果て無き物語
お帰りなさいの意味を込め、男の額に口付ける。まずは、ここに口付けることにしている。
オリビアの目の前には穏やかな顔をして眠りについている男――いや、死体。体温をなくした肉体は奇妙に強張り、胸の上で組み合わされた手は紐で固定されている。担架で男を運んできた者達は洞窟から立ち去った。ここにいるのはオリビアと男だけ。
「あたしのこと、忘れてしまったのね」
鍾乳石からの水滴と、流れる水の音が洞窟内に反響している。囁きのようなオリビアの声は、近くにいても聞き取りにくい。
そっと男の髪に触れる。燃えるような赤い髪も、命の炎とともに輝きが失せたようだ。いとおしげに何度も髪を梳く。
対照的な肌の色。日に当たらないためもあるが、白を通り越し薄青いオリビア。触れているうち、男の髪の色が移らないかと願う。生気が無いとはいえ、良く日に焼けた男の肌は浅黒い。
無造作に束ねられたオリビアの髪が、するり、男の胸に落ちる。腰よりも長い髪は雪のような白。
「何もかも忘れていくのね」
鍾乳洞を利用した神殿はいつでも湿気ていて、少し息苦しい。頬を伝う涙は自分のものか、天井からの雫であるか、定かではない。
じっと男を見やる。いつまでも見ていたい衝動に駆られるが、肉が腐りだしてはまずい。男に苦痛を与えてしまう。肉は思わぬほど早く、中から腐っていくものだから。
オリビアは男の口元に唇を寄せる。自分と男との関係はまるで砂時計のようだ、とオリビアは思う。男が死ぬと自分は眠りから目覚め、男が生き返ればまた眠る。
そんな契約を結んだのはずいぶん昔。オリビアの祖父が賢者として名を馳せていた古い時代のこと。
「どんなに時が経とうと、世界は平和になんてならないのに」
男の唇を指でなぞる。
不死の魔王を討つため、男も不死となる必要があった。それには魔法のような時間制限のあるようなものではなく、人よりもはるかに長い時を生きる精霊との契約が必要だった。けれど、その頃すでに精霊は人の世界から姿を消していた。
そこで、稀代の賢者――オリビアの祖父は人造精霊を生み出す魔法を編みだした。オリビアを精霊として、この洞窟の奥にある巨大な魔法水晶に縛りつけた。魔法水晶を壊されぬ限り、オリビアは世界にあり続け、男を生かし続ける。それが契約。
精霊とはいえ、オリビアは人の手で作り出されたまがい物。だから、支障がでる。男は生き返るたび、記憶をなくしてゆく。男はなぜ自分が先頭に立って戦わねばならないか、その理由を覚えていないだろう。周囲はみな、男でなければこの争いを鎮められないと信じている。だから、記憶のない男を戦いへと赴かせるレールを敷く。何もわからない男は導かれるまま邁進する。男が死ねば、またレールを敷きなおすだけ。なんと愚かで憐れな存在だろう。
「それでもあなたは生き返りたい?」
男を生き返らせる為、オリビアは魔法水晶に縛られている。男が生き返ればそこに封じ込められ、男が死ねば魔法が解ける。
「あなたが救いたいと願った世界はもう無いのにね――」
くすりと漏らした笑みは自嘲。
「あなたと私が生きていた時代は過ぎ去ってしまったわ。あなたが愛した時代とは変わってしまっても、あなたはこの世界を救うの? ――無駄な質問だったわね」
そっと口付け、命の息吹を吹き込む。
止まっていた男の心臓が動き始め、頬も赤みを帯びてくる。洞窟の奥から、磁力のような力がオリビアを捕らえ始まる。
「あなたなんて大嫌い!」
男に聞こえるよう、精一杯の声量で叫ぶ。
男が笑った気がした。そんなはずはない、目の錯覚だと思いながらも、オリビアは安堵した顔で磁力に身を任せる。再び水晶へ沈み込み、夢のない眠りにつく。
訪ねてくるものがいない魔法水晶は輝きを潜めたまま、男が死ぬのを待ち続ける。
