紙飛行機
水色の紙飛行機が宙に舞い、暗い海へ落ちていく。灰色の混ざった空。分厚い雲をかき混ぜるように強い風。転落防止の鉄柵に寄りかかった愛《あい》は、バッグから取り出した紙飛行機を一つづつ空へ投げる。
弧を描くもの、直角に落ちるもの様々に、崖の下へ向かい落ちていく。水面へと向かい飛んでいく。それはまるで散る花のよう。それとも、旅立つ魂――
「ごめんね、いっちゃん」
考えるのを止め、愛はつぶやく。決別の言葉は自分の為。これで終わり。終わらせなければ。
恋人の勇《いさむ》は筆まめだったから、手紙はたくさんあった。読み返しながら、泣きながら、丁寧に折った。愛を幸せな気持ちにしてくれた便箋は、全て海へと飲み込まれた。
いっちゃんの事忘れないといけないないの、私。幸せな日々が走馬灯のようによみがえりかけ、愛はそれを否定する。彼なんて、最初から存在しなかった。そう思わなければいけない。だって、そうしないと私、生きていけないから。勇が死んで、一年過ぎたのに、ちっとも悲しみがいえないから。
「バイバイ」
身をひるがえし、愛は歩き出す。あふれる涙はそのままに、唇をかみ締め、前を見つめて。
半年後――
愛が三歳年上の友人、江梨子《えりこ》に突然呼び出されたのは喫茶店。話がある、とだけ言われてきたのに、一向に話は切り出されたない。運ばれてきたケーキに舌鼓を打ちつつ、世間話に花を咲かせる。会話の途切れた瞬間、狙っていたかのようなタイミングで江梨子は結婚を告げた。
「お、おめでとう」
掛ける言葉を見つけられず、愛は戸惑い気味に声を出す。呑みかけていた紅茶をテーブルに置き直し、向かいに座る江梨子に改めて祝福の言葉を告げる。
「ありがと」
江梨子は幸せそうに微笑み、ケーキにフォークを突き刺す。
「でも、どうして?」
愛が驚くのも無理はない。江梨子はついこの前まで喪に服していたはずなのに。勇――江梨子の双子の片割れ、愛の恋人だった彼の突然の不幸の為に。
「できちゃった結婚」
江梨子はあっけらかんと言い放ち、ケーキの上に載っているチェリーを口に放り込む。
「な、なんで?」
信じられない。勇の死に嘆いていたのはついこの間。同じ悲しみを共有していたはずだったのに。愛は釈然としない。まるで、自分ひとりだけ置いていかれた気分。
「私もわかんないんだけど、なんとなく、そんな感じになったっていうか」
要領を得ない。
「何ヶ月なの?」
「七ヶ月」
「え? もうそんななの?」
ワンピース姿の江梨子。ゆったりしたデザインなのだが、お腹は驚くほど目だっていない。
「うち、目立たない家系なんだって」
まじまじとお腹を見やり、視線をはずす。幸せそうな江梨子の顔に、なぜか、心臓に杭を打たれた気がしつつ、愛は微笑を浮かべる。
「――そう。もうすぐじゃない」
「そう、もうすぐなの」
そんな会話を交し合ったのが約三ヶ月前。江梨子は予定日より十日早く出産した。病院へ、江梨子の両親と共に駆けつけた愛は、江梨子の枕元に眠る赤ちゃんを見る。
「かわいいわね」
愛は病院に来ようだなんて思っていなかったのに、江梨子の両親に強引につれて来られたのだ。江梨子に頼まれたから、と。
両家の両親たちが、爺婆一年生の顔で赤ん坊を見つめている。その部屋の中で浮いていると感じているのは愛本人だけじゃないはず。
「あのさ、江梨子」
申し訳なく、声を上げる。これ以上、この場に居続けるのは辛い。早めに引き上げさせてもらいたい。
「私、悪いんだけれど用事があるから――」
「そうなの? ごめんね。この子が目を開けた時、愛が居たほうがいいと思ったんだけど」
「どうして?」
江梨子はみんなが赤ん坊に気を取られていることを確認し、愛に耳打ちする。
「勇の生まれ変わりだから」
恐る恐る愛は赤ん坊を見やる。面影はあまりない。姉弟だから、勇に似ている部分はちょっとくらいあるのかもしれない。まだ、わかりにくいだけで。でも。
「そんなこと――」
「この子を身篭ってから、何度も勇が夢の中に出てきたの。愛に会いたいって」
ぎゅっと心臓を鷲づかみにされる。苦しくて、嬉しくて、悲しくて。会えるものならば会いたい。それは愛も同じ。でも、勇は死んだのだ。
「生まれ変わりなんて、私、信じない」
傷ついた顔をしたのは江梨子だった。その顔を映すように、愛も表情を曇らせ、足早に立ち去る。泣き暮らしていた日々には別れを告げた。勇のことなんて忘れてしまったはずだった。なのに、涙がこみ上げてきた。
