夫婦
「――これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、死が二人を別つまで、共に歩み続けることを誓いますか」
「誓います」
チャペル形式の式をあげたのは三年前。僕たちは互いに仕事があり、子供はいないが、幸せな結婚生活を送っている。
共働きなのに妻は家事一切を引き受け、見事にこなす。朝から一汁三菜、手作り弁当、夜もきちんとした夕食。外食は月に数える程度。休みの日は掃除して、家計も徹底節約管理。主婦として完璧。鏡のような存在。できた女。いや、できすぎているというべきか。彼女の夫として、ごく普通の僕はいつしか息苦しくなっていたのかもしれない。
「ケンカでもしてるんですか?」
派遣社員の女の子に声をかけられたのは、仕事を片付けて帰ろうか、明日に回そうかと迷っていた時。
「ケンカ?」
「奥さんと。だって、この間からため息ばかり」
「そうかな?」
「そうですよ」
意味深に笑われる。濡れたような口紅、完璧な化粧。きついパーマと相まって、水商売の女のようだ。
「いつまでも新婚さんじゃいられませんよね」
よくわかっているとばかり頷く。年齢はまだ二十歳を越えたばかりのはずなのに。
「君はまだ結婚してないだろ?」
僕の言葉にまた笑う。娘らしい明るいものではなく、女の、魔性の笑み。
「付き合ってくれません?」
「どこに?」
彼女は再び微笑み、
「お酒。実はね、私、昨日振られちゃったんです」
「え?」
「だから、みんなでワイワイ呑みたい気分じゃないんです。でも、独りで呑むのも淋しくって」
頼み込むような上目遣い。戸惑う僕から目をそらし、重いため息一つ。
僕は断っていたはずだったが、言葉巧みに呑みに連れ出され、彼女に言われるまま呑み続け、気づいたら――なし崩し的に始まった関係だった。
地獄が幕を開けるのに、そう時間はかからなかった。結婚を迫る彼女と、彼女の存在に気づいた妻と、振り回される僕と。話し合いという名の睨み合い。別れ話という名の罵り合い。女同士の争いの日々。
けれど、突如それは終幕を迎えた。彼女が新しい恋をし、にこやかに歩み去っていったのだ。僕と妻のギスギスした関係だけ残して。
目覚まし代わりに声をかけてくれていた優しい妻の声は過去のこと。僕は携帯のアラームで目覚める。リビングのソファ。節々が痛い。
「おはよう」
「邪魔」
半年前までの彼女とは、まるで別人。テレビを見ながら、黙々とトーストをかじっている。
ダイニングテーブルを見やるが僕の朝食は用意されていない。半年前から彼女の朝は、パンと野菜ジュースとコーヒーだけ。和食の朝食は、僕に合わせてくれていたらしい。知らなかった。
トーストを焼いてマーガリンを塗る。コーヒーを用意して……角砂糖が見当たらない。
「シュガーは?」
「ブラック」
そうでした。ブラックで飲むんだよ、この女は。ため息一つついて、牛乳を入れる。会社帰りに買ってこよう。
「ただいま」
真っ暗な空間に僕の声だけが空しく消える。今日も妻は残業らしい。最近残業が多いが、愚痴っても仕方がない。
灯りのついていない家に帰るのは寂しい。妻は何時帰ってくるんだろうと考えながら、スーパーの袋を台所に下ろし、着替える。部屋着の上に、シンプルな妻のエプロンを付け、家事労働に勤《いそ》しむ。
今さらながら、半年前までの、妻の良妻ぶりに頭が下がる。あれの真似はとてもじゃないができない。一日働いて帰ってきて、疲れた体に鞭打って、帰ってくるはずの人間の事だけ考えて動き回る。そこにあるのは相手への愛《いつく》しみ。包み込むような愛情。当たり前だと思っていた日々は妻の努力で成り立っていたのだ。
