別名・恋人の樹伝説(2/3)
4:効力発動 (消化お題:
いつもより少々遅れて登校した望美は、教室に入ってすぐ、そこに妙なものを見つけた。いつもならば遅刻ぎりぎりでやってくる美代がすでに席についており、アンニュイな視線をどこか空中にさ迷わせている。春、ではあるが、美代の周りだけ異常に春めいた空気が立ち込めている。
意を決したように望美は美代の席に近づき、真正面から声をかける。
「おはよう」
妙に幸福そうな笑みを浮かべた美代は気づいていない。
「お・は・よ・う」
美代は望美の顔をしばらく見つめ、
「……あ、望美か。ごめん、気づかなかった」
「――みたいね。何かあったの?」
「え? 何が?」
困惑した顔。
「何があったの?」
いつも以上に話にならない。
「うん……えっとね、」
泣きそうな、嬉しそうな、不安そうな、それでいて幸福そうな。一人で百面相をしながら、美代は言葉を濁し続ける。
「ま、言いたくなったらで良いわ」
席につこうとする望美をとめ、
「違うの、あのね、」
話したくないわけではないらしい。望美はそっとため息をつき、美代の話を聞こうと向き直る。
そこへ、ドン、と戸口から壁にものがぶつかった音。振り返った望美はあからさまに顔をしかめた。
元宮秋也が大きなダンボール箱を抱えてそこにいた。狭い戸口にダンボールをぶつけたのだろう。ダンボールからはミィミィと小さな鳴き声が聞こえる。
その鳴き声につられるように数人の男女が秋也の周りに集まり、ダンボールの中を覗き込む。
「猫!」
「可愛い!」
「どうしたの?」
声を聞きつけた周りの人間も集まり、すでに人垣ができている。
「昨日転校してきたばかりの人間とは思えないわね」
望美が迷惑そうに言葉を漏らす。いつもならば同調なり、反論なり何らかの言葉を美代は返すのだが――。
「ごめん望美、後でね」
言うと、元宮秋也の元へ駆け寄っていく。昨日の宣言もあり、ざわめく教室内。美代はそんなことにはかまいもせず、元宮が運んできたダンボール箱から子猫を抱き上げる。
幸福そうに語らいながら、猫をかまっている二人。誰が見ても恋人同士にしか見えず、猫好きな面々は近寄るに近寄れない顔で周囲を取り巻いている。
望美は納得がいかない顔で自分の席に座り、眉間にしわを寄せて二人を見る。
「あれは……ただの伝説のはずなのに」
不愉快そうにつぶやく。
「――きちんと説明してもらわなきゃ」
休み時間も美代は元宮のもとへ猫を可愛がりにいったため、望美が説明を聞く時間はなかった。
昼休みにようよう彼女を捕まえ、お弁当片手に屋上に連行するように連れて行く。他にも数人生徒がいたが、話を聞かれることはない程度の込み具合。
「猫ちゃんに餌をやろうと思ってたのにィ……」
残念そうにつぶやく美代に鋭い視線を投げかけ、口元だけはあくまで穏やかに望美は微笑む。
「ちゃんと説明してくださるかしら?」
「……あ、あのね、」
美代の背中に冷たいものが流れる。席が前後だったので仲良くなったのであるが、『人間、見た目じゃない』って言葉を色濃く友人は体現してくれている。
お嬢様らしい、ふわりとした物腰。黒髪はあくまで艶やかにストレート。白く、きめこまやかな肌。大きな瞳、長いまつげ、唇は可愛らしく、リップが薄く塗られている。
絵に描いたような清楚可憐なお嬢様。が、中身はまったく違う。望美と同じ出身中学の学生が遠巻きに彼女を見ているわけが最近わかった。友達としても一癖、二癖あるのだが、敵に回すととても恐ろしい人間だということが――。
「あのさ……恋、したかも」
「は?」
「あの、ね」
美代の声はだんだん小さくなる。
「昨日ね――」
「間違いよ」
望美はきっぱり断言する。
「美代が思っているのは間違い。それは恋じゃない」
「でも、」
「でもじゃない。いい? 昨日桜を食べて、私が変人に恋するなんて妙なこと言ったでしょ? 美代は暗示にかかってるのよ。だからそれは恋じゃない!」
「違うよ」
美代はきっぱりと否定する。
「これは恋よ。望美は恋をしたこと無いからわかんないのよ」
望美の胸に突き刺さる言葉。
確かに、恋はしたことがない。それ以前に、望美は誰も信用していない。祖父の手による英才教育の賜物か、人と見ればまず疑う。そして相手を手駒とした場合、どのように使えば良いか、次に、どのように手駒にするかを考える。
美代はそんな望美にはじめてできた友達で――最初は義理の母に心配を掛けない為に仲良くし始めたのだ。学校の友達の一人として紹介するために。
「――じゃあ、どこがいいの?」
わからないと全面的に言われれば元来負けん気の強い望美は悔しくなる。書物で得た知識はあっても確かに経験がない。人との駆け引きは上手いが、相手に対し敵か味方か、有能かとるに足らない相手か、という見方しかしたことがない。
ほんの一ヶ月前の望美であれば、美代のような平凡な人間と仲良くしている今の現状を予測することさえ不可能だった。まして、昨日はっきりと宣言した美代の口から「恋した」なんて言葉を聞こうとは……。
世界は不思議に満ちている。いくら駆け引きが得意でも、その心情が伺えない人間がごまんといる。
望美はタコさんウィンナーにぶすりとフォークをつき刺し、
「昨日は『好きにならないわよっ!』って宣言してたじゃない」
あのときの美代の口調を真似る。美代は照れくさそうに一口大のコロッケを口に放り込み、
「昨日ね、見たの。捨て猫達に傘差し掛けて、頭なでてたのを」
「で?」
「でって……こう、ビビビっと来たのよ」