連絡を取らないようにして数年が過ぎた。けれど、年賀状は毎年届く。和輝《かずき》と命名された赤ん坊は、幸せそうに写真におさまっている。一年、二年、数年で大きくなった。楽しそうに、子供らしい姿でたたずんでいる幼児に勇の面影を見つける。すると、江梨子の言葉を思い出し、彼の中に無理やり、勇を探し出しているようで申し訳なくなる。
「生まれ変わりなんて、あるわけない」
あるわけないのだ。だから、会わないようにしている必要なんてない。必要なんてないのだけれど、会ってはいけないような気がする。
けれど、時間が流れ、昨日がこの前、過去が昔になり、愛の家の近くへ江梨子一家が引越してきたこともあり、以前と同じ付き合いをするようになった。
「愛ちゃんだ!」
玄関の戸を開けた途端、輝く笑顔で飛びついてきたのは和輝。今年で五歳になるはずだ。人見知りするという江梨子の話だったが、和輝はすぐ愛に懐いた。
スリッパを鳴らしながら奥から現れた江梨子夫婦が、急いで靴を履く。和輝の頭を乱暴に撫で回し、頬をつねりつつ、
「良かったわね、カズ。愛と一緒ならお留守番、できるわよね」
大きくうなづく和輝。
「じゃ、愛。悪いんだけど後、お願いね。晩御飯まだだけど、お好み焼き。後、焼くだけだから」
待たせているタクシーへ向かう。入院している義父の様子が思わしくないらしい。このところ急に病院へ呼び出されることが多くなった。いつ家に帰れるかわからない病院に子供を連れて行くわけにもいかないのだろう。愛はその都度、和輝の子守を頼まれていた。
キッチンテーブルにはホットプレートとお好み焼きの種。手を洗い、食器を用意する。
「僕、愛ちゃんのお好み焼き、好き」
「そう?」
「ふっくらしてるもん」
「お世辞がうまいなぁ、カズ君は。私、焼いてるだけだよ?」
「僕、大きくなったら愛ちゃんのお嫁さんになるよ」
子供らしい言葉。愛は微笑みながら、お好み焼きを焼き上げる。
「愛ちゃんは食べないの?」
「もう食べてきたからね」
「なに食べたの?」
「ご馳走」
「ごちそう? オムライス?」
「そうそう、そんな感じ」
愛は笑いながら答える。フルコース料理を食べていたなんて、説明したって理解できないだろうから。
「一人で?」
言葉に詰まる。
「カズ君の知らない人と」
「誰? 友達?」
「……みたいな人」
母親に似て追求の手が厳しい。子供だからと適当に相手ができない。覚悟を決めて、
「結婚――するかもしれない人と」
ガシャンと食器がひっくり返る。
「何するの!?」
「愛ちゃんは僕と結婚するんでしょ!?」
感情のまま叫び、泣き始める。愛は和輝を抱きしめて、
「カズ君がもっと大きくなったら、カズ君、私よりもっともっと大好きで、大切な人ができるよ」
「愛ちゃんの嘘つき!」
突き飛ばされる。食器棚の角で頭を打つが、愛はその痛みよりも和輝を捕まえなければならない気持ちで後を追いかける。手を伸ばすが、するりと腕を抜け、和輝は寝室へと駆け込んでいく。
部屋のドアは硬く閉じられている。鍵はかからないはずだから、きっと精一杯もたれかかっているのだろう。無理すれば部屋の中に入れるだろうが、それでは意味がない。ドア越し、静かに語りかける。
「カズ君、ねぇ、お話しよ?」
「愛ちゃんの嘘つき」
同じ言葉を繰り返す。何度も何度も繰り返し、やがて疲れてしまったのだろう。声は静かになる。そっと扉を開けて、部屋の中に入る。微笑みながら、和輝を抱きかかえ、ベットへ運ぶ。布団を掛け、眉間にしわの寄った和輝の額をそっとなでる。
「生まれ変わりなんてないわ」
そっとつぶやき、安らかな顔になるまで、和輝の頭をなでる。後片付けをしなければと思いつつ、眠気に誘われる。幸せそうな顔で眠る和輝のそばで、愛は眠りについた。
まぶしい光がまぶたを照らす。
「愛ちゃん」
男性の声。懐かしい、勇の声。
「いっちゃん?」
まぶたは重い。もう少し寝かせて欲しくて寝返りを打つ。
「起きて、愛ちゃん」
布団の中で伸びをしつつ、愛は声の方向へ顔を向ける。ゆっくり目を開ける。
「誰?」
「愛ちゃん、俺のこと忘れちゃった?」
声は、勇とよく似ている。顔は――ちょっと違う。似てるけれど。まるで病院のような白い部屋。どこかから消毒液の匂いも漂ってくる。
「あなた、誰?」
「僕だよ、和輝」
和輝なんて名前の知り合い、カズ君しか知らない。戸惑う愛に和輝の後ろに控えていた女性が愛の元へと歩み寄る。
「愛、良かった」
中年の女性。江梨子に似た――いや、江梨子だ。愛はじっと江梨子の顔を見つめる。昨日までと別人のように年を取ってしまっているが、江梨子だ。間違いじゃない。江梨子を見間違えるはずがない。でも、どうして?