手早くシーフードグラタンにトマトサラダ。コンソメスープを作る。食事を作るのにもずいぶん慣れた。僕の作った食事に口をつけはするものの、一向に反応のない妻の一挙手一投足を窺《うかが》っていて、洋食好きだと知った。妻の好みなど、あの出来事がなければ一生知ることはなかっただろう。そう思うと、あの出来事があって良かったような気もする。
以前は、妻が僕の好みに合わせて和食中心の献立だった。今は僕が妻の好みに合わせて洋食中心の献立を作る。
ダイニングテーブルに皿を並べる。ランチョンマットに白い食器。グラタンの白にトマトサラダの赤、コンソメスープの黄色が彩り鮮やか。
買ってきたミニバラをさりげなくコップに立てて、テーブルの真ん中に配置する。最近思い出したのだ。妻は季節の花を一厘、テーブルに飾っていたことを。
椅子に座り時計を見上げる。今日はいつもより遅い。先に食べようか、もう少し待っていようかと考えて、あと十分だけ待つことにする。
「ただいま」
義務だから仕方無しとばかりの声量。けれど、その小さな声を聞き取った僕は嬉しくなる。待っていて良かった。一緒にご飯が食べられる、と単純に。
「遅かったな」
リビングに顔を出した妻に声をかける。疲れきった様子の妻は不機嫌もあらわに、
「悪い?」
「そんなこと言ってないだろ?」
「あっそ」
そのまま部屋へ向かい、部屋着に着替えて現れる。ソファに座り、テレビをつけて、買ってきたらしき発泡酒をあおっている。
「夕食は?」
ダイニングテーブルに座った僕は、妻に声をかける。
「なぁ、今日はグラタンだぞ? お前、好きだろ? しかもシーフードグラタンだぞ?」
「食べてきたからいらない」
振り向きもしない。
「それなら連絡ぐらいしてくれよ」
「なんで?」
「何でって……」
口にしかけた言葉を飲み込んだ。今の妻の態度は、昔の僕の態度だ。僕に何を言う権利がある?
妻は目の前にいるのに、僕は不思議と孤独を感じる。寂しい。なぜ? 理由はわかっている。妻に夫婦をやる気がないからだ。僕一人、夫婦としてやっていこうと、から回りしている。やるせない。疎外感。
それならいっそ、別れてしまおうかと考える。この関係を清算して、赤の他人に戻る――それはエデンのリンゴのような、取り返しのつかない甘い誘惑。けれど、たかが浮気、たかがケンカの一つで、僕は妻と別れたくない。
独り寂しく飯を食べ、風呂に浸かる。唯一安らぐことのできる時間。ついつい風呂が長くなり、のぼせかけつつ湯から上がる。妻の入浴時間が長いと思っていたが、今になって気持ちがわかる。風呂だけだ、家の中で息がつけるのは。
リビングに戻ると、妻が携帯をいじっていた。珍しい。
「メールか?」
声をかければ、妻は慌てて携帯を隠す。そんなことしなくても画面を覗いたりしないのに。
「見た?」
「何を?」
グシグシと髪を拭きながら聞き返すと、曖昧な笑みを見せる。
「ならいいわ」
「風呂に入れよ。冷めるだろ?」
窺《うかが》うように僕の顔を見つめ――久々に妻に見つめられたものだから僕はどぎまぎし――妻はにこりと微笑む。久々に見る笑み。
「そうね、追い炊きは電気代かかるしね」
風呂へと向かう背を見つめる。さっきの妻の笑みは何だったんだろう。何かが引っかかったが僕はそのままソファに横になった。朝食を作るため、早めに起きなければいけないから。
翌朝。
「今日遅いから」
妻は言い置き、浮かれた顔をして家を出る。珍しい。残業があるとわかってる日でも、ここ半年、言って出て行ったことなんてないのに。
違和感が徐々に形をとりかけていた。まさか、と自分の考えを打ち消す。そんな事あるはずがない。妻がそんなこと、するわけ――できるはずがない。
けれど、彼女の化粧はいつもより気合が入っていた……服装も――思考がとまる。
「嘘だ」
自分の声だとは思えなかった。重苦しい、死を目前にした人間のような声。
(浮気だ)
誰かが脳内でささやく。否定する自分をすさまじい力で制圧し、声高に叫ぶ。
(浮気をしている!)