その時の猫たち(今朝、元宮がダンボールに入れてつれてきた猫達)が、いかに可愛らしかったか、また動物の可愛らしさについて熱い口調で語り始めた。将来の夢は第二のムツゴロウ王国を作ること、なんて公言してはばからないだけのことはある。
望美は絶望的にため息をついた。
美代も変人だったのね――。
望美は弁当を食べながら、壊れたラジオのように言葉を流しつづける友人の声を聞き流していた。
5:時効はない (消化お題:学園祭は焼け跡で
「鈴音ぇ、今からお昼? よかったら食べない?」
瑠璃子が三段重ねの重箱片手に理事長室を訪れたのは、鈴音がちょうどお昼を食べようかと椅子から立ち上がったときだった。
タイミングが良過ぎると望美であれば胡散臭く思うところだが、鈴音はそんな風に思わない。昔から、瑠璃子は妙な具合にタイミングが良い、とは思っていても、それを深く疑ったことがない。すべてを『瑠璃子だから』の一言で済ませている。いちいち天然な瑠璃子の言動を疑っていたら、精神的に疲れきってしまうからだ。
勝手知ったるなんとやらで、瑠璃子は来客用の机の上に弁当を広げ、
「鈴音の好きな鰤《ぶり》の照り焼きにぃ、出汁《だし》巻き卵もあるのよぉ」
「じゃあ、いただくわ」
立ち上がったついでにお茶を用意する。
「――今日はどうしたの?」
「何がぁ?」
「何がって――お弁当までこしらえて何か用なの?」
瑠璃子からは妙に浮かれた気配が漂っている。今日は何の日だっただろうか。瑠璃子の旦那が関連していれば、そちらに出向くはずだし、こんな風に念入りな昼食を作って持ってくるともなれば自分に関連したこと。でも……。
「私、誕生日じゃないけど?」
狐につままれたような顔をした鈴音を瑠璃子はおかしそうに見つめ、
「たまにはお昼、鈴音と食べたいなぁと思ってぇ」
言われてみれば、菓子を一緒に食べることはあっても、昼食をともにするのはずいぶん久しい。
お茶を一口すすった瑠璃子は感慨深げにつぶやく。
「ここに在学していた頃を思い出すわねぇ」
「そうね」
相槌をうった鈴音だったが、嫌なものが脳裏を横切り、笑みは曖昧なものになる。あれは拓真が悪いのであって、私は悪くない――いくら自分に言い訳しても、罪の意識は消えない。
「それにしてもぉ、旧校舎はなんで燃えちゃったのかしらねぇ?」
嫌な汗が一滴。鈴音は料理と黙々と口に運ぶ。
大変おいしい料理なのだが、あまり美味しく感じることができない。今すぐその話題をうやむやにしたいが、そのような事をすれば妙に勘のいい瑠璃子のこと。気づかれる可能性がある。
「学園祭、焼け跡でやったでしょぉ? 焼け残った木材やらは撤去されたけれどぉ、地面が真っ黒でぇ――だから妙に頭に残ってるのよねぇ」
その原因を知るのは拓真と鈴音だけ。だが、瑠璃子は何かとその原因を鈴音に尋ねてくる。瑠璃子が何か知っているのではないか、とも勘ぐってみるが、そんなはずはないと鈴音は自分をなだめる。目撃者はいなかったし、その後、誰にも咎められなかったのだから。
あの火事のあった日はちょうど鈴音の誕生日だった。
「鈴音ぇ、これぇ」
七限目の授業が始まる間際、瑠璃子から小さな紙片が手渡された。
「何?」
「忘れないでねぇ」
先生が教室に入ってきたこともあり、瑠璃子は小さく手を振って席へと戻る。鈴音は紙片に書かれた文字を見て、首をかしげた。
『放課後、旧校舎へ。大事な話がある』
大事な話とは何だろう? そもそも、始終一緒にいるのだからいつ話してもよさそうなのに、なぜ放課後なのだろう?
授業を終えてから問いただせば良いかと思っていたのだが、その日はなぜか、瑠璃子はすばやく教室から姿を消していた。いつもはどちらかといえば鈴音がいなければ何もできないようなタイプなのに、時々、妙に行動がすばやく、鈴音が捕まえきれないところがある。
仕方なく、授業が終わってから旧校舎に足を踏み入れる。つい先日まで倉庫代わりに使用されていたのだが、解体間際の今では物が少ない。妙な居心地の悪さ、薄気味の悪さが漂う。
「瑠璃子~」
声をかけながら、教室一つ一つを覗いてゆく。旧校舎なんてアバウトな場所なので、どこに彼女が潜んでいるかわからない。
二階の一室、妙に赤い、ほんのりとした光が漏れてくる部屋を見つけた。
「瑠璃子?」
覗き込んだ鈴音に向かい、頭上から紙ふぶきが舞った。頭上には割れたクス玉。
事態が飲み込めず、目を白黒させていた鈴音だったが、目の前にいる川上拓真に気づき、眉間に皺を寄せる。
「何であんたが!」
「お誕生日おめでとう」
「……は?」
一瞬何のことかわからず、首をかしげる。
部屋は綺麗に飾り付けられ、ロウソクの明かりがともされたそこは雰囲気のいいレストランの一角といった様相。旧校舎の一室だとは到底思えない。
部屋の奥にそびえる巨大なケーキ。ロウソクと花火がいっそう派手にケーキを彩っている。手前には白いテーブルクロスの掛かった机が置かれ、美味しそうな料理が並んでいる。
「すごい……綺麗……」
「鈴音、おめでとう。喜んでもらえて嬉しいよ」
嬉しそうな拓真の声。大きなバラの花束を抱えながら近づいてくる。そこで我に返った。
「瑠璃子の名を語って呼び出すなんて卑怯だわ」
「え?」
拓真は一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに、
「これ、プレゼント」
いつもながらに鈴音の嫌いな拓真の笑顔。単純に嬉しそうな、けれど何か裏がありそうな顔。
「いらない」
教室を去りかけた鈴音を拓真は熱心に引き止めようとする。
「受け取ってよ」
「いらないったら」
「他のもののほうが良かった?」
「何もいらない。ついでに、あんたがいなけりゃもっと嬉しいわよ」
