あなたの好きな人。(1/3)
プロローグ
赤い夕日が沈んでゆく。世界を黄昏色《たそがれいろ》に染めあげ、名残惜しそうな光を雲に投げかけながら、ゆっくり、確実に。
一級河川ではないが、この町で一番大きな川。両岸は整備され、芝生とタイルが張られている。所々にベンチ。先ほどまであった犬の散歩をする人や、ジョギングする人たちの影はすでに無い。取り残されたように、二つの人影。
染め上げられた赤銅色《あかがねいろ》の川面に少年――大介はどこから見つけてきたのか、足元に石山を築いている。一つ手にとり、思い切り川へ――。水面に三つの円を描き、石は川底に沈んでゆく。
「今度は良く飛んだじゃん」
ベンチに座り込み、ぼんやりした表情の女子高生――絵里。
「さっきより少ないよ」
大介は絵里の顔を見ることなく、すねた口調。
「そうだっけ?」
いつもならばまだみんなで遊んでいる時間だが、今日は週に一度の塾の日。みんなは塾に行ってしまった。ただ一人、塾に通っていない大介は絵里を独占でき、とても嬉しかった。
けれど。最初は二人で遊んでいたのだが、何をやっても二人だけだと面白くない。絵里は飽きてしまったのか、座り込んで動かない。時折大介に茶々《ちゃちゃ》を入れるものの、立ち上がる様子はない。だから大介も一人で遊んでいるしかない。
大介は石を拾ってまた投げる。
強く投げすぎたのだろう。石は大きな波紋を一つ作るとそのまま沈んでしまった。
「ストライク」
「違うって」
足元の石に手を伸ばしたところで、母・久子の声が響く。
「大介、ご飯よ。帰ってらっしゃい」
「わかったー!」
ベンチに座り込んだ絵里を見る。沈んでゆく夕日を見つめたまま、大介に目もくれない。
歩き出した大介だったが、
「絵里ちゃんはいつ帰るの?」
不安になって振り向く。このまま夕日とともにいなくなってしまいそうな気がして。
「もうちょっとしたら」
絵里は夕日を見つめたまま。
「もうちょっとってどのくらい?」
「大介、ご飯だって言ってるでしょ!」
久子の声が近づいてくる。大介は慌ててリュックから目覚まし時計を取り出す。
「これ、あげる」
ベンチの端に置き、駆けてゆく。
青い縁《ふち》の目覚まし時計。今日こそは久子が呼びに来る前に帰ろうと、腕時計を持ってない大介はリュックにいれて来たのだ。
水音にかき消されそうな小ささだが、正確に時を刻む音。大介の気配が消えると、絵里はそっと振り向き時計を手に取った。
一.
「月日が経つのは早いもんね」
回覧版を持っていったはずの母・久子が帰って来たのは、ゆうに一時間は経過した頃だった。いつもの井戸端会議で花を咲かせていたらしい。
「私も歳をとったもんだわ、嫌になる」
お茶とおせんべを手早く用意し、ソファに腰掛ける。チャンネルを替えながら、誰に言い聞かせる風でも無く自動的に、井戸端会議で聞いたニュースをしゃべっていく。
母がいないことを良いことにリビングのソファに深々と腰を掛け、テレビをつけっぱなしのまま、雑誌を広げていた大介は自室へ引き上げようかどうしようか迷いながら、適当に相槌を打っていたが、
「今、何て?」
いつもなら完全に聞き流してしまうところだったが、その名前に反応して。
「草上さんちの絵里ちゃん。もう二九歳ですって」
「へー」
当然の事と言えば当然。絵里は大介より六歳上なのだ。わかってはいても、他人の口から聞くと妙な焦りを覚える。
「早くいい人見つかればいいのにねぇ」
「あんな男女、一生無理だろ」
無関心を装って、再び雑誌に目を落とす。
大介が小さな頃、絵里は遊び仲間の一人だった。小学生に混じって、当時女子高生だったはずの絵里は探検ごっこや昆虫採集に参加していた。
だが、大介が小学六年になる頃、彼女は遊ぼうとしなくなった。受験勉強をしている、と聞いたのは誰からだったか。当時は意味がわからず、ただただ彼女がなぜ突然勉強などやり始めたのかに戸惑いを覚えたものだ。
仲間内で一番木登りが上手く、昆虫採集もお手の物。草木、虫の名前にも詳しい、絵里はそんなヤツだった。
「あら、そんなことないわよ。絵里ちゃん、今度お見合いするんですって。話がまとまればあっという間よ」
「み、見合い? 絵里が?」
「お見合い写真見せてもらったけど、なかなかの男前だったわよ」
母は相手の男の特徴、職業、趣味などをあげつらう。
「――こんな条件のいい相手、今時いないんじゃない?」
「絵里は、なんて?」
大介は無理やり平常を装い尋ねる。だが、顔が引きつっていないか、声が震えていないか、自分でも自信がない。
「喜んでるんじゃない?」
「……」
「ちょっと大介?」
不意に部屋を出て行く息子に声をかける。
「どこいくの?」
「部屋」
「夕飯には降りて来なさいよ」
男の子は成長すると何を考えてるんだかわからない。久子はそんな事を思いつつ、ろくな番組をやっていないのでテレビを切り、早々と夕食の仕度にとりかかった。
大介は自分の部屋に引き上げ、パソコンの電源を入れる。パソコンデスクの背後には天井まで届く本の背表紙の壁。部屋には机とベット、大きな本棚が押し込まれ余分なスペースは無い。けれど、本は増えつづけている。
下で読んでいた雑誌をもう一度開いてみるが、読む気にはならない。目を上げると、まだ起動中の画面。表示速度は遅い。いつも以上にイライラする。三年前にアルバイトしつつ一年ローンで買ったパソコンだから、仕方ない。
ようやくデスクトップが表示され、続いてメッセンジャーが起動する。
マックス:こんにちは。今日は早いね
彼女は偶然画面の前にいたらしい。彼女を示す画像は、いつもながらにふてくされた顔の犬。絵里の家で以前飼っていたブルテリアのマックスだ。
ds:こんにちは
マックス:この間言ってた本、面白かったよ
ds:良かった
ds:でも、良く見つけたね。あの本、なかなか手に入らないと思うんだけれど
マックス:友達に貸してもらった
絵里に本を勧めたのは大介。そして、貸したのも大介。絵里は「ds」の正体に気づいていない。
大介がメッセンジャーを始めたのは二年ほど前。話し相手を探し、相手の公開プロフィールを見ていた時、偶然、見知った犬の写真が目に入った。チャットしてみて、それが絵里であるとすぐにわかった。
マックス:他にもオススメある?