自分の時とまるで同じ状況。あの日、妻は仕事を休み、一日僕の後をつけていた。そして、彼女の姿を認めた瞬間、突然目の前に飛び出してきて、彼女を殴りつけた。
「夫と何をしているの」
行動に比べ静かな、暗い声だった。殴られた彼女は驚きが去った後、悲鳴と怒声と混乱した感情のまま声を上げる。妻はそれを完全に無視し、僕を見つめていた。じっと、何かを待つように。
僕は何と答えてよいのかわからず、妻の視線から目をそらすこともできず、ただ立ち尽くす。妻の目から大粒の涙。高ぶった感情が堰《せき》を切ったように止め処なく流れる、綺麗な涙。それをぬぐいもせず、僕を見つめる。
そんな瞳に晒《さら》された僕は、妻にどう謝罪し、どうすれば妻を慰められるか考えていた。痛いと声を荒げ、妻を罵倒する言葉を喚《わめ》き散らす彼女のことなんて気にならなかった。
僕と妻は夫婦なのだ。その時、初めてわかった。夫婦はただ一緒に暮らしていれば良いわけじゃない。互いに夫婦であろうと努力しなければならない。それを放棄していた僕。努力していた妻。僕たちは夫婦だけれど、本物の夫婦ではなかったのだ。あの日まで。
やっとわかったというのに。僕が気づいたというのに、今度は妻がそれを放棄した。妻が憎いでも、恨めしいでも、腹立たしいでもない。ただ、やるせない。だから、確かめたい。
どこか遠くで、休暇願いを届けている僕の声が聞こえた。手には携帯。妻の体を気遣い、休みが欲しいと無理を言う。妻の体調がとても悪いと。もう一度用件を告げ、相手の制止の声を遠くに聞きつつ電源を切る。
玄関から飛び出し、妻の後をつける。会社に行くのであれば、乗る電車も、降りる駅も、会社の場所もわかっている。妻の姿が見えなくとも大丈夫だと自分に言い聞かせる。だが、足は自然速くなる。
駅に着く。妻の姿はいつもと違うホームにある。急いでそこへ向かう。近づきすぎないよう慎重に。見失わないよう注意して。
会社に行くと言っていたはずなのに、妻が降りたのは会社のある駅ではなかった。駅ビルに入り、時間をつぶすかのようにふらつく。映画館へ入って行くので、そのまま後に続く。妻の斜め後ろの席を陣取った。
妻の頭越しに、見るとも無く見ていた映画にデジャビュを覚えた。あぁ、これは妻と結婚する前、デートの時に見た映画の一つだ。
思えば、結婚前は二人でよく出かけていた。映画だ、ボーリングだ、カラオケだと。結婚してからは仕事の忙しさを言い訳に、週末はごろごろしていただけだ。
妻が何度か出かけようと誘ってくれたが、僕は適当に相槌を返すばかりだった。仕事で疲れてる。陳腐なくだらない言い訳だ。妻は仕事に家事にと僕より疲れていたはずなのに。
二時間半ほどの映画が終わると、昼食時。妻が向かったのは古びた食堂。懐かしい。結婚前はよく訪ねたものだ。中は二十席程の狭い店内。後を追って店内に入れば、僕の尾行が妻にばれる。だが、中で逢引をしているかもしれない。ジレンマ。入ろうか、どうしようか迷っていると、引き戸が開き、妻が顔を出した。
「あなた」
呼びかけられて、とっさに姿を隠そうとしたが、
「あなた、いまさら隠れようとしても無駄よ。それにしても後をつけるの下手ねぇ。あなた絶対探偵にはなれないわ」
「何だよ」
「あなた、昼食食べないの?」
「食べるさ」
「じゃあ、ほら、早く」
促されて店に入る。あの頃と変わらない。懐かしくなる。プロポーズしたのはこの店だった気がする。公園で――と思っていたのに雨が降り出し、結局、ここで彼女に指輪を送ったのだ。
「何か聞きたそうな顔してるわね?」
そりゃそうだ。聞きたいことはいくらでもある。こほん、と一つセキをして、慎重に言葉を選ぶ。
「お、男に会う気なのか?」
「ええ」
「お前。浮気、してるのか?」
「してないわよ」
「じゃぁ」
「会いたい人は私の目の前に座っているわ」
何を言っているのかわからなかった。机には僕と妻しか座っておらず――妻はおかしそうな顔をして、
「鏡見て来たら? 私の好きな人の顔が映ってるから」
