冬
冬は冷たい。
反論があるだろうから、先に言う。私の言う冬とは、男の名前。桜井冬《さくらいふゆ》。
その時、なぜか店内にいたのは私と彼だけだった。ラジオから流れた変わった名前に笑いながら、彼は私に名前を明かした。
『桜井冬』
紙ナプキンに書かれた文字。冬生まれだから、冬という安直な名をつけられたのだと、笑って言った。冬なんて名前とはまるで違う、夏のように明るい笑顔で。だから、私も素直に明かした。
「私の名前も同じです」
彼は何を言われたのか、わからない顔。
「私の名前」
「あきちゃん?」
最初は不思議そうな、そして、だんだん嬉しそうな顔になる。みんな、平仮名で書かれた私の名前しか知らない。せめて、「子」を付けてくれれば良かったのに、と親を恨み、名前の漢字を明かさないようにしていた。
「あきって、秋って書くんです。秋生まれだから秋。すっきり一文字で秋」
テーブルの上。秋という字を指でなぞる。
「私、兄弟多くって。だから」
「俺は一人っ子だけど」
彼はそこで初めて寂しそうな顔をして。一瞬後には、笑顔になる。
「でも、あきちゃんと同じか」
「同じですね」
秘密を共有したような、そんな気分が恋心に変わり、結婚まで到達するのはあっという間だった。自他共に認めるスピード婚というやつだ。
そんな彼と出会ったのはずいぶん前。季節は春。窓の外には、桜舞い散る大学のキャンパス。彼が桜を見上げながら歩いていたのをはっきり覚えている。
私は大学生などではなく、離婚して実家に戻り、大学近くの喫茶店でパートを始めて数日目。お客さんの波が引いた合間だった。
窓の外。道行く人々が見納めだろう桜を見上げている。そんな中、彼は特に熱心だった。早足ながら、顔は桜に向けたまま。桜の木は道のすぐ横ではなく、小川を挟んで植えられている。あの頃、転落防止用の策は無く――
「あっ」
私は思わず声を漏らした。まさか、落ちるとは思っていなかった。店から飛び出す。水の音が派手にしたのだろう、人々が男を見ている。頭から水をしたたらせながら、春の小川にたたずむ男。男は困ったような顔をしながらも、桜を見上げていた。
「桜井さん、何やってるの」
声をかけたのはマスター。雨に濡れたお客さん用に用意されているタオルを肩に、男を小川から引っ張りあげる。良かったと胸を撫で下ろしつつ、私は急いで店に戻る。店内には私とマスターだけだったが、店員がいない店なんて、無用心過ぎる。
水に濡れた彼がその後どうしたのか、私は覚えていない。ただ、しばらくマスターが、からかっていたのを覚えている。
「桜井なんて名前だから桜が好きなんだろう」
彼は決まり悪そうに笑い、ブレンドをすする。春になれば、決まって「川に落ちるなよ」なんてからかわれて。そんな店員と客という関係が数年続いたが、彼が猫舌なことは結婚するまで知らなかった。
『桜井秋』
広告の隅、白いところに名前を書いて、彼に差し出す。
「『井』が無ければコスモスなのにね」
「コスモス? そんな字だっけ?」
「そうよ。秋の桜でコスモス」
私はコーヒーを口に含む。甘くてまろやか。私のコーヒーカップにはたっぷりの砂糖とミルク。彼のカップには氷が二つ。季節は冬だというのに、それでも氷が必要らしい。テーブルの上のコーヒーはキャラメル色と、ブラック。色も味も温度も違うのに、どちらもコーヒーだから面白い。
「桜の冬は無いけど、冬の桜はあるよ」
ぽつりと言われた言葉がわからず、私は首をかしげる。彼は私の名前に並ぶように『桜井冬』と書いて、『井』をぐしゃぐしゃと消す。そして、その下に『冬桜』と書き足す。
「冬桜。群馬にね、あるんだって」
「へぇ」
「いつか、見に行こうね」
私はうなづいた。いつか、は私たちにきっとやってくる未来だと思っていたのに。
冬は冷たい。
冷たい冬は、白い着物を着て箱の中で眠っている。
終
『冬』をご覧いただきありがとうございました。
「突発性競作企画19弾:四季・冬」参加作品です。
反論があるだろうから、先に言う。私の言う冬とは、男の名前。桜井冬《さくらいふゆ》。