ds:あるけど……手に入りにくい
マックス:教えて!
マックス:探すから
タイトルをニ、三列挙する。どれも絶版か、廃盤で入手困難な物ばかり。しばらく絵里の書込みは無く、時間が過ぎる。
マックス:本当だ、無いね
マックス:あっても取り寄せ……
ネット上の本屋で検索をかけたのだろう。いつもながらに行動が素早い。
ds:友達に当ってみたら?
マックス:そうだね。そうする
マックス:持っててくれると良いな
絵里が『友達』に寄せる信頼。大介自身の事なのに、何故だか腹立たしい。今すぐ、全てを暴露してしまおうか?
ダメだ。そんな事はするべきじゃない。せっかく正体を伏せ、絵里と友達になっているというのに。
マックス:ds?
マックス:いない? ds?
しばらく返事を返さないでいると、絵里が呼びかけていた。
ds:ごめん
マックス:忙しいの?
ds:いや、別に
マックス:忙しいんだったら落ちるよ?
ds:大丈夫
ds:ちょっと話あるんだけど、いい?
マックス:いいよ、何?
絵里は面倒見が良い。人の相談にはすぐ乗ってくる。
ds:彼女結婚するかも
マックス:え? 告白しようかって言ってた相手?
マックス:ds結婚するの?
ds:そう
ds:違う。結婚するのは彼女
マックス:彼女が誰かと結婚するって事? 告白したの?
ds:そう。告白はまだ
マックス:まだ告白してないの? 早く言ったほうが良いよ
出来ればしてる。
どんなに時が経とうと絵里との年齢差は縮まない。絵里は常に年上で、自分は常に年下。その関係も変わらない。
自分はまだ若い。比べ、絵里は二九歳。自分が告白して、良い答えが返ってくる率は低い。その上、良い答えが返ってくるとしたら即結婚を迫ってくる可能性は限りなく高い。
どうすれば良いか。どうすれば最善なのか。
このところ、頭の中をフル回転させている問題は、当人には重大でも、他人にはたいした事の無い話なのだろう。アドバイスはやたら「告白しろ」しかない。
マックス:男は当って砕けろ
ds:わかってるけど、いざとなると言えない
ds:ストレートな方が好き?
マックス:告白はストレートな方が成功率高いと思うよ
マックス:って、もしかして私に聞いてる?
ds:そう
マックス:時と場合によるかな。あと、相手
相手。相手による……大介は頭を抱える。何度頭の中でシュミレーションしてみても答えはでてこない。
マックス:彼女、結婚するって誰と?
ds:結婚と言うか、見合い
マックス:じゃ、まだわからないじゃない?
ds:いや、こっちの分が悪過ぎ
マックス:彼女が見合い相手を気に入ってるの?
わからない。どうなんだろう? 好条件だと母は言っていた。そして、
「喜んでるんじゃない? ……喜んでる……喜んで……」
母の声が脳内に響く。絵里は、昔の絵里ならばそんな事はありえないと言いきれるけれど、現在の、三十歳目前の絵里はどうなのだろう? 見合いをするって事はやはり結婚願望があるって事で……。
ds:条件良ければ結婚するよな、見合いだし
マックス:いや、相手と会って見なけりゃわからないでしょ?
ds:マックスはどうする?