男はうっすら目を開ける。薄暗い洞窟。ぽたり、天井から降り注ぐ雫で全身濡れそぼっている。体は重く、まだ当分起き上がれそうもない。
もうしばらくすれば部下達が男を連れに来るだろう。男は哀しげに息を吐く。
「愚かな女だ」
また生かされたのだと失望する。魔法水晶に魂を縛られた彼女は知らない。世界が変容したことを。
不死の魔王はすでに人間の世界に興味を失い、あっさり手を引いて数百年が経つ。
平和を甘受できたのは、つかの間だった。人は平和の中に生きられない種族なのかもしれない。領土をめぐる争いが起こり、男は巻き込まれた。何十年も、何百年も続く争い。死なない英雄はいつしか魔王と呼ばれるようになった。
魔王と戦うため不死になったというのに、魔王が世界からいなくなると、今度は自分が魔王と呼ばれる――その事実に男は笑みを浮かべる。闇の気配を漂わせた笑みを。
「俺はもう、君の知っている男じゃないんだ――」
彼女は知らない。何も知らない。それが憎らしく、哀しい。男が魔王と呼ばれているように、穢《けが》 れのない、誰よりも澄んだ魂を持つ聖女が、魔女と呼ばれて久しい。
水晶越し、眠る彼女に何度語りかけただろう。気配には気づくようだが、男の声は届かない。何度、水晶を叩き割ってやろうと思ったことだろう。そんなこと、自分にはできないとわかっていても。
水晶を壊せば、そこを宿とするオリビアは消滅する。すでに肉体のない彼女は死ぬことができない。
「憐れな女だ」
女の眠る水晶は洞窟の奥深くにある。神殿と連なるこの辺りにはかがり火が焚かれ明るいが、その先には誰も立ち入らない。深い闇の底で女は何を思って眠っているのだろう。
ぽたり、水滴が降り、男の頬を濡らす。大粒の雫は涙のように男の頬をつたい落ちる。
終
『果て無き物語』をご覧いただきありがとうございました。
「キスから始まる物語」に参加しています
オリビアの目の前には穏やかな顔をして眠りについている男――いや、死体。体温をなくした肉体は奇妙に強張り、胸の上で組み合わされた手は紐で固定されている。担架で男を運んできた者達は洞窟から立ち去った。ここにいるのはオリビアと男だけ。
「あたしのこと、忘れてしまったのね」
鍾乳石からの水滴と、流れる水の音が洞窟内に反響している。囁きのようなオリビアの声は、近くにいても聞き取りにくい。
そっと男の髪に触れる。燃えるような赤い髪も、命の炎とともに輝きが失せたようだ。いとおしげに何度も髪を梳く。
対照的な肌の色。日に当たらないためもあるが、白を通り越し薄青いオリビア。触れているうち、男の髪の色が移らないかと願う。生気が無いとはいえ、良く日に焼けた男の肌は浅黒い。
無造作に束ねられたオリビアの髪が、するり、男の胸に落ちる。腰よりも長い髪は雪のような白。
「何もかも忘れていくのね」
鍾乳洞を利用した神殿はいつでも湿気ていて、少し息苦しい。頬を伝う涙は自分のものか、天井からの雫であるか、定かではない。
じっと男を見やる。いつまでも見ていたい衝動に駆られるが、肉が腐りだしてはまずい。男に苦痛を与えてしまう。肉は思わぬほど早く、中から腐っていくものだから。
オリビアは男の口元に唇を寄せる。自分と男との関係はまるで砂時計のようだ、とオリビアは思う。男が死ぬと自分は眠りから目覚め、男が生き返ればまた眠る。
そんな契約を結んだのはずいぶん昔。オリビアの祖父が賢者として名を馳せていた古い時代のこと。
「どんなに時が経とうと、世界は平和になんてならないのに」
男の唇を指でなぞる。
不死の魔王を討つため、男も不死となる必要があった。それには魔法のような時間制限のあるようなものではなく、人よりもはるかに長い時を生きる精霊との契約が必要だった。けれど、その頃すでに精霊は人の世界から姿を消していた。