「……な、なんで? お前浮気は?」
言葉が空回りする。人生の中でこれほど動揺したことはない。嬉しい、いや腹立たしい、いや違う。何だよ、何でこんなこと。
「浮気なんてしてないわよ、あなたじゃあるまいし」
ぐさりと胸に突き刺さる台詞。悪かった、ごめんなさい、もう二度としません、何度頭を下げたか覚えてない。戸惑う僕を見つめる妻は、優しい笑顔。
「ねぇ、あなた。誓いの言葉って覚えてる?」
妻の口からスルリと流れる、呪文のようなあの文句。病める時も、健やかなる時も……。
「だから、あのことは許してあげる。でもね、」
顔が変わる。目の奥に暗い光。
「あなた、私のこと何だと思ってた?」
小間使いか家政婦くらいにしか思ってなかったでしょ、と容赦ない言葉が続く。
「すまん、でもそれならそうと一言言ってくれれば――」
「聞く耳持ってる感じじゃなかったじゃない。私を妻だと思っているなんて、まったく感じられない姿勢だったし」
耳が痛い。確かに最近の妻の態度を見ていて、僕も同じ様に感じていた。夫婦なのに、一人相撲をしているような、僕一人、夫婦ごっこをしているような虚しさ。
「お義母さんにね、言われたの。『あんた、あの子を甘やかし過ぎてるわ。少し放っとき。そしたら、構って欲しくて良い子になるから』って」
お袋に声色を似せる。大げさな節のつけ方がよく似てる。
「でもね、そんなことできなくて。どうしようか戸惑ってたときにあなた、あんなことして。だから――」
ここ半年の態度はそういう意味があったのか。ただ、浮気に腹を立ててただけじゃなかったのか。ちょっと安心。
「そうそう。料理してるときのあなたの背中、とっても素敵だったわよ」
ついでのように妻は言い、
「じゃーん」
携帯の待ち受け。エプロン姿の男の背中――つまり僕。いつの間に撮ったんだろう。言ってくれればポーズを決めるのに、ただの背中だなんて趣味が悪い。
照れくさくなって店内を見渡す。あの頃と同じ変わらない風景。
金目鯛の煮付け定食が僕と妻の前に並ぶ。先に注文していたらしい。
「あなた、これ好きでしょ? 私が作るのより」
「そんなこと――」
言いつつ、僕も箸を手に取り、一口。旨い。
「ほら、おいしそうな顔をして――」
くすくすと幸せそうな顔。妻と結婚して良かったとつくづく思う。
「あら、」
「ん?」
「涙」
「……ゴミが入っただけだよ」
ずいぶん回り道はしたけれど、僕と妻はやっと夫婦になれた気がした。
終
『夫婦』をご覧いただきありがとうございました。
突発性競作企画 第16弾『Dripping of tears』に参加してます。
「誓います」
チャペル形式の式をあげたのは三年前。僕たちは互いに仕事があり、子供はいないが、幸せな結婚生活を送っている。
共働きなのに妻は家事一切を引き受け、見事にこなす。朝から一汁三菜、手作り弁当、夜もきちんとした夕食。外食は月に数える程度。休みの日は掃除して、家計も徹底節約管理。主婦として完璧。鏡のような存在。できた女。いや、できすぎているというべきか。彼女の夫として、ごく普通の僕はいつしか息苦しくなっていたのかもしれない。
「ケンカでもしてるんですか?」
派遣社員の女の子に声をかけられたのは、仕事を片付けて帰ろうか、明日に回そうかと迷っていた時。
「ケンカ?」
「奥さんと。だって、この間からため息ばかり」
「そうかな?」
「そうですよ」
意味深に笑われる。濡れたような口紅、完璧な化粧。きついパーマと相まって、水商売の女のようだ。
「いつまでも新婚さんじゃいられませんよね」
よくわかっているとばかり頷く。年齢はまだ二十歳を越えたばかりのはずなのに。
「君はまだ結婚してないだろ?」
僕の言葉にまた笑う。娘らしい明るいものではなく、女の、魔性の笑み。
「付き合ってくれません?」
「どこに?」
彼女は再び微笑み、
「お酒。実はね、私、昨日振られちゃったんです」
「え?」
「だから、みんなでワイワイ呑みたい気分じゃないんです。でも、独りで呑むのも淋しくって」