「鈴音」
「気安く人の名前を呼ばないで」
「待ってよ、鈴音」
「人の名前を呼ばないでってば。ついてこないで」
走り出す。
が、旧校舎を出た辺りで腕をつかまれる。押し問答を繰り返していた二人が火事に気づいたのは、ずいぶん経ってからだった。ケーキの火が引火したらしいことは目に見えて明らかだった。
「えぇっと、私も詳しくは知らないわねぇ……」
冷や汗を流しつつ、瑠璃子の作った出し巻き卵に手を伸ばす。口に入れると、ふわりと溶ける。甘すぎず、辛すぎず、卵の風味が生かされた味。何度食べても最高。
「美味しい。出し巻きは瑠璃子の作ったのが一番ね」
「いっぱい食べてね」
しばらく無言で食事を楽しんでいたのだが、お腹が良くなってくるとやはり、瑠璃子の来訪目的が知りたくなる。二日続けて、しかも弁当まで持参など今までにない展開だ。
「今日は何の日なの?」
瑠璃子は楽しそうに微笑むだけ。
「何かあったの?」
尋ねても、首を傾げとぼける。
「何かあるの?」
「ヒント、いるぅ?」
「そりゃ……あるなら」
「ヒントはねぇ、鈴音」
「私?」
鈴音の顔にクエスチョンマークが増える。
「私のこと? 何のこと、一体?」
「うふふ……」
答えを言う気はないらしい。
手早く重箱を重ねると、
「あんまり長居してたらぁ、しゃべりたくなっちゃうから今日は帰るねぇ」
瑠璃子は入ってきた時同様嬉しそうなオーラを撒き散らしている。
「ちょっと、何なのよ? 私に関係することって」
ドアに手を掛けた瑠璃子に、すねた顔で鈴音は尋ねる。
ちらりと後ろを振り向いた瑠璃子は仕方がないといった表情で、
「川上拓真が日取りが決まったって」
「……本当に?」
鈴音は右手の茶碗を落としそうになり、慌てて机の上に置く。嬉しさのあまり声も出ないとはまさしく今の状態。
「相手は天使?それとも女神?よくもまぁ、あの川上拓真と――婚約したってだけでも凄いのに、結婚するだなんて――」
「本当にねぇ。拓真ちゃん、世界中で一番好きな相手とやっと一緒になれるのねぇ」
瑠璃子の囁きは舞い上がった鈴音には届かない。
「じゃ、帰るわねぇ」
「またね」
うつつな鈴音は適当に返事を返し、部屋の中を居ても立ってもいられない様子でぐるぐる歩き回る。
(拓真が結婚!拓真が結婚!拓真が結婚!!)
頭の中をその単語が何度も巡り、午後からの仕事は手につきそうにない。急ぎの用事もないから、連続になるが早退しても差し支えないだろう。とにかく気を落ち着けなければ仕事が手につかない。
6.地獄巡り(消化お題:我々なりの漂流教室
「瑠璃子さん」
正面玄関の前で瑠璃子を呼び止めたのは安達泰英だった。授業はすでに始まっている時間帯――。
「泰英ちゃん、何か御用ぉ?」
嬉しそうなオーラ全開の瑠璃子に、泰英は眉をしかめた。普段、高遠鈴音が近くにいない時、彼女はおっとりしたしゃべり方はしない。見慣れない振る舞いを見せる彼女が気持ち悪い。いつものように本心を隠した瞳に、含みのある笑みを浮かべた善人ぶった顔の方がまだましだ。
それを悟ったのか、瑠璃子は顔に浮かべていた笑みを純真なものから裏のあるものに変える。一瞬の、ほんのちょっとした変化だが、まるで別人。
泰英は睨まれでもしたかのように、目に力を入れる。
「拓真さんと鈴音さんをついに結婚させるんですか?」
「……人聞きの悪いこと言わないでくれるかしら? 鈴音は、自分で自発的に拓真ちゃんと結婚するのよ?」
「裏であなたが手を引いていること、知らないのは鈴音さんだけですよ」
「むぅ」
可愛らしく膨れてみせる。
「それより、望美ちゃんの方はどうなの? あなたの手には余ってるんじゃないの?」
「関係ありません」
「あら、鈴音の親族は私の親族も同じ。関係ないことないわ」
「……鈴音さんに全てを話しますよ」
「鈴音が信じると思っているの?」
「望美が望んでいないことなら、僕は望美の願い通りの形になるよう努力するまでです」
その言葉に瑠璃子はぎろりと泰英を睨み付ける。
「私の敵に回る気?」
「望美の為なら」
真剣な瞳の泰英から視線をそらし、瑠璃子は息をつく。
「――話にならないわね。お子ちゃまの一存で鈴音の一生を台無しにしようだなんて」
「でも、あなたにも鈴音さんの一生を決める権利はない」
「いいのよ、私は」
瞳の奥に怪しい光を浮かべ、笑う。
「私は鈴音を幸福にする義務があるわ。あなたが望美ちゃんに恩義を感じているように、私も鈴音に恩義がある。だから、なんとしてでも鈴音には幸福になってもらわなきゃならないの」
「あなたの描く幸福と、鈴音さんの描く幸福が違ってもですか?」
「違わないわ。何をすれば一番いいのか、私はわかっている。当人には見えなくても、周囲の人間には見えることがあるのよ」
「それはあなたの我侭に過ぎない」
「何とでも言いなさい。青二才にはわからないことよ」
身をひるがえし瑠璃子は立ち去る。
泰英はその後姿が完全に見えなくなってから、ようやく重い息を吐き出した。
悪魔とも鬼とも言われる瑠璃子を敵に回すだなんて大それた事をしてしまった自分が信じられない。いくら望美の為とはいえ、無茶し過ぎた。
教室に戻ろうと歩き出した泰英は誰かにぶつかりかけた。瑠璃子との会話で気力を使い果たし、前をきちんと見る余裕がなかった為もある。
「すいません」
誤りの文句を言いつつ顔を向けた泰英は大きく目を見開き、固まった。
鈴音はたった今立ち聞きしてしまった話の内容と、見たことのない瑠璃子の言動に驚き、唖然としていた。
「……どういうこと?」
喉の奥から搾り出したような声。
疑問符だらけの顔をした鈴音に、泰英はどっと疲れが沸きあがるのを感じた。