「良かった。目が覚めて」
「私――カズ君を寝かしつけてて……?」
「そう。あなたはカズを寝かしつけてて、一緒に眠っちゃったの――ちょっと長い時間」
江梨子は年老いても変わらないしゃべり方。
「朝になっても目覚めないから心配してたら、和輝は自分が突き飛ばしたからだって大泣きし始めるし、それにしちゃ、ちょっと妙な眠り方だから――病院で精密検査したら、脳に腫瘍があるってわかって。
摘出手術はとても難しいけれど、そのまま放っとくと余命三ヶ月。手術は五分五分、ただし成功しても後遺症が残るだろうって。さぁどうしましょうって話になったときに、愛のご両親がね、あなたを冷凍睡眠装置に入れたのよ。将来的に完全な手術ができるようになるだろうからって」
「冷凍睡眠?」
愛の父がそんな研究に関係しているのは、育ての親である父方の祖父母に聞いていた。研究熱心な父と、父が全ての母と。物心つく前には別々に暮らしていて、顔を会わせたことも、会話したこともない。だから、両親が娘の存在を覚えていたとは思わなかった。
「私、二三歳のまま?」
「そう。もう手術は終わっているわ。完璧に、完全に。私たちはあなたが目を覚ますのを待っていたの」
言葉の出ない愛に、江梨子は口調を変え、
「それにしたって酷いわよ。私は四七歳。和輝なんて二六歳よ」
泣きまねを交え、おどける。愛ははじかれたように、まじまじと江梨子と和輝の顔を見る。ほっとしたような、嬉しそうな顔。
「おじさんもおばさんも残念ながら亡くなったわ。あなたのこと、とても心配してた。ご両親とは連絡とれなくて……ごめんなさいね」
「いいえ、ありがと」
「愛ちゃん、起きられる?」
和輝の表情の中に、五歳児のころの面影を見つけ、愛は微笑む。起き上がろうとするが、力が入らない。和輝に手を借りつつ、上半身を起こす。
成長した和輝の中に勇の面影が浮かんでは消える。二十歳で死んでしまった勇が生きていたら、こんな感じだったのかもしれない。胸に刺さる小さな棘。忘れてしまわなければならないと決意し、忘れていたはずなのに、気持ちが揺らぐ。不自然に愛は和輝から視線を外す。
「勇が生きてたら、和輝に似てたかもしれないわね」
愛の心を読んだかのように江梨子が言う。
「勇が死んで、もう三十年近いわ。つい昨日のことのようなのに」
愛の中ではたった六年前の出来事。六年前でも、勇はみんなの中で遠い存在になってしまっていた。たった六年でも。
「愛ちゃん、覚えてる?」
不意に和輝に話しかけられ、愛は我に返る。
「何?」
「愛ちゃんが倒れた夜の事」
「覚えてるわよ、だって、私にとっては昨日のことだもの」
可笑しくて笑いだす。
「カズ君、私のお嫁さんになるって」
「そ、そんなこと言った? 俺、格好良くプロポーズした――」
「いいえ、お好み焼きを目の前に、すっごくお腹すかせた表情で言ったのよ。可愛かったなぁ」
「待った。それ以上思い出さないで」
「何よ」
ふくれっつらをしてみせて、吹き出す。あの子供が、こんなにも大きくなるほど時が流れてしまった。愛、たった一人を残して。笑い過ぎたからか、涙が出てきた。
「愛ちゃん、俺、大きくなったよ」
急に真剣な顔をした和輝から視線をそらす。江梨子は看護婦さんへ挨拶していて、こちらを気にしている様子はない。
「好きな人、できた?」
愛を大好きだと言っていた子供はもういない。二十数年も前の話。本当に、馬鹿げるくらい遠い昔の話。
「ずっと好きだったよ」
愛は耳を疑う表情で和輝の顔を見る。
「ずっと好きだよ」
不意に涙が頬を伝う。どうして、いつも手紙の最後に書かれていた言葉を彼は知っているのだろう。
「愛ちゃんは、僕が勇さんの生まれ変わりだと思う?」
愛はうつむいて、静かに首を振る。
「生まれ変わりなんて信じない」
「そう。僕はどっちでもいい。愛ちゃんが僕の中に勇さんを見ても」
申し訳ない、そう思い続けていた想いをあっさり肯定され、愛は言葉を失う。和輝は笑顔。もの悲しそうな、勇が嘘をついている時と同じ顔。