頼み込むような上目遣い。戸惑う僕から目をそらし、重いため息一つ。
僕は断っていたはずだったが、言葉巧みに呑みに連れ出され、彼女に言われるまま呑み続け、気づいたら――なし崩し的に始まった関係だった。
地獄が幕を開けるのに、そう時間はかからなかった。結婚を迫る彼女と、彼女の存在に気づいた妻と、振り回される僕と。話し合いという名の睨み合い。別れ話という名の罵り合い。女同士の争いの日々。
けれど、突如それは終幕を迎えた。彼女が新しい恋をし、にこやかに歩み去っていったのだ。僕と妻のギスギスした関係だけ残して。
目覚まし代わりに声をかけてくれていた優しい妻の声は過去のこと。僕は携帯のアラームで目覚める。リビングのソファ。節々が痛い。
「おはよう」
「邪魔」
半年前までの彼女とは、まるで別人。テレビを見ながら、黙々とトーストをかじっている。
ダイニングテーブルを見やるが僕の朝食は用意されていない。半年前から彼女の朝は、パンと野菜ジュースとコーヒーだけ。和食の朝食は、僕に合わせてくれていたらしい。知らなかった。
トーストを焼いてマーガリンを塗る。コーヒーを用意して……角砂糖が見当たらない。
「シュガーは?」
「ブラック」
そうでした。ブラックで飲むんだよ、この女は。ため息一つついて、牛乳を入れる。会社帰りに買ってこよう。
「ただいま」
真っ暗な空間に僕の声だけが空しく消える。今日も妻は残業らしい。最近残業が多いが、愚痴っても仕方がない。
灯りのついていない家に帰るのは寂しい。妻は何時帰ってくるんだろうと考えながら、スーパーの袋を台所に下ろし、着替える。部屋着の上に、シンプルな妻のエプロンを付け、家事労働に勤《いそ》しむ。
今さらながら、半年前までの、妻の良妻ぶりに頭が下がる。あれの真似はとてもじゃないができない。一日働いて帰ってきて、疲れた体に鞭打って、帰ってくるはずの人間の事だけ考えて動き回る。そこにあるのは相手への愛《いつく》しみ。包み込むような愛情。当たり前だと思っていた日々は妻の努力で成り立っていたのだ。
手早くシーフードグラタンにトマトサラダ。コンソメスープを作る。食事を作るのにもずいぶん慣れた。僕の作った食事に口をつけはするものの、一向に反応のない妻の一挙手一投足を窺《うかが》っていて、洋食好きだと知った。妻の好みなど、あの出来事がなければ一生知ることはなかっただろう。そう思うと、あの出来事があって良かったような気もする。
以前は、妻が僕の好みに合わせて和食中心の献立だった。今は僕が妻の好みに合わせて洋食中心の献立を作る。
ダイニングテーブルに皿を並べる。ランチョンマットに白い食器。グラタンの白にトマトサラダの赤、コンソメスープの黄色が彩り鮮やか。
買ってきたミニバラをさりげなくコップに立てて、テーブルの真ん中に配置する。最近思い出したのだ。妻は季節の花を一厘、テーブルに飾っていたことを。
椅子に座り時計を見上げる。今日はいつもより遅い。先に食べようか、もう少し待っていようかと考えて、あと十分だけ待つことにする。
「ただいま」
義務だから仕方無しとばかりの声量。けれど、その小さな声を聞き取った僕は嬉しくなる。待っていて良かった。一緒にご飯が食べられる、と単純に。
「遅かったな」
リビングに顔を出した妻に声をかける。疲れきった様子の妻は不機嫌もあらわに、
「悪い?」
「そんなこと言ってないだろ?」
「あっそ」
そのまま部屋へ向かい、部屋着に着替えて現れる。ソファに座り、テレビをつけて、買ってきたらしき発泡酒をあおっている。
「夕食は?」
ダイニングテーブルに座った僕は、妻に声をかける。
「なぁ、今日はグラタンだぞ? お前、好きだろ? しかもシーフードグラタンだぞ?」
「食べてきたからいらない」
振り向きもしない。
「それなら連絡ぐらいしてくれよ」
「なんで?」
「何でって……」
口にしかけた言葉を飲み込んだ。今の妻の態度は、昔の僕の態度だ。僕に何を言う権利がある?