(完全に、瑠璃子さんの敵になってしまった……)
*
放課後。
帰宅しようと席を立った望美は嫌な予感にさっと机の下に隠れた。だいたい感は良いほうだ。不信な顔をする美代に、唇に人差し指
を当て、ゼスチャーで伝える。
『私はここにいないことにして、お願い』
『わかった』
美代も慣れたもので目で同意の意を表す。周囲にいるものには二人が会話しているようにはちらりとも伺えない。
『私、先に帰るね』
『え?』
戸口のほうをうかがうと、帰ろうとしている元宮秋也の姿。追いかけるように出てゆく美代の姿。
(美代……)
泣き言を言いたい気持ちになる。だが、それ以上に考えなければならない問題が教室前の戸口から現れた。
「高遠さん、いる?」
男の声にざわめく女生徒の声。
(やっぱり……)
嫌な予感が的中した。何の用事があるというのだ……? もしかして昨日言っていた部活のことだろうか。
泰英は周囲にできた人垣に笑顔を向け対応しているが、それが本心じゃないことは望美が一番よく知っている。感情を隠し、他人とコミュニケーションとるのが何よりも得意な男だ。
一人が熱心に話し掛けているのだろう、泰英の目が教室内から削がれた一瞬をつき、望美は後ろの戸口から廊下へ飛び出す。忍者も格やと言うべき行動力。
それに気づいたのか泰英も動き出す。とりあえずは囲んでいる女の子達が泰英の行く手を遮ってくれるだろうが、やすやすと下校することはできないだろう。
それより問題は、泰英に協力者がいるかどうかだ。
望美がそう考えるのと目が合うのは同時だった。目の前にいた数人の学生が望美の顔にあっと驚く表情を浮かべる。
「ちっ」
無駄な人望を使って、私のこと拘束する気か。
そうとなれば……階段を駆け下りる。一階まで降りると見せかけ、二階の階段近くに隠れる。数人が走るように階下へ降りてゆく足音を聞き、じっと気配をうかがう。
この校舎にある階段は四箇所。今の階段を下りるのが下駄箱への近道だが、罠が張られれているだろう。ほかの道を選んだほうがいい。
階段を下りる連中の仲に泰英の気配はない。裏を読んで他の階段へ回ったのかもしれない。
とりあえず、一番近い音楽室に飛び込む。練習していた吹奏楽部の面々が不信そうな顔を向けるものの、部活見学の多いこの時期、すぐに興味ない顔になる。
音楽室からその横にある音楽準備室へ入る。中にも練習している上級生がいたが、気にした様子はない。開け放された窓から外を見る。
隣の窓は開いている。確か、パソコン室だっただろうか。
すばやく窓の外に身を乗り出す。練習している上級生は壁に向かっているため、望美の行動には気づいていない。
足幅ほどしかない足場をたどり、隣の部屋へ。中にはパソコン部と思われる面々がいるが、窓から乗り込んできた美代に気づく様子もなく画面に張り付いている。
そっと廊下の扉を開け、外の様子を確認する。幸いなことに誰もいない。静かに抜け出し、女子トイレに入る。
この学校には正面玄関の他に、北側に裏門と、その外れに獣道のような通路がある。下駄箱は正面玄関側にあるが駅が北側にあるため、多くの学生は裏門を使う。そして、寮生たちは獣道を。
泰英のこと、頭数をそろえて重要個所に見張りを立てているだろう。正面玄関前の下駄箱、そして、北門。この二箇所に泰英の手のものがいると見て間違いない。人数を確認しておいたほうがいいかもしれない。
廊下に出て、二年生の教室を二つ過ぎたあたりで、ちょうど中庭越しに正面玄関が伺える。
下校時間を少々過ぎ、生徒は少ない。きょろきょろとあたりを見渡している生徒が数名、待ちぼうけのような顔をしてたたずんでいる生徒が数名。泰英の手のものと思われるのは七名ほど。泰英自身の姿はない。
彼らがこちらの顔を知っているとは思えないから、泰英が特徴を教えているか、写真を見せられているかのどちらかだろう。それならば勝機もある。
女子トイレに取って返し、いつもは垂らしたままの髪をツインテールに変える。スカートも腰で折り返し、少々短めに。美代からもらった大き目のキーホルダーをかばんに取り付ける。顔見知りでもない限り、気づかれないだろう。
「これで良しと」
美代の歩調を思い出しながら歩き出す。胸は不安で高鳴っていたが、態度には表さない。堂々としていればしている分だけばれる確立は低い。
泰英は首をひねった。望美の姿を見かけてからすでに十五分が経過しようとしているが、一向に望美を捕まえたという連絡が入ってこない。
(倒されたか、拘束されたか……)
いや、と首を振る。そんな暴力的な行為はしないと誓ったのは自分の前でだ。今は嫌われているとはいえ、以前の自分にずいぶんなついていた望美が約束を破るとは思えない。
計画的な行動をしているようで、好戦的な性格から望美はずいぶん安易な道を取る。彼女の考えを読むなら単純に考えるのが一番だ。
「……下駄箱だな」
望美の性格上、靴を履き替えずに帰るとは思えない。協力者には礼とともに終了を伝える。
正面玄関まで下りた泰英は思ったとおり、そこに目的の人物を見つけた。変装しているとはいえ、望美がどんな格好をしていようとも泰英には見分ける自信がある。
「望美」
声をかけられるなど思ってもいなかった様子で、望美は慌てふためき逃げようとする。
「鈴音さんのことで話があるんだ」
「叔母様のこと?」
くるりと振り返る。望美が懐いている数少ない人間の一人、鈴音さんのことになると態度が変わるのはいつものことだ。
「場所を変えよう」
泰英は説明もせず歩き出す。振り向かなくても望美はついてきているだろう。