その時、なぜか店内にいたのは私と彼だけだった。ラジオから流れた変わった名前に笑いながら、彼は私に名前を明かした。
『桜井冬』
紙ナプキンに書かれた文字。冬生まれだから、冬という安直な名をつけられたのだと、笑って言った。冬なんて名前とはまるで違う、夏のように明るい笑顔で。だから、私も素直に明かした。
「私の名前も同じです」
彼は何を言われたのか、わからない顔。
「私の名前」
「あきちゃん?」
最初は不思議そうな、そして、だんだん嬉しそうな顔になる。みんな、平仮名で書かれた私の名前しか知らない。せめて、「子」を付けてくれれば良かったのに、と親を恨み、名前の漢字を明かさないようにしていた。
「あきって、秋って書くんです。秋生まれだから秋。すっきり一文字で秋」
テーブルの上。秋という字を指でなぞる。
「私、兄弟多くって。だから」
「俺は一人っ子だけど」
彼はそこで初めて寂しそうな顔をして。一瞬後には、笑顔になる。
「でも、あきちゃんと同じか」
「同じですね」
秘密を共有したような、そんな気分が恋心に変わり、結婚まで到達するのはあっという間だった。自他共に認めるスピード婚というやつだ。
そんな彼と出会ったのはずいぶん前。季節は春。窓の外には、桜舞い散る大学のキャンパス。彼が桜を見上げながら歩いていたのをはっきり覚えている。
私は大学生などではなく、離婚して実家に戻り、大学近くの喫茶店でパートを始めて数日目。お客さんの波が引いた合間だった。
窓の外。道行く人々が見納めだろう桜を見上げている。そんな中、彼は特に熱心だった。早足ながら、顔は桜に向けたまま。桜の木は道のすぐ横ではなく、小川を挟んで植えられている。あの頃、転落防止用の策は無く――
「あっ」
私は思わず声を漏らした。まさか、落ちるとは思っていなかった。店から飛び出す。水の音が派手にしたのだろう、人々が男を見ている。頭から水をしたたらせながら、春の小川にたたずむ男。男は困ったような顔をしながらも、桜を見上げていた。
「桜井さん、何やってるの」
声をかけたのはマスター。雨に濡れたお客さん用に用意されているタオルを肩に、男を小川から引っ張りあげる。良かったと胸を撫で下ろしつつ、私は急いで店に戻る。店内には私とマスターだけだったが、店員がいない店なんて、無用心過ぎる。
水に濡れた彼がその後どうしたのか、私は覚えていない。ただ、しばらくマスターが、からかっていたのを覚えている。
「桜井なんて名前だから桜が好きなんだろう」
彼は決まり悪そうに笑い、ブレンドをすする。春になれば、決まって「川に落ちるなよ」なんてからかわれて。そんな店員と客という関係が数年続いたが、彼が猫舌なことは結婚するまで知らなかった。
『桜井秋』
広告の隅、白いところに名前を書いて、彼に差し出す。
「『井』が無ければコスモスなのにね」
「コスモス? そんな字だっけ?」
「そうよ。秋の桜でコスモス」
私はコーヒーを口に含む。甘くてまろやか。私のコーヒーカップにはたっぷりの砂糖とミルク。彼のカップには氷が二つ。季節は冬だというのに、それでも氷が必要らしい。テーブルの上のコーヒーはキャラメル色と、ブラック。色も味も温度も違うのに、どちらもコーヒーだから面白い。
「桜の冬は無いけど、冬の桜はあるよ」
ぽつりと言われた言葉がわからず、私は首をかしげる。彼は私の名前に並ぶように『桜井冬』と書いて、『井』をぐしゃぐしゃと消す。そして、その下に『冬桜』と書き足す。
「冬桜。群馬にね、あるんだって」
「へぇ」
「いつか、見に行こうね」
私はうなづいた。いつか、は私たちにきっとやってくる未来だと思っていたのに。
冬は冷たい。
冷たい冬は、白い着物を着て箱の中で眠っている。
終
『冬』をご覧いただきありがとうございました。
「突発性競作企画19弾:四季・冬」参加作品です。
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