マックス:どうって?
ds:見合い相手が好条件で、特に相手もいないとき
「晩御飯出来たわよ~!」
母の声が家中に響き渡る。
「わかった!」
早く食卓へ向かわなければいけない。マックスはまだ応答のメッセージを入力していない。じりじりとした焦り。
「大介、早く降りていらっしゃい!」
「わかったって!」
「ダイスケ~♪」
母が歌い出した。一歩ずつ、踏みしめるように階段を上ってくる音が聞こえる。
夕食は全員そろってが唯一の家訓だから、守れない場合はかなり強制的だ。
ds:ごめん、落ちる
挨拶もそこそこにパソコンの電源を切る。
「夕飯出来たって母さん言ってるのよ~♪ 聞こえないの~♪」
「わかってるって」
大介が部屋のドアを開ければ、そこには母の姿。
「まったく、呼んだらさっさと来なさい。何してたんだか知らないけど」
「わかったって言っただろ?」
「聞こえません~♪」
「自分が歌ってるからだろ」
見せ付けるようにため息をつくが、母には通用していないことは今までの経験からわかりきっている。
二.
「あ、」
草上絵里は思わず声を上げた。パソコンの画面には相手の不在を告げるメッセージ。
「ds落ちたか……」
軽い落胆と共にメッセンジャーを閉じ、メールの確認を行う。たまたまメールチェックをしようとしていたところにdsがやってきたのだ。
絵里がネットを始めたのは大学生の頃。進学した大学は他県にあり、一人暮らしを始めた絵里にとって、友達は多いほど良かったからだ。
その頃は趣味の合う人とチャットやメールのやり取りをしていたのだが、大学卒業と共に離れ離れになった友人とやり取りをするだけになってしまった。仕事でパソコンを使っているのに、家に帰ってからパソコンに向き合う気にはなれなくて。
メッセンジャーを始めたのは数年前、友人に勧められてだ。dsと知り合ったのはその後、ここ二年くらいになるだろうか。彼の方から突然、絵里に話し掛けてきたのだ。最初は戸惑っていた絵里だったが、相手がただ犬好きで、自分と趣味の話以外しようとしない事がわかると、友達以上に彼との会話が楽しくなっていた。
「状況、似てるんだよね」
dsがどこの誰だか絵里は知らない。わかっているのは、彼とは趣味が合い、話が合い、告白したい彼女がいるってこと。
そして、その彼女は今度、自分と同じように見合いをするらしい。彼の気持ちなど知らないまま。
『条件良ければ結婚するよな、見合いだし』
彼の言葉が頭に引っかかる。まるで自分の事を言われているみたいで。
「いい人が見つかるまでのんびり探せば良いのよ」
「運命の人が早く見つかればいいわね」
「今は晩婚が流行りっていうのかしら? だから大丈夫よ」
そんな決り文句を聞きはじめたのはいつからだったか。何度も聞いているうち、現状で満足しているはずの絵里も三十歳目前に焦らなければならないような気になる。
結婚願望がないわけじゃないけれど、今すぐ結婚したいわけでもなく、相手もいない。それに「いい人」なんてものが道端にごろごろ転がっているわけでもなく、店先でワゴンセールをやっているわけでもない。どこでどう見つければいい物やら絵里には皆目検討がつかない。
「お見合い結婚か」
声に出してみて、おかしくなる。自分が結婚して、子供を育ててるなんて未来図が思い描けない。
両親に言わせればいつまでも子供っぽいせいなのかも知れないが……お見合いは、結婚を前提としてお付き合いする相手を選ぶのだ。相手は真剣、だからこちらも真剣に。自分に言い聞かせてはみるものの、やはりどこか滑稽さを感じずにはいられない。
『マックスはどうする? 見合い相手が好条件で、特に相手もいないとき』
dsの言葉が頭の中に響く。
「そりゃ結婚するわね」
なんて簡単に返せなかった。自分が今、その立場にあるから。
『どうする?』
どうすれば良いんだろう。条件が良いから結婚する? 付き合っているうち、相手を好きになる?
母に言われ、品書きは穴が開くほど目を通した。それは相手も同じだろう。相手のデータは持っているが、肝心の本人には会った事が無い。いや、明後日には国際ホテルで会食をする事になっている。
手元にある見合い写真を開く。写真の中の相手はお見合い用の妙に優しげな笑みを浮かべ微笑んでいる。
奇妙な事だ、と絵里は思う。相手のデータは知っているのに会った事が無い。会った事の無い相手に向かって、こうやって好意的な笑みを浮かべているのだから。
「この人と結婚するの? 私」
何だか妙だ。妙な具合だ。そう思うとクスクスと笑えてくる。
「何笑ってんの、絵里」
母が奇妙な顔で部屋の中を覗き込む。
「何?」
「夕飯、手伝って」
「はいはい」
パソコンの電源を切る。
三.