いつもより少々遅れて登校した望美は、教室に入ってすぐ、そこに妙なものを見つけた。いつもならば遅刻ぎりぎりでやってくる美代がすでに席についており、アンニュイな視線をどこか空中にさ迷わせている。春、ではあるが、美代の周りだけ異常に春めいた空気が立ち込めている。
意を決したように望美は美代の席に近づき、真正面から声をかける。
「おはよう」
妙に幸福そうな笑みを浮かべた美代は気づいていない。
「お・は・よ・う」
美代は望美の顔をしばらく見つめ、
「……あ、望美か。ごめん、気づかなかった」
「――みたいね。何かあったの?」
「え? 何が?」
困惑した顔。
「何があったの?」
いつも以上に話にならない。
「うん……えっとね、」
泣きそうな、嬉しそうな、不安そうな、それでいて幸福そうな。一人で百面相をしながら、美代は言葉を濁し続ける。
「ま、言いたくなったらで良いわ」
席につこうとする望美をとめ、
「違うの、あのね、」
話したくないわけではないらしい。望美はそっとため息をつき、美代の話を聞こうと向き直る。
そこへ、ドン、と戸口から壁にものがぶつかった音。振り返った望美はあからさまに顔をしかめた。
元宮秋也が大きなダンボール箱を抱えてそこにいた。狭い戸口にダンボールをぶつけたのだろう。ダンボールからはミィミィと小さな鳴き声が聞こえる。
その鳴き声につられるように数人の男女が秋也の周りに集まり、ダンボールの中を覗き込む。
「猫!」
「可愛い!」
「どうしたの?」
声を聞きつけた周りの人間も集まり、すでに人垣ができている。
「昨日転校してきたばかりの人間とは思えないわね」
望美が迷惑そうに言葉を漏らす。いつもならば同調なり、反論なり何らかの言葉を美代は返すのだが――。
「ごめん望美、後でね」
言うと、元宮秋也の元へ駆け寄っていく。昨日の宣言もあり、ざわめく教室内。美代はそんなことにはかまいもせず、元宮が運んできたダンボール箱から子猫を抱き上げる。
幸福そうに語らいながら、猫をかまっている二人。誰が見ても恋人同士にしか見えず、猫好きな面々は近寄るに近寄れない顔で周囲を取り巻いている。
望美は納得がいかない顔で自分の席に座り、眉間にしわを寄せて二人を見る。
「あれは……ただの伝説のはずなのに」
不愉快そうにつぶやく。
「――きちんと説明してもらわなきゃ」
休み時間も美代は元宮のもとへ猫を可愛がりにいったため、望美が説明を聞く時間はなかった。
昼休みにようよう彼女を捕まえ、お弁当片手に屋上に連行するように連れて行く。他にも数人生徒がいたが、話を聞かれることはない程度の込み具合。
「猫ちゃんに餌をやろうと思ってたのにィ……」
残念そうにつぶやく美代に鋭い視線を投げかけ、口元だけはあくまで穏やかに望美は微笑む。
「ちゃんと説明してくださるかしら?」
「……あ、あのね、」
美代の背中に冷たいものが流れる。席が前後だったので仲良くなったのであるが、『人間、見た目じゃない』って言葉を色濃く友人は体現してくれている。
お嬢様らしい、ふわりとした物腰。黒髪はあくまで艶やかにストレート。白く、きめこまやかな肌。大きな瞳、長いまつげ、唇は可愛らしく、リップが薄く塗られている。
絵に描いたような清楚可憐なお嬢様。が、中身はまったく違う。望美と同じ出身中学の学生が遠巻きに彼女を見ているわけが最近わかった。友達としても一癖、二癖あるのだが、敵に回すととても恐ろしい人間だということが――。
「あのさ……恋、したかも」
「は?」
「あの、ね」
美代の声はだんだん小さくなる。
「昨日ね――」
「間違いよ」
望美はきっぱり断言する。
「美代が思っているのは間違い。それは恋じゃない」
「でも、」
「でもじゃない。いい? 昨日桜を食べて、私が変人に恋するなんて妙なこと言ったでしょ? 美代は暗示にかかってるのよ。だからそれは恋じゃない!」
「違うよ」
美代はきっぱりと否定する。
「これは恋よ。望美は恋をしたこと無いからわかんないのよ」
望美の胸に突き刺さる言葉。
確かに、恋はしたことがない。それ以前に、望美は誰も信用していない。祖父の手による英才教育の賜物か、人と見ればまず疑う。そして相手を手駒とした場合、どのように使えば良いか、次に、どのように手駒にするかを考える。
美代はそんな望美にはじめてできた友達で――最初は義理の母に心配を掛けない為に仲良くし始めたのだ。学校の友達の一人として紹介するために。
「――じゃあ、どこがいいの?」
わからないと全面的に言われれば元来負けん気の強い望美は悔しくなる。書物で得た知識はあっても確かに経験がない。人との駆け引きは上手いが、相手に対し敵か味方か、有能かとるに足らない相手か、という見方しかしたことがない。
ほんの一ヶ月前の望美であれば、美代のような平凡な人間と仲良くしている今の現状を予測することさえ不可能だった。まして、昨日はっきりと宣言した美代の口から「恋した」なんて言葉を聞こうとは……。
世界は不思議に満ちている。いくら駆け引きが得意でも、その心情が伺えない人間がごまんといる。
望美はタコさんウィンナーにぶすりとフォークをつき刺し、
「昨日は『好きにならないわよっ!』って宣言してたじゃない」
あのときの美代の口調を真似る。美代は照れくさそうに一口大のコロッケを口に放り込み、
「昨日ね、見たの。捨て猫達に傘差し掛けて、頭なでてたのを」
「で?」
「でって……こう、ビビビっと来たのよ」
その時の猫たち(今朝、元宮がダンボールに入れてつれてきた猫達)が、いかに可愛らしかったか、また動物の可愛らしさについて熱い口調で語り始めた。将来の夢は第二のムツゴロウ王国を作ること、なんて公言してはばからないだけのことはある。