妻は目の前にいるのに、僕は不思議と孤独を感じる。寂しい。なぜ? 理由はわかっている。妻に夫婦をやる気がないからだ。僕一人、夫婦としてやっていこうと、から回りしている。やるせない。疎外感。
それならいっそ、別れてしまおうかと考える。この関係を清算して、赤の他人に戻る――それはエデンのリンゴのような、取り返しのつかない甘い誘惑。けれど、たかが浮気、たかがケンカの一つで、僕は妻と別れたくない。
独り寂しく飯を食べ、風呂に浸かる。唯一安らぐことのできる時間。ついつい風呂が長くなり、のぼせかけつつ湯から上がる。妻の入浴時間が長いと思っていたが、今になって気持ちがわかる。風呂だけだ、家の中で息がつけるのは。
リビングに戻ると、妻が携帯をいじっていた。珍しい。
「メールか?」
声をかければ、妻は慌てて携帯を隠す。そんなことしなくても画面を覗いたりしないのに。
「見た?」
「何を?」
グシグシと髪を拭きながら聞き返すと、曖昧な笑みを見せる。
「ならいいわ」
「風呂に入れよ。冷めるだろ?」
窺《うかが》うように僕の顔を見つめ――久々に妻に見つめられたものだから僕はどぎまぎし――妻はにこりと微笑む。久々に見る笑み。
「そうね、追い炊きは電気代かかるしね」
風呂へと向かう背を見つめる。さっきの妻の笑みは何だったんだろう。何かが引っかかったが僕はそのままソファに横になった。朝食を作るため、早めに起きなければいけないから。
翌朝。
「今日遅いから」
妻は言い置き、浮かれた顔をして家を出る。珍しい。残業があるとわかってる日でも、ここ半年、言って出て行ったことなんてないのに。
違和感が徐々に形をとりかけていた。まさか、と自分の考えを打ち消す。そんな事あるはずがない。妻がそんなこと、するわけ――できるはずがない。
けれど、彼女の化粧はいつもより気合が入っていた……服装も――思考がとまる。
「嘘だ」
自分の声だとは思えなかった。重苦しい、死を目前にした人間のような声。
(浮気だ)
誰かが脳内でささやく。否定する自分をすさまじい力で制圧し、声高に叫ぶ。
(浮気をしている!)
自分の時とまるで同じ状況。あの日、妻は仕事を休み、一日僕の後をつけていた。そして、彼女の姿を認めた瞬間、突然目の前に飛び出してきて、彼女を殴りつけた。
「夫と何をしているの」
行動に比べ静かな、暗い声だった。殴られた彼女は驚きが去った後、悲鳴と怒声と混乱した感情のまま声を上げる。妻はそれを完全に無視し、僕を見つめていた。じっと、何かを待つように。
僕は何と答えてよいのかわからず、妻の視線から目をそらすこともできず、ただ立ち尽くす。妻の目から大粒の涙。高ぶった感情が堰《せき》を切ったように止め処なく流れる、綺麗な涙。それをぬぐいもせず、僕を見つめる。
そんな瞳に晒《さら》された僕は、妻にどう謝罪し、どうすれば妻を慰められるか考えていた。痛いと声を荒げ、妻を罵倒する言葉を喚《わめ》き散らす彼女のことなんて気にならなかった。
僕と妻は夫婦なのだ。その時、初めてわかった。夫婦はただ一緒に暮らしていれば良いわけじゃない。互いに夫婦であろうと努力しなければならない。それを放棄していた僕。努力していた妻。僕たちは夫婦だけれど、本物の夫婦ではなかったのだ。あの日まで。
やっとわかったというのに。僕が気づいたというのに、今度は妻がそれを放棄した。妻が憎いでも、恨めしいでも、腹立たしいでもない。ただ、やるせない。だから、確かめたい。
どこか遠くで、休暇願いを届けている僕の声が聞こえた。手には携帯。妻の体を気遣い、休みが欲しいと無理を言う。妻の体調がとても悪いと。もう一度用件を告げ、相手の制止の声を遠くに聞きつつ電源を切る。
玄関から飛び出し、妻の後をつける。会社に行くのであれば、乗る電車も、降りる駅も、会社の場所もわかっている。妻の姿が見えなくとも大丈夫だと自分に言い聞かせる。だが、足は自然速くなる。
駅に着く。妻の姿はいつもと違うホームにある。急いでそこへ向かう。近づきすぎないよう慎重に。見失わないよう注意して。
会社に行くと言っていたはずなのに、妻が降りたのは会社のある駅ではなかった。駅ビルに入り、時間をつぶすかのようにふらつく。映画館へ入って行くので、そのまま後に続く。妻の斜め後ろの席を陣取った。
妻の頭越しに、見るとも無く見ていた映画にデジャビュを覚えた。あぁ、これは妻と結婚する前、デートの時に見た映画の一つだ。