「あ、篠田君」
バス停の前に佇んでいるスーツ姿の人影に絵里は元気良く手を振る。篠田大介は絵里の姿を見とめはするものの、はにかんだような笑みを一瞬浮かべるだけですぐ硬い表情に戻る。
「おはよう!」
「……はよ」
通勤時間のバスは込み合うから、絵里は早起きして一つ前のバスに乗ることにしている。大介も同じ考えのようで、良く一緒のバスに乗り込む事になる。
絵里がやってきて数秒し、バスが滑り込んできた。今日もぎりぎり間に合った。絵里は胸をなでおろし、大介に近い席に陣取る。
「あのさ、篠田君。またまたで悪いんだけど小説貸してくれない?」
「何?」
大介はいつもながらにぶっきらぼうだ。けれど、大人びた仕草をしようと努力していることが伺え、小学校に入る前から知っている身としては成長したなぁと感慨深い。
近所の子供達の中で誰よりも絵里を慕っていたのが大介だった。常に絵里の後をついて歩き、絵里が何かするたびにキラキラしたまなざしを向けていた大介。絵里が大学へ進学し、一人暮らしをしている間に大介は変わってしまった。
見下ろしていたはずの絵里が逆に見下ろされ、どちらかと言うと可愛らしい容貌をしていたのに、すっかり男らしくなってしまった。かわいらしい声で「絵里ちゃん」と呼んでいたのに、生意気にも「絵里」と低い声で呼びはじめた。成長したというべきなのだろうが、昔を知る絵里にとってそれはちょっと寂しい。
「えーと――」
鞄から手帳を取り出し、昨日書きとめた書名を見せる。大介はさっと目を通し、
「あぁ、ある」
「じゃ、貸して」
「わかった」
ちらりと絵里の顔色をうかがう。
「何? こないだみたいにアイス奢って欲しいの?」
「いや、」
「好きでしょ? チョコミント」
「好きだけど……」
何故かすねたような口調。
「何? パフェ?」
「違う」
「じゃ何? ケーキセット?」
大介は昔から甘党だ。
「違うって。もういい」
「いいって何よ、お姉さんに言ってみなさい。こっちは社会人なんだからね」
言ってから、ふと気づく。大介も今年から社会人だった。
「いいって」
「良くないわよ」
年上としての体面ってものがある。一度言った言葉をそうやすやすと引っ込めるわけにもいかない。
終点の駅前に到着する。ぞろぞろと、他の乗客に続いてバスを降りる。その波に流されるように二人は駅へと向かう。
改札を抜けたところで絵里が大介を呼び止める。
「あ、そうだ。今日の六時に駅前の広場で待ってるから」
「え?」
「夕食奢ってあげるわ。高くないのを」
「本当にいいんだけど」
「待ってるからね」
一方的に宣言し、絵里は二番ホームに向かう。
四.
絵里の姿を見送った大介の頭は半分パニック状態だった。
まさか夕食に誘われるとは思ってもいなかった。絵里が奢るというのがちょっと難点だが……。
今朝、大介は告白しようと思っていたのだ。時と場所を選ぶべきだというのはわかっているが、時間がない。それに彼女と会うのは朝しかない。彼女の顔を見るため、彼女と会話するために早起きしているのだ。お見合いがいつなのか知らないが、とにかく日数が無い。
『男なら当って砕けろ』
覚悟を決め、いつも以上に早起きしてバス停で絵里を待っていたのに、絵里はギリギリにやってきた。バスの中でもいつもながらに絵里が一方的に話していたため、何も言う事が出来なかった。どうしようかと思っていた大介だったが、絵里の方から誘ってくれるとは思わなかった。
二人で夕食ってどこで? 何を?
期待と不安の並が交互に大介を襲う。
高くないところ……ファミレスはダメだ。蕎麦屋、うどん屋も却下。居酒屋はもちろんダメだろう。じゃあどこで?
あぁ、まるでデートみたいだな。スーツ良いやつ着てくれば良かった。二日前と同じスーツだし、これ。着替えに戻るか? いや、それは不自然か。でもちょっとばかりこれは……。
大介が乗る電車がまもなく到着すると言うアナウンスで、不意に我に返る。電車が入ってくるのは一番向こうのホームなのだ。急いでも間に合わない。一本電車を遅らせるしかない。
こんな状態で仕事出来るのか、俺? でも仕事休めないしな……。
大介は頭を抱えつつホームへ向かった。
五.
「ごめん、待った?」
絵里は遅れてやってきた。十七分の遅刻だ。待っている間、大介の心臓は緊張と不安で止まりそうだった。
朝と同じ薄い水色のスカートにフリルのついた白のブラウス。ジャケットはブラウスと同じ白。アクセサリーはシンプル。化粧はあくまでナチュラル。朝と違うのは髪をアップにまとめていること。いわゆるきれいなお姉さん、だ。全体的に清潔感があり、清涼感があり、何より良く似合っている。自分のこの格好はつりあいが取れているのだろうか。悩む大介のことなど絵里は気づきもせず、
「どこ行く? ファミレス? 居酒屋?」
チェーン展開している店の名前を数店あげる。
「いや、えっと――」
昼休みを半分つぶして探した店の名前を告げる。南欧風家庭料理を食べさせてくれるという、写真で見る限りこじゃれた雰囲気の店だ。赤レンガに深い緑色のツタの概観。内部は黒い木製テーブルに、ランプの落ち着いた灯り。カントリー風の手作り雑貨が壁を彩り、家庭的な雰囲気を醸しだす、欧風の田舎の一軒家。料理の値段もお手ごろとあったから、そう高くも無いだろう。
「どこそれ?」
「ここから歩いて五分くらい」
「へー知らなかった。彼女とデートで行ったの?」
「違う!」
思わず声が大きくなり、ギクリと大介は固まった。絵里は不自然な笑みで大介を伺う。
「ええっと……ごめんね……」
触れてはいけない過去に触れたのだと言うような気遣いで、絵里が無難に天気の話を始め、大介はパニックしかかった頭で相槌だけを打つ。
相手を先導する道すがら、大介には拷問のような時間が流れた。
赤い夕日が沈んでゆく。世界を黄昏色《たそがれいろ》に染めあげ、名残惜しそうな光を雲に投げかけながら、ゆっくり、確実に。