望美は絶望的にため息をついた。
美代も変人だったのね――。
望美は弁当を食べながら、壊れたラジオのように言葉を流しつづける友人の声を聞き流していた。
5:時効はない (消化お題:学園祭は焼け跡で
「鈴音ぇ、今からお昼? よかったら食べない?」
瑠璃子が三段重ねの重箱片手に理事長室を訪れたのは、鈴音がちょうどお昼を食べようかと椅子から立ち上がったときだった。
タイミングが良過ぎると望美であれば胡散臭く思うところだが、鈴音はそんな風に思わない。昔から、瑠璃子は妙な具合にタイミングが良い、とは思っていても、それを深く疑ったことがない。すべてを『瑠璃子だから』の一言で済ませている。いちいち天然な瑠璃子の言動を疑っていたら、精神的に疲れきってしまうからだ。
勝手知ったるなんとやらで、瑠璃子は来客用の机の上に弁当を広げ、
「鈴音の好きな鰤《ぶり》の照り焼きにぃ、出汁《だし》巻き卵もあるのよぉ」
「じゃあ、いただくわ」
立ち上がったついでにお茶を用意する。
「――今日はどうしたの?」
「何がぁ?」
「何がって――お弁当までこしらえて何か用なの?」
瑠璃子からは妙に浮かれた気配が漂っている。今日は何の日だっただろうか。瑠璃子の旦那が関連していれば、そちらに出向くはずだし、こんな風に念入りな昼食を作って持ってくるともなれば自分に関連したこと。でも……。
「私、誕生日じゃないけど?」
狐につままれたような顔をした鈴音を瑠璃子はおかしそうに見つめ、
「たまにはお昼、鈴音と食べたいなぁと思ってぇ」
言われてみれば、菓子を一緒に食べることはあっても、昼食をともにするのはずいぶん久しい。
お茶を一口すすった瑠璃子は感慨深げにつぶやく。
「ここに在学していた頃を思い出すわねぇ」
「そうね」
相槌をうった鈴音だったが、嫌なものが脳裏を横切り、笑みは曖昧なものになる。あれは拓真が悪いのであって、私は悪くない――いくら自分に言い訳しても、罪の意識は消えない。
「それにしてもぉ、旧校舎はなんで燃えちゃったのかしらねぇ?」
嫌な汗が一滴。鈴音は料理と黙々と口に運ぶ。
大変おいしい料理なのだが、あまり美味しく感じることができない。今すぐその話題をうやむやにしたいが、そのような事をすれば妙に勘のいい瑠璃子のこと。気づかれる可能性がある。
「学園祭、焼け跡でやったでしょぉ? 焼け残った木材やらは撤去されたけれどぉ、地面が真っ黒でぇ――だから妙に頭に残ってるのよねぇ」
その原因を知るのは拓真と鈴音だけ。だが、瑠璃子は何かとその原因を鈴音に尋ねてくる。瑠璃子が何か知っているのではないか、とも勘ぐってみるが、そんなはずはないと鈴音は自分をなだめる。目撃者はいなかったし、その後、誰にも咎められなかったのだから。
あの火事のあった日はちょうど鈴音の誕生日だった。
「鈴音ぇ、これぇ」
七限目の授業が始まる間際、瑠璃子から小さな紙片が手渡された。
「何?」
「忘れないでねぇ」
先生が教室に入ってきたこともあり、瑠璃子は小さく手を振って席へと戻る。鈴音は紙片に書かれた文字を見て、首をかしげた。
『放課後、旧校舎へ。大事な話がある』
大事な話とは何だろう? そもそも、始終一緒にいるのだからいつ話してもよさそうなのに、なぜ放課後なのだろう?
授業を終えてから問いただせば良いかと思っていたのだが、その日はなぜか、瑠璃子はすばやく教室から姿を消していた。いつもはどちらかといえば鈴音がいなければ何もできないようなタイプなのに、時々、妙に行動がすばやく、鈴音が捕まえきれないところがある。
仕方なく、授業が終わってから旧校舎に足を踏み入れる。つい先日まで倉庫代わりに使用されていたのだが、解体間際の今では物が少ない。妙な居心地の悪さ、薄気味の悪さが漂う。
「瑠璃子~」
声をかけながら、教室一つ一つを覗いてゆく。旧校舎なんてアバウトな場所なので、どこに彼女が潜んでいるかわからない。
二階の一室、妙に赤い、ほんのりとした光が漏れてくる部屋を見つけた。
「瑠璃子?」
覗き込んだ鈴音に向かい、頭上から紙ふぶきが舞った。頭上には割れたクス玉。
事態が飲み込めず、目を白黒させていた鈴音だったが、目の前にいる川上拓真に気づき、眉間に皺を寄せる。
「何であんたが!」
「お誕生日おめでとう」
「……は?」
一瞬何のことかわからず、首をかしげる。
部屋は綺麗に飾り付けられ、ロウソクの明かりがともされたそこは雰囲気のいいレストランの一角といった様相。旧校舎の一室だとは到底思えない。
部屋の奥にそびえる巨大なケーキ。ロウソクと花火がいっそう派手にケーキを彩っている。手前には白いテーブルクロスの掛かった机が置かれ、美味しそうな料理が並んでいる。
「すごい……綺麗……」
「鈴音、おめでとう。喜んでもらえて嬉しいよ」
嬉しそうな拓真の声。大きなバラの花束を抱えながら近づいてくる。そこで我に返った。
「瑠璃子の名を語って呼び出すなんて卑怯だわ」
「え?」
拓真は一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに、
「これ、プレゼント」
いつもながらに鈴音の嫌いな拓真の笑顔。単純に嬉しそうな、けれど何か裏がありそうな顔。
「いらない」
教室を去りかけた鈴音を拓真は熱心に引き止めようとする。
「受け取ってよ」
「いらないったら」
「他のもののほうが良かった?」
「何もいらない。ついでに、あんたがいなけりゃもっと嬉しいわよ」
「鈴音」
「気安く人の名前を呼ばないで」
「待ってよ、鈴音」
