから、一番良い運勢の人がね、ちょっと憎らしくて真剣に見てしまいましたから」
「へぇ」
「あの方、妹さんだったんですね」
「え?」
「最初、奥さんかなぁと思って、修羅場になるんじゃないかと不安だったんです」
「ハハハ……」
あれが妻だなんてどんなことがあろうと、ごめんこうむる。
「あ、雨上がりましたね」
彼女が空を見上げて嬉しそうにつぶやく。
「月が出てる」
雲間にのぞいた月は、金色で。金属でできていそうなほど硬い光。けれど重い雨雲はまた空を覆い隠す。また降り始めるかもしれない。住宅街特有の入り組んだ通りを抜け、大きな通りに出た。
「あ、ここまで来たらわかります。うちもすぐそこなんで――この度は本当に、本当にご迷惑をおかけしました」
勢いよく頭を下げる。
「いえ、こちらこそ――妹のやつがお節介で」
「いいえ、本当に助かりました」
彼女は首を振り、何度も礼を述べながら歩み去った。
歩いた道を引き返す。公園の前を通るのは今日は四度目だ。外灯の下に照らされているのは寂しい公園。ブランコには誰の姿もない。
「ただいま」
何事も無く家に帰り着く。
「おかえり~。恵さん、きちんと送ってきた?」
「あぁ」
「で?」
「でって?」
「チャンスでしょうが」
「チャンスって――」
「ま、いいわ」
なぜか笑顔。なんだか嫌な予感。
「荷物に兄さんの名刺、忍ばせといたから。向こうから連絡あるかもね」
「おいおい」
「連絡してきてくれますよーに」
星に祈るようなポーズ。
「あのな――」
「いい? 連絡あったらまずは食事に誘いなさいよ。今回のことを理由に会えば良いんだから」
あり得ないと否定する大輝の声を遮り、阿佐美は事細かに今後の行動予定をを語る。時間の無駄だと思いつつ、明日の朝飯の為に大輝は妹の台詞を復唱させられつつ、話を聞いた。
けれど翌日。大輝は知らない番号からの着信に不信に思いつつ通話ボタンを押した。携帯の向こうで、彼女が昨日と同じ詫びの文句を繰り返す。一晩眠ってすっかり元気を取り戻したのだろう、昨日よりも声が力強い。詫びたいという彼女にそんなことはしなくて良いと大輝は断る。
「あの、じゃあご夕食でもいかがです?」
「え?」
「もちろん妹さんもご一緒で――」
「いえ、妹は忙しいので」
教え込まれた台詞をまさか言う羽目になろうとは予測していなかった。妹はどこまで先を読んでいるのだろう。恐ろしい。
出会ってもうすぐ一年になる。
「たまには雨もいいですよね」
恵がそう言うと、街がなんだかいつもよりも優しく感じられる。雨に濡れて柔らかくなったというか。雨の街は見慣れているはずなのに、なぜか始めて見たような気がした。
終
『灰色の雨』をご覧いただきありがとうございました。
突発性競作企画第14弾 「in rain...」 に参加してます。
六月の始めといえば、例年にもれずこの街は梅雨の真っ只中だ。空色がどんな色だったか忘れてしまいそうなほど、空は灰色で厚く塗りつぶされ、雨は一定のリズムを刻みつつ、街を水の中に閉じ込めようと必死になっている。夕方になってもその雨脚は弱まることもなく、帰宅する人々にも容赦ない。
「美咲ちゃんまた外れ」
野々村の声に我に返った。職場で、仕事中だというのに雨に見とれていたなんて自分らしくない。気恥ずかしさを隠すため、大輝は興味もないのに尋ね返す。
「美咲ちゃん? 彼女か?」
「あれ、藤田さん知りません?」
若いやつは自分の知っていることは周囲が知っていて当然だと思っている。……と、二コ下の野々村を若者呼ばわりしている自分が虚しくなってくる。
大輝の様子などお構いなしに野々村は説明しはじめる。
「朝のテレビに出てる天気キャスターの子なんですがね、可愛いんですよ――」
放っておけばいつまででも一人でしゃべっているタイプだ。野々村のおしゃべりは続いたが、大輝は適当に相槌を打ちつつ、窓の外を見やる。
降りつづける雨を見飽きることなく見つづける。雨だけは何時間見ていても飽きることがない。