一級河川ではないが、この町で一番大きな川。両岸は整備され、芝生とタイルが張られている。所々にベンチ。先ほどまであった犬の散歩をする人や、ジョギングする人たちの影はすでに無い。取り残されたように、二つの人影。
染め上げられた赤銅色《あかがねいろ》の川面に少年――大介はどこから見つけてきたのか、足元に石山を築いている。一つ手にとり、思い切り川へ――。水面に三つの円を描き、石は川底に沈んでゆく。
「今度は良く飛んだじゃん」
ベンチに座り込み、ぼんやりした表情の女子高生――絵里。
「さっきより少ないよ」
大介は絵里の顔を見ることなく、すねた口調。
「そうだっけ?」
いつもならばまだみんなで遊んでいる時間だが、今日は週に一度の塾の日。みんなは塾に行ってしまった。ただ一人、塾に通っていない大介は絵里を独占でき、とても嬉しかった。
けれど。最初は二人で遊んでいたのだが、何をやっても二人だけだと面白くない。絵里は飽きてしまったのか、座り込んで動かない。時折大介に茶々《ちゃちゃ》を入れるものの、立ち上がる様子はない。だから大介も一人で遊んでいるしかない。
大介は石を拾ってまた投げる。
強く投げすぎたのだろう。石は大きな波紋を一つ作るとそのまま沈んでしまった。
「ストライク」
「違うって」
足元の石に手を伸ばしたところで、母・久子の声が響く。
「大介、ご飯よ。帰ってらっしゃい」
「わかったー!」
ベンチに座り込んだ絵里を見る。沈んでゆく夕日を見つめたまま、大介に目もくれない。
歩き出した大介だったが、
「絵里ちゃんはいつ帰るの?」
不安になって振り向く。このまま夕日とともにいなくなってしまいそうな気がして。
「もうちょっとしたら」
絵里は夕日を見つめたまま。
「もうちょっとってどのくらい?」
「大介、ご飯だって言ってるでしょ!」
久子の声が近づいてくる。大介は慌ててリュックから目覚まし時計を取り出す。
「これ、あげる」
ベンチの端に置き、駆けてゆく。
青い縁《ふち》の目覚まし時計。今日こそは久子が呼びに来る前に帰ろうと、腕時計を持ってない大介はリュックにいれて来たのだ。
水音にかき消されそうな小ささだが、正確に時を刻む音。大介の気配が消えると、絵里はそっと振り向き時計を手に取った。
一.
「月日が経つのは早いもんね」
回覧版を持っていったはずの母・久子が帰って来たのは、ゆうに一時間は経過した頃だった。いつもの井戸端会議で花を咲かせていたらしい。
「私も歳をとったもんだわ、嫌になる」
お茶とおせんべを手早く用意し、ソファに腰掛ける。チャンネルを替えながら、誰に言い聞かせる風でも無く自動的に、井戸端会議で聞いたニュースをしゃべっていく。
母がいないことを良いことにリビングのソファに深々と腰を掛け、テレビをつけっぱなしのまま、雑誌を広げていた大介は自室へ引き上げようかどうしようか迷いながら、適当に相槌を打っていたが、
「今、何て?」
いつもなら完全に聞き流してしまうところだったが、その名前に反応して。
「草上さんちの絵里ちゃん。もう二九歳ですって」
「へー」
当然の事と言えば当然。絵里は大介より六歳上なのだ。わかってはいても、他人の口から聞くと妙な焦りを覚える。
「早くいい人見つかればいいのにねぇ」
「あんな男女、一生無理だろ」
無関心を装って、再び雑誌に目を落とす。
大介が小さな頃、絵里は遊び仲間の一人だった。小学生に混じって、当時女子高生だったはずの絵里は探検ごっこや昆虫採集に参加していた。
だが、大介が小学六年になる頃、彼女は遊ぼうとしなくなった。受験勉強をしている、と聞いたのは誰からだったか。当時は意味がわからず、ただただ彼女がなぜ突然勉強などやり始めたのかに戸惑いを覚えたものだ。
仲間内で一番木登りが上手く、昆虫採集もお手の物。草木、虫の名前にも詳しい、絵里はそんなヤツだった。
「あら、そんなことないわよ。絵里ちゃん、今度お見合いするんですって。話がまとまればあっという間よ」
「み、見合い? 絵里が?」
「お見合い写真見せてもらったけど、なかなかの男前だったわよ」
母は相手の男の特徴、職業、趣味などをあげつらう。
「――こんな条件のいい相手、今時いないんじゃない?」
「絵里は、なんて?」
大介は無理やり平常を装い尋ねる。だが、顔が引きつっていないか、声が震えていないか、自分でも自信がない。
「喜んでるんじゃない?」
「……」
「ちょっと大介?」
不意に部屋を出て行く息子に声をかける。
「どこいくの?」
「部屋」
「夕飯には降りて来なさいよ」
男の子は成長すると何を考えてるんだかわからない。久子はそんな事を思いつつ、ろくな番組をやっていないのでテレビを切り、早々と夕食の仕度にとりかかった。
大介は自分の部屋に引き上げ、パソコンの電源を入れる。パソコンデスクの背後には天井まで届く本の背表紙の壁。部屋には机とベット、大きな本棚が押し込まれ余分なスペースは無い。けれど、本は増えつづけている。
下で読んでいた雑誌をもう一度開いてみるが、読む気にはならない。目を上げると、まだ起動中の画面。表示速度は遅い。いつも以上にイライラする。三年前にアルバイトしつつ一年ローンで買ったパソコンだから、仕方ない。
ようやくデスクトップが表示され、続いてメッセンジャーが起動する。
マックス:こんにちは。今日は早いね
彼女は偶然画面の前にいたらしい。彼女を示す画像は、いつもながらにふてくされた顔の犬。絵里の家で以前飼っていたブルテリアのマックスだ。
ds:こんにちは
マックス:この間言ってた本、面白かったよ
ds:良かった
ds:でも、良く見つけたね。あの本、なかなか手に入らないと思うんだけれど
マックス:友達に貸してもらった
絵里に本を勧めたのは大介。そして、貸したのも大介。絵里は「ds」の正体に気づいていない。
大介がメッセンジャーを始めたのは二年ほど前。話し相手を探し、相手の公開プロフィールを見ていた時、偶然、見知った犬の写真が目に入った。チャットしてみて、それが絵里であるとすぐにわかった。
マックス:他にもオススメある?