「愛ちゃんがそれで僕のこと好きになってくれるんなら、それでもいい」
和輝は自分の言葉に傷ついている。愛はどうしようもなく、涙を流すしかない。
「愛、どうしたの?」
看護婦と話し込んでいた江梨子が泣いている愛を目に留め、飛んでくる。
「和輝、あんた愛に何言ったの?」
「別に、たいしたことは……」
言葉を濁す息子に、江梨子は詰め寄る。
「あんた、愛をいじめたんじゃないでしょうね。大丈夫? 愛」
「うん、大丈夫。ちょっと嬉しくて――」
「???」
「生まれ変わり、あるかもしれないって思ったの」
小さな声だったから、江梨子には聞こえなかったらしい。尋ね返す江梨子に首をふる。
一ヵ月後――
愛はまだリハビリ中だが、車椅子で出かけることができるようになった。和輝の運転で海へと向かう。やたら嬉しそうな和輝の様子に、微笑みつつ、目的地を指示する。誰も行かない、あの崖――水色の紙飛行機が舞ったあの場所へ。
淡い色合いの空は眠たげ。輝く海原は光を受けて、瞬いている。
「ここ、何かあるの?」
ここまで車を運転してきた和輝は不審そうな顔で周囲をみやる。何もない崖の上。転落防止用の無骨な柵があるだけ。
愛は車椅子を崖の先へと向ける。和輝が手伝いながら、坂を上る。
「私、ここでいっちゃんにお別れしたの」
緩やかな風は愛の言葉をさえぎらなかった。バックから紙飛行機を取り出し、海へと向けて飛ばす。白い便箋を使って作ったたくさんの紙飛行機。
「自分に嘘つかなきゃ、生きていけなかった。いっちゃんのこと、忘れてしまわなきゃ。だから、ここでお別れしたの」
「忘れたから、別の人と結婚する気になったの?」
愛からすれば、つい一ヶ月前のこと。和輝からすれば二十年も前のこと。
「ついこの間のことなのに、私、自分が何を考えていたのかわからないわ」
「わからないってことは、あまり好きじゃなかった?」
和輝の問いに答えず、愛は飛行機を飛ばす。
いっちゃん。私は、あなたを忘れて生きることなんてできなかった。
手持ちの紙飛行機は全て飛ばしてしまった。何も書いていない白紙の便箋。書こうとして、何枚も紙を無駄にして、結局、何も書けなかった。
「僕は、勇さんの代わりになれない?」
背後から問いかけられる。
誰も誰かの代わりになんてなれない。勇は勇。和輝は和輝なのに。あまりに真剣な声に、愛は笑いをこらえながら、
「あなた、おばちゃんが好いわけ?」
「愛ちゃんは僕より若いんだよ?」
そうだった。けれど、愛の中では和輝はまだ五歳児のまま。これから先のことなんてわからない。結婚するはずだった彼は別の人と結婚し、今では良いパパらしい。あの日、荒れていた空と海は、今日はとても穏やかだ。
「帰ろうか」
振り向いて声をかけると、和輝は嬉しそうにうなづく。愛はクスリと笑う。ついこの間まで五歳の子供だったのに、今では年上だなんて。
勇のことを忘れることはできないだろうけれど、再び誰か好きになることはできそうな気がする。未来のことなんて誰にもわからないのだから。
終
『紙飛行機』をご覧いただきありがとうございました。
弧を描くもの、直角に落ちるもの様々に、崖の下へ向かい落ちていく。水面へと向かい飛んでいく。それはまるで散る花のよう。それとも、旅立つ魂――
「ごめんね、いっちゃん」
考えるのを止め、愛はつぶやく。決別の言葉は自分の為。これで終わり。終わらせなければ。
恋人の勇《いさむ》は筆まめだったから、手紙はたくさんあった。読み返しながら、泣きながら、丁寧に折った。愛を幸せな気持ちにしてくれた便箋は、全て海へと飲み込まれた。
いっちゃんの事忘れないといけないないの、私。幸せな日々が走馬灯のようによみがえりかけ、愛はそれを否定する。彼なんて、最初から存在しなかった。そう思わなければいけない。だって、そうしないと私、生きていけないから。勇が死んで、一年過ぎたのに、ちっとも悲しみがいえないから。
「バイバイ」
身をひるがえし、愛は歩き出す。あふれる涙はそのままに、唇をかみ締め、前を見つめて。