灰色をした街は天のシャワーを受け、より濃い灰色へと姿を変える。赤や緑、白や青、いつもならば美しいと感じる色でさえ薄い灰色をかぶり醜く濡れそぼっている。
雑音が消えてしまったのに気づいたのは、それからずいぶん時間が経った頃だった。オフィスには誰の姿もない。挨拶を交わした記憶が無いでもないが、不確かなものでしかない。それほど熱心に雨に見入ってしまっていた自分に苦笑しつつ、立ち上がる。机の奥に放り込んでいた折り畳み傘を引っ張り出し、会社を出る。
家の近所にある児童公園まで帰ってきたときだった。いつもであれば誰かしらの姿がある時間だが、さすがに雨の中、誰もいない。雨に濡れた滑り台、活気の無い公園を照らしだす外灯。非日常的な光景に、不意に背筋に怖気が走る。
――キーコ
ブランコのきしむ音。大輝はぎょっと、音のしたほうをゆっくり見やる。ブランコに人影。白い服――出たか? と思わず身構えた瞬間、彼女と目が合った。若い女性だ。傘もささず、白いワンピース姿で、地面に足をつけ、乗ったブランコをゆらりゆらりと揺らしている。大輝は魅入られたかのように公園に足を踏み入れる。
膝までのスカートからのぞく白い足。ベージュのパンプスが雨にぬれ変色している。いつからここにいたのか、完全に塗れた髪が雨で肌に張り付き、寒さの為に白くなった肌に何よりも美しい色として彩っている。足があるところを見ると幽霊ではなさそうだが、もう少し暗くなれば見分けがつきそうに無い。
「雨、降ってますよ」
なんと声をかけてよいものやらわからず、妙な事を言ってしまった。言ったあと、大輝は自分の言葉に恥ずかしくなる。
何と言われたか考え込むように瞬きを繰り返した後、彼女は大輝を見やる。
「良いんです、」
彼女は何かを言いかけたが言葉を発することなく、暗い瞳で笑う。
「もう良いんです」
二.藤田阿佐美 フジタアサミ
住宅街の一角。亡き父が三十七年ローンで建てた家は支払い終わっているものの、その分痛みが激しい。補修する個所は多く、思い切って立て直したほうが早い。わかっていても、先立つものの無い現状では素人の日曜大工であちこち手を入れながら住み続けている。
柱時計が六時を打ってずいぶん過ぎた。父母の新婚祝いに恩師から貰ったと言うそれは、主亡き今も現役だ。
「遅いな」
食卓に料理を並び終え、阿佐美が時計を見上げながら呟いた時、
「ただいま」
大輝の声が響く。だが、どこか後ろめたそうな響き。
「おかえり~」
阿佐美はニヤつきを抑えながら玄関に向かう。普段は感情の無いアンドロイドのような大輝だが、雨の日には人間らしさを取り戻すらしい。
「今度は何? 犬? それとも猫?」
普段ならば即刻保健所に通報するくせに、雨の日には情ってものが湧き出てくるらしい。雨にぬれた小動物を連れ帰ってくるのだ。
「いや、」
大輝は口篭もる。動物を飼いたい阿佐美と、飼わないと言う大輝。けれど、本人が拾ってきたのならば仕方が無いでしょと押し切り、阿佐美は犬のシロと猫のニャア、ミィを家に置いてやっている。
今度は何だろうか、と阿佐美がにやついていると――
「どうぞ」
大輝が外に声を掛け、入るようにうながす。
「こちらは?」
大輝に尋ねる。屋根の下、雨のかからない場所にたたずんでいたのはずぶぬれの女性――阿佐美より少々若い二十四・五歳の女性だった。
口篭もる大輝を睨み付け、風呂場に向かう。バスタオルを持って引き返し、
「お風呂できてるから入って。服――私のでも大丈夫かな。サイズは?」
急いで彼女を風呂に放り込む。触れた肌は風邪を引いてもおかしくないほど、冷たく冷え切っている。何時間雨の中にいたのだろう。
「あんた何やってんのよ!」
押し殺した声で、自分の部屋に引き上げようとしている大輝に問う。
「何もしてないよ」
いつも通りの声。何もやってないからあんな状態になってるんでしょうが。怒鳴りつけたい気持ちを押し殺し、さっさと着替えて降りてくるよう言い渡す。雨の日はいつもと少し思考が変わっているのだが、それにしたって若い彼女を何時間雨の中に放り出していたのだろう?