ds:あるけど……手に入りにくい
マックス:教えて!
マックス:探すから
タイトルをニ、三列挙する。どれも絶版か、廃盤で入手困難な物ばかり。しばらく絵里の書込みは無く、時間が過ぎる。
マックス:本当だ、無いね
マックス:あっても取り寄せ……
ネット上の本屋で検索をかけたのだろう。いつもながらに行動が素早い。
ds:友達に当ってみたら?
マックス:そうだね。そうする
マックス:持っててくれると良いな
絵里が『友達』に寄せる信頼。大介自身の事なのに、何故だか腹立たしい。今すぐ、全てを暴露してしまおうか?
ダメだ。そんな事はするべきじゃない。せっかく正体を伏せ、絵里と友達になっているというのに。
マックス:ds?
マックス:いない? ds?
しばらく返事を返さないでいると、絵里が呼びかけていた。
ds:ごめん
マックス:忙しいの?
ds:いや、別に
マックス:忙しいんだったら落ちるよ?
ds:大丈夫
ds:ちょっと話あるんだけど、いい?
マックス:いいよ、何?
絵里は面倒見が良い。人の相談にはすぐ乗ってくる。
ds:彼女結婚するかも
マックス:え? 告白しようかって言ってた相手?
マックス:ds結婚するの?
ds:そう
ds:違う。結婚するのは彼女
マックス:彼女が誰かと結婚するって事? 告白したの?
ds:そう。告白はまだ
マックス:まだ告白してないの? 早く言ったほうが良いよ
出来ればしてる。
どんなに時が経とうと絵里との年齢差は縮まない。絵里は常に年上で、自分は常に年下。その関係も変わらない。
自分はまだ若い。比べ、絵里は二九歳。自分が告白して、良い答えが返ってくる率は低い。その上、良い答えが返ってくるとしたら即結婚を迫ってくる可能性は限りなく高い。
どうすれば良いか。どうすれば最善なのか。
このところ、頭の中をフル回転させている問題は、当人には重大でも、他人にはたいした事の無い話なのだろう。アドバイスはやたら「告白しろ」しかない。
マックス:男は当って砕けろ
ds:わかってるけど、いざとなると言えない
ds:ストレートな方が好き?
マックス:告白はストレートな方が成功率高いと思うよ
マックス:って、もしかして私に聞いてる?
ds:そう
マックス:時と場合によるかな。あと、相手
相手。相手による……大介は頭を抱える。何度頭の中でシュミレーションしてみても答えはでてこない。
マックス:彼女、結婚するって誰と?
ds:結婚と言うか、見合い
マックス:じゃ、まだわからないじゃない?
ds:いや、こっちの分が悪過ぎ
マックス:彼女が見合い相手を気に入ってるの?
わからない。どうなんだろう? 好条件だと母は言っていた。そして、
「喜んでるんじゃない? ……喜んでる……喜んで……」
母の声が脳内に響く。絵里は、昔の絵里ならばそんな事はありえないと言いきれるけれど、現在の、三十歳目前の絵里はどうなのだろう? 見合いをするって事はやはり結婚願望があるって事で……。
ds:条件良ければ結婚するよな、見合いだし
マックス:いや、相手と会って見なけりゃわからないでしょ?
ds:マックスはどうする?