半年後――
愛が三歳年上の友人、江梨子《えりこ》に突然呼び出されたのは喫茶店。話がある、とだけ言われてきたのに、一向に話は切り出されたない。運ばれてきたケーキに舌鼓を打ちつつ、世間話に花を咲かせる。会話の途切れた瞬間、狙っていたかのようなタイミングで江梨子は結婚を告げた。
「お、おめでとう」
掛ける言葉を見つけられず、愛は戸惑い気味に声を出す。呑みかけていた紅茶をテーブルに置き直し、向かいに座る江梨子に改めて祝福の言葉を告げる。
「ありがと」
江梨子は幸せそうに微笑み、ケーキにフォークを突き刺す。
「でも、どうして?」
愛が驚くのも無理はない。江梨子はついこの前まで喪に服していたはずなのに。勇――江梨子の双子の片割れ、愛の恋人だった彼の突然の不幸の為に。
「できちゃった結婚」
江梨子はあっけらかんと言い放ち、ケーキの上に載っているチェリーを口に放り込む。
「な、なんで?」
信じられない。勇の死に嘆いていたのはついこの間。同じ悲しみを共有していたはずだったのに。愛は釈然としない。まるで、自分ひとりだけ置いていかれた気分。
「私もわかんないんだけど、なんとなく、そんな感じになったっていうか」
要領を得ない。
「何ヶ月なの?」
「七ヶ月」
「え? もうそんななの?」
ワンピース姿の江梨子。ゆったりしたデザインなのだが、お腹は驚くほど目だっていない。
「うち、目立たない家系なんだって」
まじまじとお腹を見やり、視線をはずす。幸せそうな江梨子の顔に、なぜか、心臓に杭を打たれた気がしつつ、愛は微笑を浮かべる。
「――そう。もうすぐじゃない」
「そう、もうすぐなの」
そんな会話を交し合ったのが約三ヶ月前。江梨子は予定日より十日早く出産した。病院へ、江梨子の両親と共に駆けつけた愛は、江梨子の枕元に眠る赤ちゃんを見る。
「かわいいわね」
愛は病院に来ようだなんて思っていなかったのに、江梨子の両親に強引につれて来られたのだ。江梨子に頼まれたから、と。
両家の両親たちが、爺婆一年生の顔で赤ん坊を見つめている。その部屋の中で浮いていると感じているのは愛本人だけじゃないはず。
「あのさ、江梨子」
申し訳なく、声を上げる。これ以上、この場に居続けるのは辛い。早めに引き上げさせてもらいたい。
「私、悪いんだけれど用事があるから――」
「そうなの? ごめんね。この子が目を開けた時、愛が居たほうがいいと思ったんだけど」
「どうして?」
江梨子はみんなが赤ん坊に気を取られていることを確認し、愛に耳打ちする。
「勇の生まれ変わりだから」
恐る恐る愛は赤ん坊を見やる。面影はあまりない。姉弟だから、勇に似ている部分はちょっとくらいあるのかもしれない。まだ、わかりにくいだけで。でも。
「そんなこと――」
「この子を身篭ってから、何度も勇が夢の中に出てきたの。愛に会いたいって」
ぎゅっと心臓を鷲づかみにされる。苦しくて、嬉しくて、悲しくて。会えるものならば会いたい。それは愛も同じ。でも、勇は死んだのだ。
「生まれ変わりなんて、私、信じない」
傷ついた顔をしたのは江梨子だった。その顔を映すように、愛も表情を曇らせ、足早に立ち去る。泣き暮らしていた日々には別れを告げた。勇のことなんて忘れてしまったはずだった。なのに、涙がこみ上げてきた。
連絡を取らないようにして数年が過ぎた。けれど、年賀状は毎年届く。和輝《かずき》と命名された赤ん坊は、幸せそうに写真におさまっている。一年、二年、数年で大きくなった。楽しそうに、子供らしい姿でたたずんでいる幼児に勇の面影を見つける。すると、江梨子の言葉を思い出し、彼の中に無理やり、勇を探し出しているようで申し訳なくなる。
「生まれ変わりなんて、あるわけない」
あるわけないのだ。だから、会わないようにしている必要なんてない。必要なんてないのだけれど、会ってはいけないような気がする。
けれど、時間が流れ、昨日がこの前、過去が昔になり、愛の家の近くへ江梨子一家が引越してきたこともあり、以前と同じ付き合いをするようになった。