着替えてリビングにやって来た大輝はいつも通り食卓につく。料理に手をつけようとする大輝に、凍てつきそうな瞳を向けてやる。大人しく箸をおくのを見届けてから、
「さて。話していただきましょうか?」
「話って……話す事はないんだが」
煮え切らない。
「彼女は誰? 兄さんとどんな関係なわけ?」
答えない。大輝はあらぬ方を向き、時間が過ぎないかと願うばかりの顔をしている。
「三十歳前の癖に彼女の一人もいないと思って心配してあげてたのに――いいわ、本人に聞くから」
「ちょっと待て」
「待たないわよ、誰が待つもんですか」
パタパタとスリッパの音を響かせて、風呂へ向かう。
「お湯加減どう?」
脱衣所の戸を開けると、まだそこで彼女はたたずんでいた。阿佐美がタオルを肩に掛けてやったそのままで。
「ちょっと、早く入らないと本当に風邪引いちゃうわよ」
タイミングよくくしゃみ。
「ほら、早くお風呂入って。濡れた服はその辺置いといて――迷惑とか言わない。さっさとして」
彼女は言われるままにのろり動き始める。リビングに引き返した阿佐美は黙り込み、重い沈黙が満ちるリビングで彼女が現れるのを待った。
三.木村恵 キムラメグミ
ざぶり、思い切って肩まで使ったお湯が体温の無い体には熱い。急に流れはじめた血管はじんじん痛むような痒さを伝える。
私、何やってるんだろ。ばしゃりと顔にお湯を掛け、手足を伸ばす。寒さで縮こまっていた手足は真っ赤だ。
今日は朝から最悪だった。いつも見てるテレビ番組の占いコーナー結果は最下位。憂鬱な気分だったけれどそれで仕事を休むわけにもいかず、気にしてなければ当たりはしないと自分に言い聞かせた。けれど。なぜか今日に限って占いは良く当たった。仕事ではミスを連発し、やんわりと早退を言い渡された。帰りがけに派手に転び、その時財布を落としたらしい。携帯も電池切れで動かない。仕方なく歩いて帰ろうとしたものの、引っ越して間も無いこともあり、道に迷い、交番は見つからず、靴ずれが出来てまともに歩けなくなり、ようよう見つけた公園で途方にくれてブランコに座り込んだのだ。
「占いなんていつもは当たらないのにさ」
最悪の結果の日に限って的中しなくても良さそうなものだ。その上、見知らぬ男性の後をふらふらついて来てしまい風呂に入っている。どう考えたってあり得ない。
あの女性……奥さん、よね。そう思うと、恵は三十分前の自分を叱りつけたくなった。知らない人についていっちゃダメだってことは幼稚園児でも知っていることだ。彼女に何をどう説明すればいいのだろう。考えると気分は重い。
玄関を入ってすぐ、奥さんは冷たい瞳で男性を睨んでいた。恵のことを浮気相手だと勘違い――しないほうがおかしい。今日一日の説明をしたところで誰が信じると言うのだろう。
体が温まってくると自分の馬鹿さ加減に嫌気が差した。恥ずかしくて、穴があればもぐり込んで埋もれてしまいたい。が、いつまでも風呂に入っているわけにもいかない。迷惑を掛けた二人に頭を下げなければ人として問題だ。覚悟を決め、風呂から上がる。
用意されていたTシャツにジャージを着込む。少々小さいが、文句は言えない。脱衣場の扉を開ける音に気づいたのだろう。奥から先ほどの女性が顔を出す。
「ありがとうございました、すいません――」
勢いよく頭を下げた恵に、女性は優しい笑みを貼り付けた顔で、
「いえいえ、さ、こちらへどうぞ」
「あの、これ以上ご迷惑は――」
「いいえ」