マックス:どうって?
ds:見合い相手が好条件で、特に相手もいないとき
「晩御飯出来たわよ~!」
母の声が家中に響き渡る。
「わかった!」
早く食卓へ向かわなければいけない。マックスはまだ応答のメッセージを入力していない。じりじりとした焦り。
「大介、早く降りていらっしゃい!」
「わかったって!」
「ダイスケ~♪」
母が歌い出した。一歩ずつ、踏みしめるように階段を上ってくる音が聞こえる。
夕食は全員そろってが唯一の家訓だから、守れない場合はかなり強制的だ。
ds:ごめん、落ちる
挨拶もそこそこにパソコンの電源を切る。
「夕飯出来たって母さん言ってるのよ~♪ 聞こえないの~♪」
「わかってるって」
大介が部屋のドアを開ければ、そこには母の姿。
「まったく、呼んだらさっさと来なさい。何してたんだか知らないけど」
「わかったって言っただろ?」
「聞こえません~♪」
「自分が歌ってるからだろ」
見せ付けるようにため息をつくが、母には通用していないことは今までの経験からわかりきっている。
二.
「あ、」
草上絵里は思わず声を上げた。パソコンの画面には相手の不在を告げるメッセージ。
「ds落ちたか……」
軽い落胆と共にメッセンジャーを閉じ、メールの確認を行う。たまたまメールチェックをしようとしていたところにdsがやってきたのだ。
絵里がネットを始めたのは大学生の頃。進学した大学は他県にあり、一人暮らしを始めた絵里にとって、友達は多いほど良かったからだ。
その頃は趣味の合う人とチャットやメールのやり取りをしていたのだが、大学卒業と共に離れ離れになった友人とやり取りをするだけになってしまった。仕事でパソコンを使っているのに、家に帰ってからパソコンに向き合う気にはなれなくて。
メッセンジャーを始めたのは数年前、友人に勧められてだ。dsと知り合ったのはその後、ここ二年くらいになるだろうか。彼の方から突然、絵里に話し掛けてきたのだ。最初は戸惑っていた絵里だったが、相手がただ犬好きで、自分と趣味の話以外しようとしない事がわかると、友達以上に彼との会話が楽しくなっていた。
「状況、似てるんだよね」
dsがどこの誰だか絵里は知らない。わかっているのは、彼とは趣味が合い、話が合い、告白したい彼女がいるってこと。
そして、その彼女は今度、自分と同じように見合いをするらしい。彼の気持ちなど知らないまま。
『条件良ければ結婚するよな、見合いだし』
彼の言葉が頭に引っかかる。まるで自分の事を言われているみたいで。
「いい人が見つかるまでのんびり探せば良いのよ」
「運命の人が早く見つかればいいわね」
「今は晩婚が流行りっていうのかしら? だから大丈夫よ」
そんな決り文句を聞きはじめたのはいつからだったか。何度も聞いているうち、現状で満足しているはずの絵里も三十歳目前に焦らなければならないような気になる。
結婚願望がないわけじゃないけれど、今すぐ結婚したいわけでもなく、相手もいない。それに「いい人」なんてものが道端にごろごろ転がっているわけでもなく、店先でワゴンセールをやっているわけでもない。どこでどう見つければいい物やら絵里には皆目検討がつかない。
「お見合い結婚か」
声に出してみて、おかしくなる。自分が結婚して、子供を育ててるなんて未来図が思い描けない。
両親に言わせればいつまでも子供っぽいせいなのかも知れないが……お見合いは、結婚を前提としてお付き合いする相手を選ぶのだ。相手は真剣、だからこちらも真剣に。自分に言い聞かせてはみるものの、やはりどこか滑稽さを感じずにはいられない。
『マックスはどうする? 見合い相手が好条件で、特に相手もいないとき』
dsの言葉が頭の中に響く。
「そりゃ結婚するわね」
なんて簡単に返せなかった。自分が今、その立場にあるから。
『どうする?』
どうすれば良いんだろう。条件が良いから結婚する? 付き合っているうち、相手を好きになる?
母に言われ、品書きは穴が開くほど目を通した。それは相手も同じだろう。相手のデータは持っているが、肝心の本人には会った事が無い。いや、明後日には国際ホテルで会食をする事になっている。
手元にある見合い写真を開く。写真の中の相手はお見合い用の妙に優しげな笑みを浮かべ微笑んでいる。
奇妙な事だ、と絵里は思う。相手のデータは知っているのに会った事が無い。会った事の無い相手に向かって、こうやって好意的な笑みを浮かべているのだから。
「この人と結婚するの? 私」
何だか妙だ。妙な具合だ。そう思うとクスクスと笑えてくる。
「何笑ってんの、絵里」
母が奇妙な顔で部屋の中を覗き込む。
「何?」
「夕飯、手伝って」
「はいはい」
パソコンの電源を切る。
三.