「愛ちゃんだ!」
玄関の戸を開けた途端、輝く笑顔で飛びついてきたのは和輝。今年で五歳になるはずだ。人見知りするという江梨子の話だったが、和輝はすぐ愛に懐いた。
スリッパを鳴らしながら奥から現れた江梨子夫婦が、急いで靴を履く。和輝の頭を乱暴に撫で回し、頬をつねりつつ、
「良かったわね、カズ。愛と一緒ならお留守番、できるわよね」
大きくうなづく和輝。
「じゃ、愛。悪いんだけど後、お願いね。晩御飯まだだけど、お好み焼き。後、焼くだけだから」
待たせているタクシーへ向かう。入院している義父の様子が思わしくないらしい。このところ急に病院へ呼び出されることが多くなった。いつ家に帰れるかわからない病院に子供を連れて行くわけにもいかないのだろう。愛はその都度、和輝の子守を頼まれていた。
キッチンテーブルにはホットプレートとお好み焼きの種。手を洗い、食器を用意する。
「僕、愛ちゃんのお好み焼き、好き」
「そう?」
「ふっくらしてるもん」
「お世辞がうまいなぁ、カズ君は。私、焼いてるだけだよ?」
「僕、大きくなったら愛ちゃんのお嫁さんになるよ」
子供らしい言葉。愛は微笑みながら、お好み焼きを焼き上げる。
「愛ちゃんは食べないの?」
「もう食べてきたからね」
「なに食べたの?」
「ご馳走」
「ごちそう? オムライス?」
「そうそう、そんな感じ」
愛は笑いながら答える。フルコース料理を食べていたなんて、説明したって理解できないだろうから。
「一人で?」
言葉に詰まる。
「カズ君の知らない人と」
「誰? 友達?」
「……みたいな人」
母親に似て追求の手が厳しい。子供だからと適当に相手ができない。覚悟を決めて、
「結婚――するかもしれない人と」
ガシャンと食器がひっくり返る。
「何するの!?」
「愛ちゃんは僕と結婚するんでしょ!?」
感情のまま叫び、泣き始める。愛は和輝を抱きしめて、
「カズ君がもっと大きくなったら、カズ君、私よりもっともっと大好きで、大切な人ができるよ」
「愛ちゃんの嘘つき!」
突き飛ばされる。食器棚の角で頭を打つが、愛はその痛みよりも和輝を捕まえなければならない気持ちで後を追いかける。手を伸ばすが、するりと腕を抜け、和輝は寝室へと駆け込んでいく。
部屋のドアは硬く閉じられている。鍵はかからないはずだから、きっと精一杯もたれかかっているのだろう。無理すれば部屋の中に入れるだろうが、それでは意味がない。ドア越し、静かに語りかける。
「カズ君、ねぇ、お話しよ?」
「愛ちゃんの嘘つき」
同じ言葉を繰り返す。何度も何度も繰り返し、やがて疲れてしまったのだろう。声は静かになる。そっと扉を開けて、部屋の中に入る。微笑みながら、和輝を抱きかかえ、ベットへ運ぶ。布団を掛け、眉間にしわの寄った和輝の額をそっとなでる。
「生まれ変わりなんてないわ」
そっとつぶやき、安らかな顔になるまで、和輝の頭をなでる。後片付けをしなければと思いつつ、眠気に誘われる。幸せそうな顔で眠る和輝のそばで、愛は眠りについた。
まぶしい光がまぶたを照らす。
「愛ちゃん」
男性の声。懐かしい、勇の声。
「いっちゃん?」
まぶたは重い。もう少し寝かせて欲しくて寝返りを打つ。
「起きて、愛ちゃん」
布団の中で伸びをしつつ、愛は声の方向へ顔を向ける。ゆっくり目を開ける。
「誰?」
「愛ちゃん、俺のこと忘れちゃった?」
声は、勇とよく似ている。顔は――ちょっと違う。似てるけれど。まるで病院のような白い部屋。どこかから消毒液の匂いも漂ってくる。
「あなた、誰?」
「僕だよ、和輝」
和輝なんて名前の知り合い、カズ君しか知らない。戸惑う愛に和輝の後ろに控えていた女性が愛の元へと歩み寄る。
「愛、良かった」
中年の女性。江梨子に似た――いや、江梨子だ。愛はじっと江梨子の顔を見つめる。昨日までと別人のように年を取ってしまっているが、江梨子だ。間違いじゃない。江梨子を見間違えるはずがない。でも、どうして?