有無を言わさない口調。その先には修羅場が待ち受けているのだとわかっていながらも、後には引けない。恵はあとに続く。通されたリビングでは先ほどの男性が着替え、困惑顔で座り込んでいた。平穏な家庭に要らぬ混乱をもたらしたのだ。三十分ほど前の自分には叱るだけでは済まない。落ち込み、自暴自棄になっていたのではあるが、そんな言い訳で通用するかと怒鳴りつけて――
「ここへどうぞ」
女性に言われ、恵は我に返って椅子に腰をおろす。椅子は四つあるが、普段は二つしか使っていない様子。準備されたダイニングテーブルの上に置かれた料理はまだ手がつけられていない。
「名前、名乗っていませんでしたね。私は藤田阿佐美です」
女性に言われ、恵は改まって頭を下げた。
「――木村恵です」
「そう。それで、恵さんはなんでびしょ濡れだったの?」
犯人の見当がついているとばかり、阿佐美さんは男性を睨みつける。非があるのはすべてこちらで、まったくこの男性とは関係ないというのに。
「あの、助けてもらったんです」
話を合わせてもらおうと男性の顔をちらりと見やる。男性は不思議そうな顔をしてこちらを見ている。仕方なく、今日朝からの出来事を話すことにした。聞いたところで信じてもらえるとは思えないけれど。
「――ということで、この方とは一切関係ないんです」
語り終った恵を阿佐美さんはきょとんとした顔で見つめ、
「……それだけ?」
問われる。それ以上も以下もない。恵は素直にうなづく。阿佐美さんは肩を震わせ――怒っているのだろうと思ったら、声をあげて笑い始めた。男性はそんな阿佐美さんを不思議そうな顔で見ているだけだ。
ただ一人、目に涙まで浮かべ爆笑しおわると、阿佐美さんは恵に料理を勧めた。恵は勧められるがまま、ずるずると食事を取り、食後のコーヒーになぜかデザートまでご馳走になった。
四.藤田大輝 フジタタイキ
「あの、本当にこの度はご迷惑をおかけしました」
食事が終わったところで彼女は深々と頭を下げる。妹は他所向けの仮面をかぶったままで、
「いえいえ、たいしたことなどしておりませんよ」
コーヒーにデザートを出してくる。いつもはこんなもの無いのに、いつ用意したのだろう。亡き母にしろ、我が家の女どもの外面の良さは不思議でならない。粗野で乱暴だとしか思えない妹だが、ご近所では優しく朗らか、親切で女性らしいと別人のような評価なのだから。
「お住まいはどちら?」
自然な流れの誘導尋問は続く。彼女、完全にはまりきり会話に不自然さを感じていない。
「まぁまぁ、じゃあそれほど遠くないわね」
妹は自然な動作で時計を見上げ、大げさに驚く。そして申し訳なさそうな顔。完璧な演技だ。だが、それは見慣れた人間にしか見抜けない。
「あらあら、遅くまで引き止めてごめんなさいね。荷物もあるから……兄さん、送って差し上げて」
「え?」
驚く彼女。自分も驚いたが、
「あ、あぁ、そりゃそうだ」
立ち上がる。不気味に光る妹の目が怖い。他人には親切そうな笑みを浮かべた表情にしか見えないらしいが、こういう顔をしているときは逆らわないに限る。
妹は手早く彼女の荷物をまとめ、僕に渡す。本人に持たせれば――と思ったが、持ってみれば濡れた衣服はずしりと重い。
「でも」
彼女の困惑に妹は勝ち誇った顔。
「その服はかまいませんよ、不要でしたら捨てて下さい」
サイズが合わないのだとほのめかす。が、あとで僕に請求してくるだろう。もしくは新品を買わされるか。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
彼女は不承不承に頷く。顔にはなんて良い女性なのだろうと書いてある。妹は彼女に踵の無いサンダルを貸した。