「人の名前を呼ばないでってば。ついてこないで」
走り出す。
が、旧校舎を出た辺りで腕をつかまれる。押し問答を繰り返していた二人が火事に気づいたのは、ずいぶん経ってからだった。ケーキの火が引火したらしいことは目に見えて明らかだった。
「えぇっと、私も詳しくは知らないわねぇ……」
冷や汗を流しつつ、瑠璃子の作った出し巻き卵に手を伸ばす。口に入れると、ふわりと溶ける。甘すぎず、辛すぎず、卵の風味が生かされた味。何度食べても最高。
「美味しい。出し巻きは瑠璃子の作ったのが一番ね」
「いっぱい食べてね」
しばらく無言で食事を楽しんでいたのだが、お腹が良くなってくるとやはり、瑠璃子の来訪目的が知りたくなる。二日続けて、しかも弁当まで持参など今までにない展開だ。
「今日は何の日なの?」
瑠璃子は楽しそうに微笑むだけ。
「何かあったの?」
尋ねても、首を傾げとぼける。
「何かあるの?」
「ヒント、いるぅ?」
「そりゃ……あるなら」
「ヒントはねぇ、鈴音」
「私?」
鈴音の顔にクエスチョンマークが増える。
「私のこと? 何のこと、一体?」
「うふふ……」
答えを言う気はないらしい。
手早く重箱を重ねると、
「あんまり長居してたらぁ、しゃべりたくなっちゃうから今日は帰るねぇ」
瑠璃子は入ってきた時同様嬉しそうなオーラを撒き散らしている。
「ちょっと、何なのよ? 私に関係することって」
ドアに手を掛けた瑠璃子に、すねた顔で鈴音は尋ねる。
ちらりと後ろを振り向いた瑠璃子は仕方がないといった表情で、
「川上拓真が日取りが決まったって」
「……本当に?」
鈴音は右手の茶碗を落としそうになり、慌てて机の上に置く。嬉しさのあまり声も出ないとはまさしく今の状態。
「相手は天使?それとも女神?よくもまぁ、あの川上拓真と――婚約したってだけでも凄いのに、結婚するだなんて――」
「本当にねぇ。拓真ちゃん、世界中で一番好きな相手とやっと一緒になれるのねぇ」
瑠璃子の囁きは舞い上がった鈴音には届かない。
「じゃ、帰るわねぇ」
「またね」
うつつな鈴音は適当に返事を返し、部屋の中を居ても立ってもいられない様子でぐるぐる歩き回る。
(拓真が結婚!拓真が結婚!拓真が結婚!!)
頭の中をその単語が何度も巡り、午後からの仕事は手につきそうにない。急ぎの用事もないから、連続になるが早退しても差し支えないだろう。とにかく気を落ち着けなければ仕事が手につかない。
6.地獄巡り(消化お題:我々なりの漂流教室
「瑠璃子さん」
正面玄関の前で瑠璃子を呼び止めたのは安達泰英だった。授業はすでに始まっている時間帯――。
「泰英ちゃん、何か御用ぉ?」
嬉しそうなオーラ全開の瑠璃子に、泰英は眉をしかめた。普段、高遠鈴音が近くにいない時、彼女はおっとりしたしゃべり方はしない。見慣れない振る舞いを見せる彼女が気持ち悪い。いつものように本心を隠した瞳に、含みのある笑みを浮かべた善人ぶった顔の方がまだましだ。
それを悟ったのか、瑠璃子は顔に浮かべていた笑みを純真なものから裏のあるものに変える。一瞬の、ほんのちょっとした変化だが、まるで別人。
泰英は睨まれでもしたかのように、目に力を入れる。
「拓真さんと鈴音さんをついに結婚させるんですか?」
「……人聞きの悪いこと言わないでくれるかしら? 鈴音は、自分で自発的に拓真ちゃんと結婚するのよ?」
「裏であなたが手を引いていること、知らないのは鈴音さんだけですよ」
「むぅ」
可愛らしく膨れてみせる。
「それより、望美ちゃんの方はどうなの? あなたの手には余ってるんじゃないの?」
「関係ありません」
「あら、鈴音の親族は私の親族も同じ。関係ないことないわ」
「……鈴音さんに全てを話しますよ」
「鈴音が信じると思っているの?」
「望美が望んでいないことなら、僕は望美の願い通りの形になるよう努力するまでです」
その言葉に瑠璃子はぎろりと泰英を睨み付ける。
「私の敵に回る気?」
「望美の為なら」
真剣な瞳の泰英から視線をそらし、瑠璃子は息をつく。
「――話にならないわね。お子ちゃまの一存で鈴音の一生を台無しにしようだなんて」
「でも、あなたにも鈴音さんの一生を決める権利はない」
「いいのよ、私は」
瞳の奥に怪しい光を浮かべ、笑う。
「私は鈴音を幸福にする義務があるわ。あなたが望美ちゃんに恩義を感じているように、私も鈴音に恩義がある。だから、なんとしてでも鈴音には幸福になってもらわなきゃならないの」
「あなたの描く幸福と、鈴音さんの描く幸福が違ってもですか?」
「違わないわ。何をすれば一番いいのか、私はわかっている。当人には見えなくても、周囲の人間には見えることがあるのよ」
「それはあなたの我侭に過ぎない」
「何とでも言いなさい。青二才にはわからないことよ」
身をひるがえし瑠璃子は立ち去る。
泰英はその後姿が完全に見えなくなってから、ようやく重い息を吐き出した。
悪魔とも鬼とも言われる瑠璃子を敵に回すだなんて大それた事をしてしまった自分が信じられない。いくら望美の為とはいえ、無茶し過ぎた。
教室に戻ろうと歩き出した泰英は誰かにぶつかりかけた。瑠璃子との会話で気力を使い果たし、前をきちんと見る余裕がなかった為もある。
「すいません」
誤りの文句を言いつつ顔を向けた泰英は大きく目を見開き、固まった。
鈴音はたった今立ち聞きしてしまった話の内容と、見たことのない瑠璃子の言動に驚き、唖然としていた。
「……どういうこと?」
喉の奥から搾り出したような声。
疑問符だらけの顔をした鈴音に、泰英はどっと疲れが沸きあがるのを感じた。
(完全に、瑠璃子さんの敵になってしまった……)
*
放課後。