「良かった。目が覚めて」
「私――カズ君を寝かしつけてて……?」
「そう。あなたはカズを寝かしつけてて、一緒に眠っちゃったの――ちょっと長い時間」
江梨子は年老いても変わらないしゃべり方。
「朝になっても目覚めないから心配してたら、和輝は自分が突き飛ばしたからだって大泣きし始めるし、それにしちゃ、ちょっと妙な眠り方だから――病院で精密検査したら、脳に腫瘍があるってわかって。
摘出手術はとても難しいけれど、そのまま放っとくと余命三ヶ月。手術は五分五分、ただし成功しても後遺症が残るだろうって。さぁどうしましょうって話になったときに、愛のご両親がね、あなたを冷凍睡眠装置に入れたのよ。将来的に完全な手術ができるようになるだろうからって」
「冷凍睡眠?」
愛の父がそんな研究に関係しているのは、育ての親である父方の祖父母に聞いていた。研究熱心な父と、父が全ての母と。物心つく前には別々に暮らしていて、顔を会わせたことも、会話したこともない。だから、両親が娘の存在を覚えていたとは思わなかった。
「私、二三歳のまま?」
「そう。もう手術は終わっているわ。完璧に、完全に。私たちはあなたが目を覚ますのを待っていたの」
言葉の出ない愛に、江梨子は口調を変え、
「それにしたって酷いわよ。私は四七歳。和輝なんて二六歳よ」
泣きまねを交え、おどける。愛ははじかれたように、まじまじと江梨子と和輝の顔を見る。ほっとしたような、嬉しそうな顔。
「おじさんもおばさんも残念ながら亡くなったわ。あなたのこと、とても心配してた。ご両親とは連絡とれなくて……ごめんなさいね」
「いいえ、ありがと」
「愛ちゃん、起きられる?」
和輝の表情の中に、五歳児のころの面影を見つけ、愛は微笑む。起き上がろうとするが、力が入らない。和輝に手を借りつつ、上半身を起こす。
成長した和輝の中に勇の面影が浮かんでは消える。二十歳で死んでしまった勇が生きていたら、こんな感じだったのかもしれない。胸に刺さる小さな棘。忘れてしまわなければならないと決意し、忘れていたはずなのに、気持ちが揺らぐ。不自然に愛は和輝から視線を外す。
「勇が生きてたら、和輝に似てたかもしれないわね」
愛の心を読んだかのように江梨子が言う。
「勇が死んで、もう三十年近いわ。つい昨日のことのようなのに」
愛の中ではたった六年前の出来事。六年前でも、勇はみんなの中で遠い存在になってしまっていた。たった六年でも。
「愛ちゃん、覚えてる?」
不意に和輝に話しかけられ、愛は我に返る。
「何?」
「愛ちゃんが倒れた夜の事」
「覚えてるわよ、だって、私にとっては昨日のことだもの」
可笑しくて笑いだす。
「カズ君、私のお嫁さんになるって」
「そ、そんなこと言った? 俺、格好良くプロポーズした――」
「いいえ、お好み焼きを目の前に、すっごくお腹すかせた表情で言ったのよ。可愛かったなぁ」
「待った。それ以上思い出さないで」
「何よ」
ふくれっつらをしてみせて、吹き出す。あの子供が、こんなにも大きくなるほど時が流れてしまった。愛、たった一人を残して。笑い過ぎたからか、涙が出てきた。
「愛ちゃん、俺、大きくなったよ」
急に真剣な顔をした和輝から視線をそらす。江梨子は看護婦さんへ挨拶していて、こちらを気にしている様子はない。
「好きな人、できた?」
愛を大好きだと言っていた子供はもういない。二十数年も前の話。本当に、馬鹿げるくらい遠い昔の話。
「ずっと好きだったよ」
愛は耳を疑う表情で和輝の顔を見る。
「ずっと好きだよ」
不意に涙が頬を伝う。どうして、いつも手紙の最後に書かれていた言葉を彼は知っているのだろう。