靴擦れがあるため、ひょこひょこ歩く彼女と傘を並ならべてゆっくり歩く。話すことも無いので黙って歩いていたが、公園が見えてくると彼女がくすりと笑った。
「何か?」
「いえ、本当に今日はテレビの――朝の占い通りだったなぁと思って」
「占い?」
「ご存知ありません? 『美咲の今日の天気』の後でやってる占い。私の今日の運勢は最悪。家の中でおとなしくしているのが吉。ただし、運命の出会いがあるかも~って」
「矛盾してますね」
「ですよね」
楽しそうな笑顔。
「藤田さんは何座ですか?」
「僕は魚座だったかな」
「あ、今日一番運勢良かったんですよ」
「そうなんですか?」
「そうそう。私、一番運勢悪かったから、一番良い運勢の人がね、ちょっと憎らしくて真剣に見てしまいましたから」
「へぇ」
「あの方、妹さんだったんですね」
「え?」
「最初、奥さんかなぁと思って、修羅場になるんじゃないかと不安だったんです」
「ハハハ……」
あれが妻だなんてどんなことがあろうと、ごめんこうむる。
「あ、雨上がりましたね」
彼女が空を見上げて嬉しそうにつぶやく。
「月が出てる」
雲間にのぞいた月は、金色で。金属でできていそうなほど硬い光。けれど重い雨雲はまた空を覆い隠す。また降り始めるかもしれない。住宅街特有の入り組んだ通りを抜け、大きな通りに出た。
「あ、ここまで来たらわかります。うちもすぐそこなんで――この度は本当に、本当にご迷惑をおかけしました」
勢いよく頭を下げる。
「いえ、こちらこそ――妹のやつがお節介で」
「いいえ、本当に助かりました」
彼女は首を振り、何度も礼を述べながら歩み去った。
歩いた道を引き返す。公園の前を通るのは今日は四度目だ。外灯の下に照らされているのは寂しい公園。ブランコには誰の姿もない。
「ただいま」
何事も無く家に帰り着く。
「おかえり~。恵さん、きちんと送ってきた?」
「あぁ」
「で?」
「でって?」
「チャンスでしょうが」
「チャンスって――」
「ま、いいわ」
なぜか笑顔。なんだか嫌な予感。
「荷物に兄さんの名刺、忍ばせといたから。向こうから連絡あるかもね」
「おいおい」
「連絡してきてくれますよーに」
星に祈るようなポーズ。
「あのな――」
「いい? 連絡あったらまずは食事に誘いなさいよ。今回のことを理由に会えば良いんだから」
あり得ないと否定する大輝の声を遮り、阿佐美は事細かに今後の行動予定をを語る。時間の無駄だと思いつつ、明日の朝飯の為に大輝は妹の台詞を復唱させられつつ、話を聞いた。
けれど翌日。大輝は知らない番号からの着信に不信に思いつつ通話ボタンを押した。携帯の向こうで、彼女が昨日と同じ詫びの文句を繰り返す。一晩眠ってすっかり元気を取り戻したのだろう、昨日よりも声が力強い。詫びたいという彼女にそんなことはしなくて良いと大輝は断る。
「あの、じゃあご夕食でもいかがです?」
「え?」
「もちろん妹さんもご一緒で――」
「いえ、妹は忙しいので」
教え込まれた台詞をまさか言う羽目になろうとは予測していなかった。妹はどこまで先を読んでいるのだろう。恐ろしい。
出会ってもうすぐ一年になる。
「たまには雨もいいですよね」
恵がそう言うと、街がなんだかいつもよりも優しく感じられる。雨に濡れて柔らかくなったというか。雨の街は見慣れているはずなのに、なぜか始めて見たような気がした。
終
『灰色の雨』をご覧いただきありがとうございました。
突発性競作企画第14弾 「in rain...」 に参加してます。
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