「あ、篠田君」
バス停の前に佇んでいるスーツ姿の人影に絵里は元気良く手を振る。篠田大介は絵里の姿を見とめはするものの、はにかんだような笑みを一瞬浮かべるだけですぐ硬い表情に戻る。
「おはよう!」
「……はよ」
通勤時間のバスは込み合うから、絵里は早起きして一つ前のバスに乗ることにしている。大介も同じ考えのようで、良く一緒のバスに乗り込む事になる。
絵里がやってきて数秒し、バスが滑り込んできた。今日もぎりぎり間に合った。絵里は胸をなでおろし、大介に近い席に陣取る。
「あのさ、篠田君。またまたで悪いんだけど小説貸してくれない?」
「何?」
大介はいつもながらにぶっきらぼうだ。けれど、大人びた仕草をしようと努力していることが伺え、小学校に入る前から知っている身としては成長したなぁと感慨深い。
近所の子供達の中で誰よりも絵里を慕っていたのが大介だった。常に絵里の後をついて歩き、絵里が何かするたびにキラキラしたまなざしを向けていた大介。絵里が大学へ進学し、一人暮らしをしている間に大介は変わってしまった。
見下ろしていたはずの絵里が逆に見下ろされ、どちらかと言うと可愛らしい容貌をしていたのに、すっかり男らしくなってしまった。かわいらしい声で「絵里ちゃん」と呼んでいたのに、生意気にも「絵里」と低い声で呼びはじめた。成長したというべきなのだろうが、昔を知る絵里にとってそれはちょっと寂しい。
「えーと――」
鞄から手帳を取り出し、昨日書きとめた書名を見せる。大介はさっと目を通し、
「あぁ、ある」
「じゃ、貸して」
「わかった」
ちらりと絵里の顔色をうかがう。
「何? こないだみたいにアイス奢って欲しいの?」
「いや、」
「好きでしょ? チョコミント」
「好きだけど……」
何故かすねたような口調。
「何? パフェ?」
「違う」
「じゃ何? ケーキセット?」
大介は昔から甘党だ。
「違うって。もういい」
「いいって何よ、お姉さんに言ってみなさい。こっちは社会人なんだからね」
言ってから、ふと気づく。大介も今年から社会人だった。
「いいって」
「良くないわよ」
年上としての体面ってものがある。一度言った言葉をそうやすやすと引っ込めるわけにもいかない。
終点の駅前に到着する。ぞろぞろと、他の乗客に続いてバスを降りる。その波に流されるように二人は駅へと向かう。
改札を抜けたところで絵里が大介を呼び止める。
「あ、そうだ。今日の六時に駅前の広場で待ってるから」
「え?」
「夕食奢ってあげるわ。高くないのを」
「本当にいいんだけど」
「待ってるからね」
一方的に宣言し、絵里は二番ホームに向かう。
四.
絵里の姿を見送った大介の頭は半分パニック状態だった。
まさか夕食に誘われるとは思ってもいなかった。絵里が奢るというのがちょっと難点だが……。
今朝、大介は告白しようと思っていたのだ。時と場所を選ぶべきだというのはわかっているが、時間がない。それに彼女と会うのは朝しかない。彼女の顔を見るため、彼女と会話するために早起きしているのだ。お見合いがいつなのか知らないが、とにかく日数が無い。
『男なら当って砕けろ』
覚悟を決め、いつも以上に早起きしてバス停で絵里を待っていたのに、絵里はギリギリにやってきた。バスの中でもいつもながらに絵里が一方的に話していたため、何も言う事が出来なかった。どうしようかと思っていた大介だったが、絵里の方から誘ってくれるとは思わなかった。
二人で夕食ってどこで? 何を?
期待と不安の並が交互に大介を襲う。
高くないところ……ファミレスはダメだ。蕎麦屋、うどん屋も却下。居酒屋はもちろんダメだろう。じゃあどこで?
あぁ、まるでデートみたいだな。スーツ良いやつ着てくれば良かった。二日前と同じスーツだし、これ。着替えに戻るか? いや、それは不自然か。でもちょっとばかりこれは……。
大介が乗る電車がまもなく到着すると言うアナウンスで、不意に我に返る。電車が入ってくるのは一番向こうのホームなのだ。急いでも間に合わない。一本電車を遅らせるしかない。
こんな状態で仕事出来るのか、俺? でも仕事休めないしな……。
大介は頭を抱えつつホームへ向かった。
五.
「ごめん、待った?」
絵里は遅れてやってきた。十七分の遅刻だ。待っている間、大介の心臓は緊張と不安で止まりそうだった。
朝と同じ薄い水色のスカートにフリルのついた白のブラウス。ジャケットはブラウスと同じ白。アクセサリーはシンプル。化粧はあくまでナチュラル。朝と違うのは髪をアップにまとめていること。いわゆるきれいなお姉さん、だ。全体的に清潔感があり、清涼感があり、何より良く似合っている。自分のこの格好はつりあいが取れているのだろうか。悩む大介のことなど絵里は気づきもせず、
「どこ行く? ファミレス? 居酒屋?」
チェーン展開している店の名前を数店あげる。
「いや、えっと――」
昼休みを半分つぶして探した店の名前を告げる。南欧風家庭料理を食べさせてくれるという、写真で見る限りこじゃれた雰囲気の店だ。赤レンガに深い緑色のツタの概観。内部は黒い木製テーブルに、ランプの落ち着いた灯り。カントリー風の手作り雑貨が壁を彩り、家庭的な雰囲気を醸しだす、欧風の田舎の一軒家。料理の値段もお手ごろとあったから、そう高くも無いだろう。
「どこそれ?」
「ここから歩いて五分くらい」
「へー知らなかった。彼女とデートで行ったの?」
「違う!」
思わず声が大きくなり、ギクリと大介は固まった。絵里は不自然な笑みで大介を伺う。
「ええっと……ごめんね……」
触れてはいけない過去に触れたのだと言うような気遣いで、絵里が無難に天気の話を始め、大介はパニックしかかった頭で相槌だけを打つ。
相手を先導する道すがら、大介には拷問のような時間が流れた。
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