「愛ちゃんは、僕が勇さんの生まれ変わりだと思う?」
愛はうつむいて、静かに首を振る。
「生まれ変わりなんて信じない」
「そう。僕はどっちでもいい。愛ちゃんが僕の中に勇さんを見ても」
申し訳ない、そう思い続けていた想いをあっさり肯定され、愛は言葉を失う。和輝は笑顔。もの悲しそうな、勇が嘘をついている時と同じ顔。
「愛ちゃんがそれで僕のこと好きになってくれるんなら、それでもいい」
和輝は自分の言葉に傷ついている。愛はどうしようもなく、涙を流すしかない。
「愛、どうしたの?」
看護婦と話し込んでいた江梨子が泣いている愛を目に留め、飛んでくる。
「和輝、あんた愛に何言ったの?」
「別に、たいしたことは……」
言葉を濁す息子に、江梨子は詰め寄る。
「あんた、愛をいじめたんじゃないでしょうね。大丈夫? 愛」
「うん、大丈夫。ちょっと嬉しくて――」
「???」
「生まれ変わり、あるかもしれないって思ったの」
小さな声だったから、江梨子には聞こえなかったらしい。尋ね返す江梨子に首をふる。
一ヵ月後――
愛はまだリハビリ中だが、車椅子で出かけることができるようになった。和輝の運転で海へと向かう。やたら嬉しそうな和輝の様子に、微笑みつつ、目的地を指示する。誰も行かない、あの崖――水色の紙飛行機が舞ったあの場所へ。
淡い色合いの空は眠たげ。輝く海原は光を受けて、瞬いている。
「ここ、何かあるの?」
ここまで車を運転してきた和輝は不審そうな顔で周囲をみやる。何もない崖の上。転落防止用の無骨な柵があるだけ。
愛は車椅子を崖の先へと向ける。和輝が手伝いながら、坂を上る。
「私、ここでいっちゃんにお別れしたの」
緩やかな風は愛の言葉をさえぎらなかった。バックから紙飛行機を取り出し、海へと向けて飛ばす。白い便箋を使って作ったたくさんの紙飛行機。
「自分に嘘つかなきゃ、生きていけなかった。いっちゃんのこと、忘れてしまわなきゃ。だから、ここでお別れしたの」
「忘れたから、別の人と結婚する気になったの?」
愛からすれば、つい一ヶ月前のこと。和輝からすれば二十年も前のこと。
「ついこの間のことなのに、私、自分が何を考えていたのかわからないわ」
「わからないってことは、あまり好きじゃなかった?」
和輝の問いに答えず、愛は飛行機を飛ばす。
いっちゃん。私は、あなたを忘れて生きることなんてできなかった。
手持ちの紙飛行機は全て飛ばしてしまった。何も書いていない白紙の便箋。書こうとして、何枚も紙を無駄にして、結局、何も書けなかった。
「僕は、勇さんの代わりになれない?」
背後から問いかけられる。
誰も誰かの代わりになんてなれない。勇は勇。和輝は和輝なのに。あまりに真剣な声に、愛は笑いをこらえながら、
「あなた、おばちゃんが好いわけ?」
「愛ちゃんは僕より若いんだよ?」
そうだった。けれど、愛の中では和輝はまだ五歳児のまま。これから先のことなんてわからない。結婚するはずだった彼は別の人と結婚し、今では良いパパらしい。あの日、荒れていた空と海は、今日はとても穏やかだ。
「帰ろうか」
振り向いて声をかけると、和輝は嬉しそうにうなづく。愛はクスリと笑う。ついこの間まで五歳の子供だったのに、今では年上だなんて。
勇のことを忘れることはできないだろうけれど、再び誰か好きになることはできそうな気がする。未来のことなんて誰にもわからないのだから。
終
『紙飛行機』をご覧いただきありがとうございました。
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