帰宅しようと席を立った望美は嫌な予感にさっと机の下に隠れた。だいたい感は良いほうだ。不信な顔をする美代に、唇に人差し指
を当て、ゼスチャーで伝える。
『私はここにいないことにして、お願い』
『わかった』
美代も慣れたもので目で同意の意を表す。周囲にいるものには二人が会話しているようにはちらりとも伺えない。
『私、先に帰るね』
『え?』
戸口のほうをうかがうと、帰ろうとしている元宮秋也の姿。追いかけるように出てゆく美代の姿。
(美代……)
泣き言を言いたい気持ちになる。だが、それ以上に考えなければならない問題が教室前の戸口から現れた。
「高遠さん、いる?」
男の声にざわめく女生徒の声。
(やっぱり……)
嫌な予感が的中した。何の用事があるというのだ……? もしかして昨日言っていた部活のことだろうか。
泰英は周囲にできた人垣に笑顔を向け対応しているが、それが本心じゃないことは望美が一番よく知っている。感情を隠し、他人とコミュニケーションとるのが何よりも得意な男だ。
一人が熱心に話し掛けているのだろう、泰英の目が教室内から削がれた一瞬をつき、望美は後ろの戸口から廊下へ飛び出す。忍者も格やと言うべき行動力。
それに気づいたのか泰英も動き出す。とりあえずは囲んでいる女の子達が泰英の行く手を遮ってくれるだろうが、やすやすと下校することはできないだろう。
それより問題は、泰英に協力者がいるかどうかだ。
望美がそう考えるのと目が合うのは同時だった。目の前にいた数人の学生が望美の顔にあっと驚く表情を浮かべる。
「ちっ」
無駄な人望を使って、私のこと拘束する気か。
そうとなれば……階段を駆け下りる。一階まで降りると見せかけ、二階の階段近くに隠れる。数人が走るように階下へ降りてゆく足音を聞き、じっと気配をうかがう。
この校舎にある階段は四箇所。今の階段を下りるのが下駄箱への近道だが、罠が張られれているだろう。ほかの道を選んだほうがいい。
階段を下りる連中の仲に泰英の気配はない。裏を読んで他の階段へ回ったのかもしれない。
とりあえず、一番近い音楽室に飛び込む。練習していた吹奏楽部の面々が不信そうな顔を向けるものの、部活見学の多いこの時期、すぐに興味ない顔になる。
音楽室からその横にある音楽準備室へ入る。中にも練習している上級生がいたが、気にした様子はない。開け放された窓から外を見る。
隣の窓は開いている。確か、パソコン室だっただろうか。
すばやく窓の外に身を乗り出す。練習している上級生は壁に向かっているため、望美の行動には気づいていない。
足幅ほどしかない足場をたどり、隣の部屋へ。中にはパソコン部と思われる面々がいるが、窓から乗り込んできた美代に気づく様子もなく画面に張り付いている。
そっと廊下の扉を開け、外の様子を確認する。幸いなことに誰もいない。静かに抜け出し、女子トイレに入る。
この学校には正面玄関の他に、北側に裏門と、その外れに獣道のような通路がある。下駄箱は正面玄関側にあるが駅が北側にあるため、多くの学生は裏門を使う。そして、寮生たちは獣道を。
泰英のこと、頭数をそろえて重要個所に見張りを立てているだろう。正面玄関前の下駄箱、そして、北門。この二箇所に泰英の手のものがいると見て間違いない。人数を確認しておいたほうがいいかもしれない。
廊下に出て、二年生の教室を二つ過ぎたあたりで、ちょうど中庭越しに正面玄関が伺える。
下校時間を少々過ぎ、生徒は少ない。きょろきょろとあたりを見渡している生徒が数名、待ちぼうけのような顔をしてたたずんでいる生徒が数名。泰英の手のものと思われるのは七名ほど。泰英自身の姿はない。
彼らがこちらの顔を知っているとは思えないから、泰英が特徴を教えているか、写真を見せられているかのどちらかだろう。それならば勝機もある。
女子トイレに取って返し、いつもは垂らしたままの髪をツインテールに変える。スカートも腰で折り返し、少々短めに。美代からもらった大き目のキーホルダーをかばんに取り付ける。顔見知りでもない限り、気づかれないだろう。
「これで良しと」
美代の歩調を思い出しながら歩き出す。胸は不安で高鳴っていたが、態度には表さない。堂々としていればしている分だけばれる確立は低い。
泰英は首をひねった。望美の姿を見かけてからすでに十五分が経過しようとしているが、一向に望美を捕まえたという連絡が入ってこない。
(倒されたか、拘束されたか……)
いや、と首を振る。そんな暴力的な行為はしないと誓ったのは自分の前でだ。今は嫌われているとはいえ、以前の自分にずいぶんなついていた望美が約束を破るとは思えない。
計画的な行動をしているようで、好戦的な性格から望美はずいぶん安易な道を取る。彼女の考えを読むなら単純に考えるのが一番だ。
「……下駄箱だな」
望美の性格上、靴を履き替えずに帰るとは思えない。協力者には礼とともに終了を伝える。
正面玄関まで下りた泰英は思ったとおり、そこに目的の人物を見つけた。変装しているとはいえ、望美がどんな格好をしていようとも泰英には見分ける自信がある。
「望美」
声をかけられるなど思ってもいなかった様子で、望美は慌てふためき逃げようとする。
「鈴音さんのことで話があるんだ」
「叔母様のこと?」
くるりと振り返る。望美が懐いている数少ない人間の一人、鈴音さんのことになると態度が変わるのはいつものことだ。
「場所を変えよう」
泰英は説明もせず歩き出す。振り向かなくても望美はついてきているだろう。
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