思えば、結婚前は二人でよく出かけていた。映画だ、ボーリングだ、カラオケだと。結婚してからは仕事の忙しさを言い訳に、週末はごろごろしていただけだ。
妻が何度か出かけようと誘ってくれたが、僕は適当に相槌を返すばかりだった。仕事で疲れてる。陳腐なくだらない言い訳だ。妻は仕事に家事にと僕より疲れていたはずなのに。
二時間半ほどの映画が終わると、昼食時。妻が向かったのは古びた食堂。懐かしい。結婚前はよく訪ねたものだ。中は二十席程の狭い店内。後を追って店内に入れば、僕の尾行が妻にばれる。だが、中で逢引をしているかもしれない。ジレンマ。入ろうか、どうしようか迷っていると、引き戸が開き、妻が顔を出した。
「あなた」
呼びかけられて、とっさに姿を隠そうとしたが、
「あなた、いまさら隠れようとしても無駄よ。それにしても後をつけるの下手ねぇ。あなた絶対探偵にはなれないわ」
「何だよ」
「あなた、昼食食べないの?」
「食べるさ」
「じゃあ、ほら、早く」
促されて店に入る。あの頃と変わらない。懐かしくなる。プロポーズしたのはこの店だった気がする。公園で――と思っていたのに雨が降り出し、結局、ここで彼女に指輪を送ったのだ。
「何か聞きたそうな顔してるわね?」
そりゃそうだ。聞きたいことはいくらでもある。こほん、と一つセキをして、慎重に言葉を選ぶ。
「お、男に会う気なのか?」
「ええ」
「お前。浮気、してるのか?」
「してないわよ」
「じゃぁ」
「会いたい人は私の目の前に座っているわ」
何を言っているのかわからなかった。机には僕と妻しか座っておらず――妻はおかしそうな顔をして、
「鏡見て来たら? 私の好きな人の顔が映ってるから」
「……な、なんで? お前浮気は?」
言葉が空回りする。人生の中でこれほど動揺したことはない。嬉しい、いや腹立たしい、いや違う。何だよ、何でこんなこと。
「浮気なんてしてないわよ、あなたじゃあるまいし」
ぐさりと胸に突き刺さる台詞。悪かった、ごめんなさい、もう二度としません、何度頭を下げたか覚えてない。戸惑う僕を見つめる妻は、優しい笑顔。
「ねぇ、あなた。誓いの言葉って覚えてる?」
妻の口からスルリと流れる、呪文のようなあの文句。病める時も、健やかなる時も……。
「だから、あのことは許してあげる。でもね、」
顔が変わる。目の奥に暗い光。
「あなた、私のこと何だと思ってた?」
小間使いか家政婦くらいにしか思ってなかったでしょ、と容赦ない言葉が続く。
「すまん、でもそれならそうと一言言ってくれれば――」
「聞く耳持ってる感じじゃなかったじゃない。私を妻だと思っているなんて、まったく感じられない姿勢だったし」
耳が痛い。確かに最近の妻の態度を見ていて、僕も同じ様に感じていた。夫婦なのに、一人相撲をしているような、僕一人、夫婦ごっこをしているような虚しさ。
「お義母さんにね、言われたの。『あんた、あの子を甘やかし過ぎてるわ。少し放っとき。そしたら、構って欲しくて良い子になるから』って」
お袋に声色を似せる。大げさな節のつけ方がよく似てる。
「でもね、そんなことできなくて。どうしようか戸惑ってたときにあなた、あんなことして。だから――」
ここ半年の態度はそういう意味があったのか。ただ、浮気に腹を立ててただけじゃなかったのか。ちょっと安心。
「そうそう。料理してるときのあなたの背中、とっても素敵だったわよ」
ついでのように妻は言い、
「じゃーん」
携帯の待ち受け。エプロン姿の男の背中――つまり僕。いつの間に撮ったんだろう。言ってくれればポーズを決めるのに、ただの背中だなんて趣味が悪い。
照れくさくなって店内を見渡す。あの頃と同じ変わらない風景。
金目鯛の煮付け定食が僕と妻の前に並ぶ。先に注文していたらしい。
「あなた、これ好きでしょ? 私が作るのより」
「そんなこと――」
言いつつ、僕も箸を手に取り、一口。旨い。
「ほら、おいしそうな顔をして――」
くすくすと幸せそうな顔。妻と結婚して良かったとつくづく思う。
「あら、」
「ん?」
「涙」
「……ゴミが入っただけだよ」
ずいぶん回り道はしたけれど、僕と妻はやっと夫婦になれた気がした。
終
『夫婦』をご覧いただきありがとうございました。
突発性競作企画 第16弾『Dripping of tears』に参加してます。
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