そこで、稀代の賢者――オリビアの祖父は人造精霊を生み出す魔法を編みだした。オリビアを精霊として、この洞窟の奥にある巨大な魔法水晶に縛りつけた。魔法水晶を壊されぬ限り、オリビアは世界にあり続け、男を生かし続ける。それが契約。
精霊とはいえ、オリビアは人の手で作り出されたまがい物。だから、支障がでる。男は生き返るたび、記憶をなくしてゆく。男はなぜ自分が先頭に立って戦わねばならないか、その理由を覚えていないだろう。周囲はみな、男でなければこの争いを鎮められないと信じている。だから、記憶のない男を戦いへと赴かせるレールを敷く。何もわからない男は導かれるまま邁進する。男が死ねば、またレールを敷きなおすだけ。なんと愚かで憐れな存在だろう。
「それでもあなたは生き返りたい?」
男を生き返らせる為、オリビアは魔法水晶に縛られている。男が生き返ればそこに封じ込められ、男が死ねば魔法が解ける。
「あなたが救いたいと願った世界はもう無いのにね――」
くすりと漏らした笑みは自嘲。
「あなたと私が生きていた時代は過ぎ去ってしまったわ。あなたが愛した時代とは変わってしまっても、あなたはこの世界を救うの? ――無駄な質問だったわね」
そっと口付け、命の息吹を吹き込む。
止まっていた男の心臓が動き始め、頬も赤みを帯びてくる。洞窟の奥から、磁力のような力がオリビアを捕らえ始まる。
「あなたなんて大嫌い!」
男に聞こえるよう、精一杯の声量で叫ぶ。
男が笑った気がした。そんなはずはない、目の錯覚だと思いながらも、オリビアは安堵した顔で磁力に身を任せる。再び水晶へ沈み込み、夢のない眠りにつく。
訪ねてくるものがいない魔法水晶は輝きを潜めたまま、男が死ぬのを待ち続ける。
男はうっすら目を開ける。薄暗い洞窟。ぽたり、天井から降り注ぐ雫で全身濡れそぼっている。体は重く、まだ当分起き上がれそうもない。
もうしばらくすれば部下達が男を連れに来るだろう。男は哀しげに息を吐く。
「愚かな女だ」
また生かされたのだと失望する。魔法水晶に魂を縛られた彼女は知らない。世界が変容したことを。
不死の魔王はすでに人間の世界に興味を失い、あっさり手を引いて数百年が経つ。
平和を甘受できたのは、つかの間だった。人は平和の中に生きられない種族なのかもしれない。領土をめぐる争いが起こり、男は巻き込まれた。何十年も、何百年も続く争い。死なない英雄はいつしか魔王と呼ばれるようになった。
魔王と戦うため不死になったというのに、魔王が世界からいなくなると、今度は自分が魔王と呼ばれる――その事実に男は笑みを浮かべる。闇の気配を漂わせた笑みを。
「俺はもう、君の知っている男じゃないんだ――」
彼女は知らない。何も知らない。それが憎らしく、哀しい。男が魔王と呼ばれているように、穢《けが》 れのない、誰よりも澄んだ魂を持つ聖女が、魔女と呼ばれて久しい。
水晶越し、眠る彼女に何度語りかけただろう。気配には気づくようだが、男の声は届かない。何度、水晶を叩き割ってやろうと思ったことだろう。そんなこと、自分にはできないとわかっていても。
水晶を壊せば、そこを宿とするオリビアは消滅する。すでに肉体のない彼女は死ぬことができない。
「憐れな女だ」
女の眠る水晶は洞窟の奥深くにある。神殿と連なるこの辺りにはかがり火が焚かれ明るいが、その先には誰も立ち入らない。深い闇の底で女は何を思って眠っているのだろう。
ぽたり、水滴が降り、男の頬を濡らす。大粒の雫は涙のように男の頬をつたい落ちる。
終
『果て無き物語』をご覧いただきありがとうございました。
「キスから始まる物語」に参加しています
PR